第2話 黒薔薇の庭で、魔王は誓う
魔王城アレクサンドリアの朝は、雪が積もるほど静まり返っていた。
黒石の壁に触れた粉雪が、かすかな音を残して溶けていく。
中庭に広がる《黒薔薇の庭園》だけが、薄い光を抱いていた。
霜をまとった黒薔薇は、闇の中でひっそりと灯る魔力の花だ。
噴水は薄氷に覆われ、空気は凛と張りつめている。
その中心に、魔王エイナは静かに座していた。
膝の上には、一年を迎えた幼子――エイデン。
拾い上げた日から、まだわずかな月日しか経っていないはずなのに。
その温もりは、確かに増している。
(……よう育っておる。
よい……実に、よい……)
エイナはそっと、赤子の頬にかかる柔らかな髪を撫でた。
呼吸は穏やかで、魔力の揺れも落ち着いている。
「魔王様〜、どーぞ♡
今日の《血香茶》ね〜」
聞き慣れた声が、庭へ軽やかに届いた。
ネフィラが、湯気の立つ茶杯を差し出してくる。
赤黒い《血珠》が溶け、ほんのりと甘い血の香りが広がった。
「……温度も香りも、わらわに合わせてあるのぅ」
「当然♡
エイデンくん抱っこしながらでも、飲みやすい角度だよん?」
(……この子に任せておけば、
危ういことは起きぬ……)
改造された短いスカートのメイド服が揺れる。
だが、その足音はひとつも響かない。
動きは侍女というより、むしろ――暗殺者のそれだった。
穏やかな朝。
――のはずだった。
「へっ……へっ……ぶおっしゅばあああっ!!」
爆発のようなくしゃみが、庭ごと揺らした。
黒薔薇が“ばさっ”と跳ね、霜が散る。
「……ミリア。静かにせぬか」
「ちょ、ちょっと! 魔王様!?
今のはマジで偶然!!
あたし別に――」
「……姉様。
今の、完全におじさんの音だったよ……?」
淡々と刺す声。
悪魔族の最高魔術師、リュカだった。
「おじさん言うなぁぁぁ!!
ピチピチ悪魔なんだけど!?!?」
「……ほんとのピチピチは、
自分で言わないんだよ……?」
「リュカあああああ!!」
黒薔薇の庭に、騒音が跳ね返る。
「……ミリア、おじさんだったのだわ……」
影の中から顔を出したラズリが、静かに告げる。
「ラズリ!?
なんで刺さるやつ言うの!?!?」
「……事実なのだわ……」
グロンまで、無言で頷いた。
「確かにデカかったな。
完全におっさんの音だった」
「なんで!?
グロンまで追撃してくんの!?!?」
セラフィルはため息をひとつ吐き、優雅にスカートを整える。
「ミリア様……
後ほど、庭のお片付けをお願いいたします」
「全員で殺しにきてる!?!?」
エイナは小さく微笑み、
膝の上で眠るエイデンの頬を撫でた。
(……騒がしい連中じゃ……
ふむ……)
――と、その時。
エイデンが、小さく喉を鳴らした。
ほんの一拍。
庭が、しん……と落ち着く。
黒薔薇の影が揺れ、
噴水の氷膜が、かすかに鳴った。
(……もう一年……
早いものじゃ……)
しかし、胸の奥にそっと沈む影があった。
(……いずれ、勇者どもとの対峙は避けられぬ。
わらわが剣を取らずとも……
エイデンが真実を知れば、この子の歩みは止まらぬじゃろう)
焼けた村の匂い。
歪んだ光。
“正義”と謳われた破壊の記憶が、脳裏をよぎる。
(……その時、五柱はこの子の隣に立つじゃろう。
ネフィラも迷わぬ。
わらわもじゃ)
剣を握り、
迷いと痛みの中で立とうとする少年の影が、
かすかに未来から差し込んだ。
(この子が復讐を選ぶなら――
その刃が折れぬよう、支える。
赦しを選ぶなら――
その心が壊れぬよう、抱きしめる。
どちらであろうと……
この子の未来は、わらわが守る)
その誓いは、じわりと形を取る。
(セレヴァールの民も、この子も。
わらわは、すべて守る。
そのためなら――)
決意が静かに結ばれた、その瞬間。
世界のほうが、わずかに軋んだ。
空気が沈むのではない。
――圧が、満ちる。
黒薔薇がひとつ、音もなく折れた。
噴水の影が、深く黒く沈む。
霧が、一拍で蒸発する。
世界が、“魔王の威”を認識し直した。
グロンは拳を握り、
ラズリの影が膨らんでは収まる。
ネフィラは魔力の波を静かに受け止め、
セラフィルは胸に手を当てて息を整えた。
リュカは、眼差しだけで理解する。
(……たとえ世界すべてが敵になろうとも、
わらわが押し返すまでよ)
その闇は暴れず、
ただ深く、静かに沈む。
だが誰もが、その力の“片鱗”を確かに見た。
「魔王様〜?
今の……けっこう凄かったよん?」
「……ああ。
少し、考えごとをしておっただけじゃ」
「んふふ、そゆとこ好き♡」
「からかうでない」
エイナは咳払いし、五柱へ視線を向ける。
「……お主ら。
庭を散らかした罰として、後で片付けよ」
「えぇぇ!?」
「……はい……」
「了解した」
「うむ」
「承知いたしました」
「りょーかい♡」
再び、黒薔薇の庭に賑やかさが戻る。
だがエイナは、胸の奥で。
先ほどの誓いが、まだ静かに熱を帯びているのを感じていた。
(……この子の未来が、どれほど険しくとも。
わらわが守る。
それが、わらわの選んだ“母”としての道じゃ)
膝の上の小さな命が、安らかな寝息を立てる。
黒薔薇の庭に、柔らかな朝光が差し込んだ。
──こうして、魔王家の朝は、今日も続いていく。




