プロローグ最終話 闇は子を抱き、光は偽りの勝利を掴む
魔王城アレクサンドリアの回廊は、常と変わらぬ静けさに包まれていた。
黒石の床に灯りが細く落ち、揺れる炎が長い影をつくる。外は極寒の吹雪でも、この城内には凍えの気配ひとつない。
ただ、深い闇の呼吸だけがゆるやかに満ちていた。
その中を、ひとつの影がゆっくり歩いていく。
魔王エイナ・インフェリアールは、腕に抱く赤子――エイデンの髪を整えた。
小さな吐息がふわりと指をくすぐり、そのたびにエイナは目を細める。
「……よく眠っておる。」
声は魔王というより、ひとりの母の響きだった。
軽い靴音が近づく。
「魔王様〜? 呼んだ〜?」
黒月侍女団――魔王直属のネフィラ・クレスタが姿を現す。
普段はギャル調の声色だが、エイデンを見ると一瞬で表情が柔らかく沈んだ。
「ネフィラ。」
名を呼ぶだけで、命が添えられる。
「この子を任せる。わらわが戻るまで、決して離すでない。」
ネフィラは赤子を受け取り、器用に抱き位置を整え、静かに頷いた。
「……了解。絶対に守るよ。」
エイナが振り返る。
そこには、五柱が静かに控えていた。
悪魔族のミリア、リュカ・エーデンヴァルト姉妹。
ダークエルフのラズリ・マール。
ヴァンパイアのセラフィル・ノクターン。
ハイオークのグロン・バルカン。
魔王領最強の影たちは、ひとつの呼吸で膝を折った。
「ゆくぞ。勇者どもと相まみえる。お主らはわらわの背に立て。」
「「「「「御意。」」」」」
その瞬間――
エイナの足元から深紅の魔力がふわりと滲む。
空間に細いひびが走り、黒霧がそこへ吸い込まれるように流れ込む。
ひび割れは円を描き、円は闇の口を開いた。
魔王だけが開ける深淵の転移陣。
エイナと五柱は、その闇へ沈んでいった。
◆
焼け落ちたエルベ村に、夜風が吹き抜ける。
焦げて崩れた梁、冷めた灰、足元で砕ける木片。
その中央に、勇者リュート一行が立っていた。
リュートは雷光の大剣《雷光のブレイザー》を肩に担ぎ、暗い表情のまま村跡を見つめている。
ルナは魔導書を抱え、焼け焦げた木箱から魔族製の金属具を拾い上げていた。
バルグは巨斧を地に突き立て、まだ高鳴る血を押し込めるように息を吐く。
セリス・グレイスは、仲間の傷を確かめるため治癒術の準備をしていた。
「……《ヒーリングサージ》。はい、これで大丈夫です。」
淡い光がバルグの傷口を滑らかに閉じていく。
「おお、もう痛くねぇ。助かるぜ、セリス。」
「無茶をしなければ……もっと楽なのですが……」
優しい声音の奥に、別の痛みが沈んでいた。
焼け落ちた家々。
逃げ惑った人々の影。
助けるべき命が、間に合わなかったという現実。
「……リュート様。」
セリスは勇者の背に声をかける。
「村の者たちは……本当に魔族の手先だったのでしょうか。
協力を拒んだだけで……」
リュートは振り返らない。
「魔王領に近い。魔族の物資もあった。俺たちの要請を拒んだ。」
握る柄に、力が込められる。
「……だから斬った。それだけだ。」
迷いは、欠片もなかった。
ルナは木箱を軽く蹴り、中身を見せる。
「見ての通りよ、セリス。魔族製の酒樽、金属具、薬。
“ただの交易”かもしれないけど……
魔王と繋がっている可能性があるなら、背中は預けられない。」
夜気が、紫の瞳に反射する。
「仲間が死ぬ可能性を、残すわけにはいかないの。
だから切り捨てる。それだけ。」
バルグが斧を担ぎ直して笑った。
「ボスが“敵だ”って言ったら敵だろ。
人間を守る戦なんだ、迷う必要なんてねぇよ!」
セリスは言葉を飲み込む。
女神ではない。聖人としてでもない。
ただ一人のヒーラーとして――
本当は、誰かを救えたかもしれない。
だが、勇者の命令には逆らえない。
「……はい。」
それが、彼女に選べる唯一だった。
風が止む。
影がすう、と伸びる。
空気が沈み、夜が震えた。
「……魔力反応……!? これ……桁違い……!」
ルナが息を呑む。
「おい……来るぞ……!」
バルグが斧を構える。
「リュート様……!」
セリスも反射的に身を引いた。
リュートは雷剣を構え、黒い影の膨らみを睨みつけた。
「来い……魔王。」
黒霧が爆ぜ、闇が裂ける。
そこから現れる影――魔王エイナ。その背に五柱。
ルナが囁くように言った。
「……本物……魔王……五柱まで……」
エイナの紅い瞳が、勇者を射抜く。
「エルベ村は、魔族を拒まぬ善き隣人じゃった。
誇りある民を焼いた理由……聞かせてもらおう。」
「理由は要らない。悪は討つ。それだけだ。」
「そうか。」
風が鳴る。
リュートが踏み込んだ。
「《雷閃撃》!!」
雷光が地を裂き、斬撃がエイナへ走る。
エイナは剣を軽く傾けて受け流した。
(……わらわの指一つ動かすまでもない力よ。)
雷撃は軌道を外れ、虚空へ散る。
ルナが杖を掲げる。
「《フォールスター・レイ》!」
星光が降り注ぐ。
エイナは黒霧を薄くまとわせ、一閃で振り払った。
「……眩しいだけじゃ。」
バルグが地を蹴る。
「おらぁッ!! 《クラッグチャージ》!!」
「《アビス・リング》。」
足元に黒円が広がり、バルグは滑って転んだ。
「うわっ!? なんだこれ!」
「力のみでは、わらわには届かぬ……」
セリスが薄膜を展開し、防御する。
「《ホワイトシールド》――っ!」
エイナの黒刃が膜へ叩きつけられ、セリスの足が震えた。
「く……まだ……耐えられます……!」
勇者たちは押されていた。
だが気づかない。
エイナが“圧倒的に手加減している”ことに。
(弱すぎて、どう見せ場を作るか悩むほどじゃ……)
本気を削ぎ、速度を削り、わざと当てさせる。
肩に浅い傷を作らせ、外套を焦がさせ、足をずらす。
ほんのそれだけで――
「……今の、当たった……!」
「押してるぞ!!」
「届く……! 魔王に、俺たちの剣が……!」
後方の五柱は――遠足だった。
「今日の晩ごはん何かな〜? 黒茸スープ飲みたいんだけど。」
「……黒茸、二つしか残ってなかったのだわ。」
「……じゃあスープ薄いか……煮込みの方が……」
「肉でいい。」
「……皆様、戦闘中でございます……」
「え〜だって、魔王様前出ると暇じゃん?」
勇者たちの怒りが爆ぜた。
「侮って……ッ!!」
「ふざけんなよ魔族がぁあ!!」
「叩き潰すッ!!」
リュートは雷を収束し、叫ぶ。
「《雷鳴断罪》!!」
白雷が世界を飲み――
エイナは静かに目を閉じた。
(戯れはここまで。よいか。)
「《アビス・ディゾルブ》。」
雷光が収束した瞬間、
魔王の身体は灰となり、夜へ散った。
◆
「……倒した……」
リュートが剣を下ろす。
「魔王を……俺たちで……!」
「ほんとに……終わったんだ……!」
「見たか魔王ォ!!」
セリスは胸に手を当て、仲間の無事に息をつく。
疑う者は誰もいない。
魔王は倒れた――と。
◆
黒霧の森の奥。
金色の六芒星が静かに輝き、空間に門を描く。
「《ゲート・オブ・オーダー》――開門。」
リュカの詠唱で秩序の転移門が開く。
そこから――傷ひとつないエイナが歩み出た。
五柱も続く。
ミリアが半泣きで詰め寄る。
「も〜っ!! 倒れ方リアルすぎ!! 心臓止まるかと思った!!」
「すまぬ、すまぬ。演目ゆえな。」
リュカが仕事の声で報告する。
「……勇者たちは完全に信じ切ってます、魔王様。」
「うむ。上出来じゃ。」
ラズリが影を揺らす。
「これで……勇者たちの遠征は一度止まるのだわ。」
セラフィルが深く頭を下げる。
「無用な死を避けるための最善の策でございました。」
グロンが短く言う。
「本気でやれば一瞬だ。倒れたふりが一番だ。」
「そうじゃ。」
エイナは遠く魔王城を思うように紅い瞳を向けた。
「わらわは戦うためだけに生きておらぬ。
守るべき者ができたのじゃ。
ならば選ぶ道も、変わる。」
静かな決意が宿る。
「勇者どもよ……好きなだけ勝利に浸るがよい。
その“光”が何を照らしておるのか――
いずれ知る日が来よう。」
ふっと、紅い表情が柔らぐ。
「さあ戻るぞ。……エイデンが待っておる。」
深紅の闇が開き、魔王と五柱を包んだ。
夜風だけが残り、森は再び沈黙へと帰る。
この夜――
世界は「勇者が魔王を討った」と信じて眠りについた。
その裏で魔王は、ひとりの子を抱くために闇を選ぶ。
闇は決して光の敵ではない。
小さな灯が絶えぬよう――
その周りを静かに包むためにあるのだ。
エイデン・インフェリアール。
その名を抱いた幼子が、どの光へ、どの闇へ歩くのか――
この夜を知る者は、まだ誰もいない。




