第1話 闇が家族になる朝
魔王城アレクサンドリアの朝は、いつにも増して深く静まり返っていた。
外では雪が絶え間なく降り続き、白い世界が黒石の城をやわらかく覆っていく。
冷たい石壁に反射する音はなく、魔灯の淡い光だけが、闇の広間へほんのりと温度を落としていた。
凍えの気配はない。ただ、深い闇の呼吸だけが、ゆるやかに満ちている。
エイデンは、まだ言葉すら知らぬ赤子だった。
小さな胸が上下するたび、空気がかすかに震える。
それは魔力とも、風とも違う。
名を与えられていない、静かな“ゆらぎ”。
その揺らぎを腕の中で感じながら、魔王エイナはふっと息をついた。
(……やはり、この子……
ただの人の子ではないの……)
魔王らしからぬほど穏やかな手つきで、その髪を撫でる。
その瞬間、
魔灯の揺らぎが、エイデンの呼吸と、ほんの一瞬だけ同じ周期で重なった。
エイナは、それを見なかったことにする。
撫でた手を胸元へ引き戻し、わずかに指を握る。
――王としての判断を、無意識に飲み込む仕草だった。
◆
「魔王様〜? 入るよん♡」
軽いノックの直後、扉がひょいと開く。
ネフィラが、滑り込むように入室した。
黒月侍女団の制服は彼女仕様に大胆に整えられているが、足運びに音はない。
その動きは、侍女というよりも戦士――あるいは暗殺者のそれに近かった。
「は〜いエイデンくん♡
今日も世界一かわいい〜♡」
エイナの腕から赤子を受け取る仕草は、驚くほど繊細だ。
「……わらわの子じゃぞ」
「分かってるってば〜♡
でも抱っこは、上手い人がやるべきなんだよん?」
その言葉が終わるより早く――
「エイデーーン!! 来たぞぉ!!」
爆ぜるように扉が開き、ミリアが飛び込んでくる。
「ミリア、静かにせんか!」
「無理無理!
エイデン見たら叫ぶに決まってるじゃん!!」
突撃してきたミリアを、ネフィラがひょいとかわす。
「ミリア様、近い近い〜。
赤子に息かかりまくり〜」
「いいじゃん!
赤ちゃんって距離感だいじでしょ!」
◆
「……ラズリ、そんな所で何してるの〜?」
ネフィラの視線に応えるように、部屋の隅の影がふわりと揺れた。
いつからいたのか分からぬ気配で、ラズリが立っている。
「……赤子、落としたら……大変なのだわ……
だから……ここで見守っていたのだわ……」
ミリアですら気づかなかった、その存在感の薄さ。
「お主は優しいの。近う寄ってよいぞ」
エイナの声に、ラズリはわずかに逡巡しながら近づき、
エイデンの頭をそっと撫でた。
影が、寄り添うように揺れる。
◆
「……魔王様。少し気になる反応があります」
気配もなく、リュカが入室する。
声は低く、分析と報告のためのものだった。
「このゆらぎ……通常の魔力循環ではありません。
内部で自律する、不規則な変動です」
「……感じておったか」
「はい。危険性はありませんが……赤子としては異例です」
淡々とした声音の奥に、
研究対象以上の温度が、確かに滲んでいた。
◆
「……騒がしいと思ったら、やっぱりここか」
低い声とともに、グロンが入室する。
大きな影が伸び、ミリアが反射的に肩を跳ねさせた。
「ほれ見ろ、赤子が驚く」
「なんであたしのせいなの!?」
グロンは答えず、エイデンへ視線を落とす。
「……本当にちっこいな。
……よく生きてた」
その短い言葉に、
武人としての重みが宿っていた。
◆
「皆様、赤子には静寂が必要でございますよ」
セラフィルが優雅に姿を現す。
抱き姿勢、毛布、室温――すべてを一瞬で整える。
「魔王様、この角度が最も負担が少ないかと」
「……うむ」
エイナが素直に従い、
ミリアとネフィラが揃って目を丸くする。
◆
気づけば、自然と円ができていた。
魔王、五柱、ネフィラ。
そして中心には、世界をまだ知らぬ小さな赤子。
「……この子は、わらわの家族じゃ。
そして――お主らの家族でもある」
その一言で、空気が変わる。
「当然じゃん!!」
ミリアが即答し、
ラズリは胸に手を当てて頷く。
「……家族……なのだわ……」
グロンは短く肯き、
セラフィルは深く礼をした。
リュカは何も言わない。
だが、細められた瞳が、静かに喜びを帯びていた。
◆
「……ネフィラ」
「なに〜?」
「このまま、エイデンの傍におれ。
お主の抱き方が、一番落ち着くようじゃ」
それは明言ではない。
だが、確かな任命だった。
「は〜い♡
任せといてよん♡」
「なんでネフィラだけなの!?」
ミリアが、即座に噛みつく。
「ミリア様、
抱っこしながら走る人には任せられないよん〜」
「走らないし!!
……いや、ちょっとは走るかもだけど!!」
「……姉様。
まずは、自分の部屋を片付けた方が……」
静かに刺すような、リュカの一言。
「なんで今それ言うの!!」
「……この前……
エイデン、ひっくり返しそうになってたよ……?」
「~~っ!!」
言葉を失ったミリアに、
ラズリがぽつりと落とす。
「……ミリアは……
赤子より元気なのだわ……」
その瞬間――
エイデンが、すやすやと寝返りを打った。
誰の声に反応したのかは、分からない。
ただその一拍だけ、
魔王城の闇が、ほんのわずかに揺らいだ。
◆
無意識に、
ネフィラの足が半歩前へ出る。
次の瞬間、本人だけが気づき、
何事もなかったように戻った。
誰も、指摘しない。
◆
魔王城の闇が、
ほんのわずかに光を帯びた――ように見えた。
エイナは、その光を直視しない。
ただ、赤子を抱く腕に、わずかに力を込める。
──こうして、魔王家の物語は静かに幕を開ける。
この子が、どの光へ歩むのか。
どの闇を選ぶのか。
まだ、誰も知らない。




