第3話 小さな一歩、小さな魔力
魔王城の昼食は、決まって静かに始まる。
黒石の大窓から射し込む光が長卓を照らし、
焼き立てのパンと温かな料理の香りが、広間に満ちていた。
エイデンは一歳になった。
最近は、立ち上がろうとしては腰を落とし、
一歩踏み出そうとしては、ころんと尻もちをつく。
それを何度も繰り返す日々だ。
歩くには、まだ一歩足りない。
けれど魔王城の誰にとっても、その小さな挑戦は誇らしかった。
エイナは膝の上のエイデンをそっと抱き寄せ、
柔らかな髪を撫でる。
(……ゆっくりでよい。
歩ける日も、きっと近いじゃろう……)
傍らでは、給仕役のネフィラが控えていた。
黒月侍女団の制服を纏いながら、
エイデンを見るたび、自然と頬が緩んでいる。
◆
「黒霧の森、異常なし!
侵入もゼロ! 勇者っぽい足跡も見当たらない!
以上、ルーグレイン方面は今日も平和だよ!」
ミリアの明るい声が広間に響く。
「アーカディス周辺も……静か……かな。
強いて言えば……学院で、また爆発があったくらい……」
リュカが淡く笑って続ける。
「ヴァルグロスも問題なしだ。
ただ……一部の獣人は、まだ人間への恨みを引きずってる。
油断はできねぇな」
グロンが短く言葉を落とし、
「外交は……と言いましても、現在はほぼ鎖国状態にございます。
ゆえに、国内情勢は安定しております」
セラフィルが静かに締めた。
エイナは小さく頷く。
「皆、ようやっておる。感謝するぞ」
◆
五柱の報告が一段落し、広間に穏やかな沈黙が落ちた。
その空気を、勢いよく切り裂く声があった。
「ででーん!!
デザート持ってきたよーーー!!」
ミリアが皿を掲げて乱入する。
「……姉様。
それ……頬に、白いのついてる……」
リュカが静かに指摘した。
「は!?
た、食べてないし!? 味見だし!!」
「……味見で……
そこまで付くことは、ないのだわ……」
ラズリが影を揺らしながら呟く。
「ミリア……」
セラフィルの視線が冷たく刺さり、
「姐さん……
子どもより先に食べるのは……」
ネフィラが呆れたように肩をすくめる。
ミリアは机に額をつけたまま呻いた。
「なんでよぉ……」
◆
その間にも、ネフィラは手際よく動いていた。
小皿をエイデンの前に置き、スプーンを差し出す。
「はい、あーん♡」
ぱくり。
その瞬間――
五柱が一斉に、前のめりになった。
「……わ、私も……あげたい……」
リュカが遠慮がちに手を伸ばし、
「エイデン様には、皆で順に――」
セラフィルが姿勢を正し、
「俺がやるつもりだった」
グロンは腕を組み、
「……私が先なのだわ……」
ラズリの影が寄る。
「譲れぇぇぇ!!!」
ミリアが机を叩いた。
ネフィラは、涼しい顔で告げる。
「魔王様から“専属”って言われてるから〜♡
エイデンくんのデザートは、あたしの担当ね〜♡」
次の瞬間、五柱は揃って沈黙した。
誰も反論できない。
「なんでよぉ!!」
吠えるのは、ミリアだけだった。
◆
そんな騒ぎの中――
エイデンが、卓の端に小さな手をついた。
ぐっと力を込め、立ち上がる。
「……お?」
ミリアの声が止まる。
よいしょ、と足を前へ。
ふらりと揺れながらも、エイデンは歩き出した。
よち、よち。
小さな足音が、床に響く。
「……歩いた……」
「……エイデン……」
「すげぇな……」
五柱の声が、揃って震えた。
ネフィラは胸の前で手を合わせ、
思わず目を潤ませる。
エイナは、静かに立ち上がり、両腕を広げた。
(……やっと……
この子の“歩く”瞬間を見られた……)
◆
――だが、次の瞬間。
空気が、ぽん、と弾けた。
赤子の無意識から、
ほんのわずかな魔力が漏れ出したのだ。
「きゃっ!?」「うわっ!?」「ひゃんっ!?」
給仕していた黒月侍女団のスカートが、
ばさあああっ!! と一斉にめくれ上がる。
黒いフリル、白いレース、
そして、時々大胆すぎる布面積。
五柱は硬直。
侍女たちは悲鳴を上げ、慌てて裾を押さえた。
エイナだけが――
無言で、それを見ていた。
(……白……黒……
お主……なかなか攻めるのう……
この者は……大胆……)
(……だ、旦那様には……
こういう秘めた布を……?
わ、わらわも……いずれ……
……な、何を考えておるのじゃ、わらわは!!)
魔王らしからぬ、内心の赤面騒動だった。
◆
エイデンは、その隙を縫うように歩き、
エイナの足元へ辿り着く。
小さな手が、衣をぎゅっと掴んだ。
「……ふふ。
よく歩いたの」
エイナは抱き上げ、胸に引き寄せる。
(……この子を守る。
わらわが。五柱が。ネフィラが。
この城の皆で──育てていくのじゃ……)
五柱は騒ぎ、
ネフィラは泣き笑いし、
黒月侍女団は赤面したまま、何事もなかったように立ち直ろうとしていた。
その中心で、エイデンは楽しげに笑っている。
――こんな時間が、もっと続けばよい。
エイナはそう願いながら、
小さな頭を、静かに撫で続けた。




