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第3話 小さな一歩、小さな魔力


 魔王城の昼食は、決まって静かに始まる。

 黒石の大窓から射し込む光が長卓を照らし、

 焼き立てのパンと温かな料理の香りが、広間に満ちていた。


 エイデンは一歳になった。


 最近は、立ち上がろうとしては腰を落とし、

 一歩踏み出そうとしては、ころんと尻もちをつく。

 それを何度も繰り返す日々だ。


 歩くには、まだ一歩足りない。

 けれど魔王城の誰にとっても、その小さな挑戦は誇らしかった。


 エイナは膝の上のエイデンをそっと抱き寄せ、

 柔らかな髪を撫でる。


(……ゆっくりでよい。

 歩ける日も、きっと近いじゃろう……)


 傍らでは、給仕役のネフィラが控えていた。

 黒月侍女団(メイド)の制服を纏いながら、

 エイデンを見るたび、自然と頬が緩んでいる。



「黒霧の森、異常なし!

 侵入もゼロ! 勇者っぽい足跡も見当たらない!

 以上、ルーグレイン方面は今日も平和だよ!」


 ミリアの明るい声が広間に響く。


「アーカディス周辺も……静か……かな。

 強いて言えば……学院で、また爆発があったくらい……」


 リュカが淡く笑って続ける。


「ヴァルグロスも問題なしだ。

 ただ……一部の獣人は、まだ人間への恨みを引きずってる。

 油断はできねぇな」


 グロンが短く言葉を落とし、


「外交は……と言いましても、現在はほぼ鎖国状態にございます。

 ゆえに、国内情勢は安定しております」


 セラフィルが静かに締めた。


 エイナは小さく頷く。


「皆、ようやっておる。感謝するぞ」



 五柱の報告が一段落し、広間に穏やかな沈黙が落ちた。

 その空気を、勢いよく切り裂く声があった。


「ででーん!!

 デザート持ってきたよーーー!!」


 ミリアが皿を掲げて乱入する。


「……姉様。

 それ……頬に、白いのついてる……」


 リュカが静かに指摘した。


「は!?

 た、食べてないし!? 味見だし!!」


「……味見で……

 そこまで付くことは、ないのだわ……」


 ラズリが影を揺らしながら呟く。


「ミリア……」


 セラフィルの視線が冷たく刺さり、


「姐さん……

 子どもより先に食べるのは……」


 ネフィラが呆れたように肩をすくめる。


 ミリアは机に額をつけたまま呻いた。


「なんでよぉ……」



 その間にも、ネフィラは手際よく動いていた。

 小皿をエイデンの前に置き、スプーンを差し出す。


「はい、あーん♡」


 ぱくり。


 その瞬間――

 五柱が一斉に、前のめりになった。


「……わ、私も……あげたい……」


 リュカが遠慮がちに手を伸ばし、


「エイデン様には、皆で順に――」


 セラフィルが姿勢を正し、


「俺がやるつもりだった」


 グロンは腕を組み、


「……私が先なのだわ……」


 ラズリの影が寄る。


「譲れぇぇぇ!!!」


 ミリアが机を叩いた。


 ネフィラは、涼しい顔で告げる。


「魔王様から“専属”って言われてるから〜♡

 エイデンくんのデザートは、あたしの担当ね〜♡」


 次の瞬間、五柱は揃って沈黙した。

 誰も反論できない。


「なんでよぉ!!」


 吠えるのは、ミリアだけだった。



 そんな騒ぎの中――

 エイデンが、卓の端に小さな手をついた。


 ぐっと力を込め、立ち上がる。


「……お?」


 ミリアの声が止まる。


 よいしょ、と足を前へ。

 ふらりと揺れながらも、エイデンは歩き出した。


 よち、よち。


 小さな足音が、床に響く。


「……歩いた……」


「……エイデン……」


「すげぇな……」


 五柱の声が、揃って震えた。


 ネフィラは胸の前で手を合わせ、

 思わず目を潤ませる。


 エイナは、静かに立ち上がり、両腕を広げた。


(……やっと……

 この子の“歩く”瞬間を見られた……)



 ――だが、次の瞬間。


 空気が、ぽん、と弾けた。


 赤子の無意識から、

 ほんのわずかな魔力が漏れ出したのだ。


「きゃっ!?」「うわっ!?」「ひゃんっ!?」


 給仕していた黒月侍女団(メイド)のスカートが、

 ばさあああっ!! と一斉にめくれ上がる。


 黒いフリル、白いレース、

 そして、時々大胆すぎる布面積。


 五柱は硬直。

 侍女たちは悲鳴を上げ、慌てて裾を押さえた。


 エイナだけが――

 無言で、それを見ていた。


(……白……黒……

 お主……なかなか攻めるのう……

 この者は……大胆……)


(……だ、旦那様には……

 こういう秘めた布を……?

 わ、わらわも……いずれ……

 ……な、何を考えておるのじゃ、わらわは!!)


 魔王らしからぬ、内心の赤面騒動だった。



 エイデンは、その隙を縫うように歩き、

 エイナの足元へ辿り着く。


 小さな手が、衣をぎゅっと掴んだ。


「……ふふ。

 よく歩いたの」


 エイナは抱き上げ、胸に引き寄せる。


(……この子を守る。

 わらわが。五柱が。ネフィラが。

 この城の皆で──育てていくのじゃ……)


 五柱は騒ぎ、

 ネフィラは泣き笑いし、

 黒月侍女団(メイド)は赤面したまま、何事もなかったように立ち直ろうとしていた。


 その中心で、エイデンは楽しげに笑っている。


 ――こんな時間が、もっと続けばよい。


 エイナはそう願いながら、

 小さな頭を、静かに撫で続けた。

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