第9話 雪市事件――家族の怒り
雪の音が、消えていた。
さっきまで頬を刺していた風の唸りも、遠くでざわめいていた声も、どこかへ吸い込まれたみたいに消えている。
世界から、音だけが抜け落ちたようだった。
エイデンは、ネフィラの胸元に顔を押しつけていた。
この静けさは――
“こわい人が近づいてくる合図”。
そんな気がして、無意識のうちに、小さな手で服をぎゅっと掴む。
けれど。
雪を踏む足音の主を見た瞬間、胸の奥のこわばりが、ほんの少しだけほどけた。
エイナがいた。
その背後には、ミリア、リュカ、ラズリ、セラフィル、グロン。
魔王城で、何度も見てきた家族の顔ぶれ。
なのに今日は――
誰も、笑っていなかった。
怒鳴っているわけでもない。
声を荒げているわけでもない。
それでも、空気は石みたいに重くて、息を吸うだけで胸の奥がきりきりと痛む。
(……おこってる……)
幼い頭でも、それだけは分かる。
自分を守ろうとして、怒ってくれている。
それが少し、うれしくて――
でも、やっぱり、こわかった。
視界の端には、倒れている身体がいくつも並んでいる。
何人いるのか、エイデンには分からない。
ただ、血の赤と雪の白がぐちゃぐちゃに混ざって、景色の輪郭を溶かしていた。
その中で、まだ立っている獣人は、ひとりだけ。
さっき、自分に刃を向けてきた男。
それだけは、はっきり分かった。
他の襲撃者たちは、すでにネフィラの短剣に貫かれている。
群衆に混じっていた獣人たちは、皆、顔をこわばらせたまま立ち尽くし、誰ひとり血を流していなかった。
雪に散っている血は――エイデンに刃を向けた者たちだけのもの。
まるで、そこだけを狙い撃ちしたかのような光景。
周囲の魔族たちは、息を呑んでそれを見つめていた。
その視線の意味を、エイデンはまだ知らない。
◆
「ふーん……」
沈んだ空気の中で、ミリアの声だけが、少し軽く響いた。
いつもの明るい調子に似ている。
けれど、そこには、いつもの熱っぽさがなかった。
――目が、笑っていない。
「アンタらさ」
ミリアが、一歩、前へ出る。
たったそれだけで、足元の雪が、びくりと震えたように感じられた。
「エイデンを、殺そうとしたんだ?」
黒炎が、彼女の足元から音もなく広がる。
じり、と雪が焼ける匂いが立ちのぼり、エイデンは思わず、ネフィラの胸に顔をうずめた。
「……殺すよ」
ミリアの声は、驚くほど静かだった。
「アンタらだけじゃない。
この国の獣人――全部」
一拍。
「エイデン泣かせた種族なんて、いらないからさ」
その一言で、場の空気が、さらに冷え込んだ。
近くで様子をうかがっていた魔族の露店主が、小さく肩をすくめる。
雪市の入口にいた若い侍女ふたりも、その場で固まったまま動けなくなった。
冗談を言っている顔じゃない。
本当に、言った通りにしてしまいそうな顔だった。
「ミリア、やめろ」
グロンの声が、雪を揺らすように低く響く。
「ここは魔王様の場だ。
勝手に、種族ごと滅ぼす話はするな」
「……分かってるよ」
ミリアは、ぽつりと答えた。
それでも、足元の黒炎は、まだ消えようとしなかった。
◆
その横で、リュカが静かに前へ進み出る。
赤と銀灰のオッドアイが、ゆっくりと獣人たちへ向いた。
一瞬、瞳から“色”が抜けたように見えた。
怒りでも、悲しみでもない。
何かを並べ、削り、必要なものだけを残そうとする――計算の目。
「……生かす意味……ある……?」
雪の上に落ちたその言葉は、ミリアの怒声よりも冷たく、獣人たちの背筋を鋭く刺した。
エイデンには、意味はよく分からない。
けれど、その声を聞いた瞬間、胸の中にあった“あたたかい場所”が、一瞬だけ消えたような気がした。
(……りゅか……こわい……)
喉の奥から、小さなしゃくりあげる音が漏れる。
リュカの視線が、はっとこちらへ向いた。
さっきまで冷えていた瞳に、あっという間に色が戻る。
「エイデン……!」
雪の上に膝をつき、そっと手を伸ばしてくる。
「怪我……してない……?
どこか痛いところ……ない……?
大丈夫……もう、大丈夫だから……」
同じ人とは思えないほど、優しい声。
エイデンは泣きながら、首を横に振った。
痛くはない。
でも、怖かった。
その“こわい”を、どう言えばいいのか分からなくて、ただネフィラの服を、ぎゅうっと掴み続けた。
◆
「……エイデンは、リュカに任せるのだわ」
ラズリが一歩、前へ出る。
足元の影が、雪の上でやさしく揺れた。
リュカに短く合図を送ると、そのままネフィラの前へしゃがみ込む。
「……ネフィラ。震えているのだわ」
その言葉に、ネフィラの肩が、小さく跳ねた。
「……あたし、守ったよ……」
押し出すような声。
「ちゃんと守った……
でも……エイデンくんに……
こんなの、見せたくなかった……」
さっきまで刃を振るっていた手が、今は、エイデンを抱きしめるためだけに震えている。
「……よく守ったのだわ」
ラズリの声は、雪よりもやわらかい。
「見せたくなかったって思えるなら……
それだけで、十分なのだわ」
エイデンは、ネフィラの胸に押しつけていた顔を、少しだけ上げた。
(……ねふぃらも……こわかった……?)
守ってくれたはずの人が、震えているのが、いやだった。
小さな手で、もう一度、服をぎゅっと掴む。
離れないよ、と伝えたかった。
◆
セラフィルが、静かに一歩前へ出た。
礼儀正しい所作のまま、ひとりだけ立っている獣人――リーゴを、まっすぐ見据える。
「……あなたが」
澄んだ声が、雪の上を滑る。
「エイデン様に、刃を向けた方ですね」
問いかけの形をとりながら、その声音には、答えの余地がなかった。
獣人全体を憎んでいるわけではない。
ただ、エイデンに刃を向けた“その行為”だけを、鋭く射抜いている。
リーゴの喉が、ごくりと鳴る。
何を思っているのか、エイデンには分からない。
ただ、足が、今にも折れてしまいそうなほど震えていることだけが見えた。
◆
そのとき、魔王城からの救護・処理班が駆け込んできた。
「ネフィラちゃ〜ん! 来たよ──」
軽い声は、途中でぴたりと止まる。
視界に飛び込んできたのは、ミリアの黒炎と、五柱全員の殺気だった。
黒月侍女団は、一瞬で足を止める。
全員の顔から、すっと血の気が引いた。
誰も、何も言わない。
けれど、その沈黙だけで、「ここは笑っていられる場ではない」と理解しているようだった。
次の瞬間には、全員が背筋を伸ばし、無理やり“仕事の顔”に切り替える。
「しょ、処理班です!
負傷者の誘導を行います……!」
「倒れている方々は、のちほど魔王城へ運搬します……!」
声が、わずかに震えている。
誰も、それを指摘しなかった。
◆
エイデンの胸の中は、まだ、怖さでいっぱいだった。
自分に向けられた、本物の刃。
ネフィラの短剣が血を散らした光景。
鼻を刺す血の匂い。
足裏から伝わる雪の冷たさ。
耳の奥に残る誰かの叫び。
それらに混じって、頭の奥で、知らない景色がちらちらと光る。
燃えている家。
真っ赤な空。
何かが崩れ落ちる音。
誰かに強く抱きしめられていた感覚。
それが何なのか、分からない。
ただ、“こわい”という感情だけが、冷たい霧みたいに胸の中に広がっていく。
「ひっ……ぐ……」
うまく息が吸えない。
涙ばかりが溢れて、止まらなかった。
背中をさするリュカの手。
震える腕で抱き寄せるネフィラ。
足元で寄り添うラズリの影。
少し離れたところで燃えるミリアの黒炎の熱。
動くだけで雪が鳴るようなグロンの重たい気配。
遠くで淡々と呼吸を整えるセラフィルの気配。
それらすべてが、輪のように、エイデンの世界を囲んでいた。
(……みんな……いる……)
こわい。
でも、一人じゃない。
◆
ゆっくりと、雪を踏む足音が近づいてくる。
エイナだった。
五柱が左右に並び、魔王が雪市の中心に立つ。
胸の奥が、ふっと軽くなる。
“お母さん”が来た時みたいに、世界の色が、少しだけ戻る。
エイナの瞳が、最初に捉えたのは、エイデンだった。
その一瞬だけ、やわらかな光が宿る。
「……エイデン」
名前を呼ぶ声が、雪よりもあたたかい。
「よう……耐えたな」
エイデンは、ぐしゃぐしゃの顔のまま手を伸ばした。
エイナはその手を受け止め、そっと抱き寄せ、小さな背中を撫でる。
その温もりに触れた瞬間、ばらばらになりかけていた世界の輪郭が、少しだけ戻った気がした。
――けれど。
次の瞬間、エイナの気配が変わる。
腕の中のエイデンを、そっとネフィラへ預ける。
魔王は、ゆっくりと、リーゴの方へ向き直った。
「……さて」
その一言で、雪市全体の空気が凍りつく。
「わらわの子に刃を向けた者よ」
怒鳴り声ではない。
それでも、退く場所は、どこにもない。
「いかなる理由があろうとも──
その罪から逃れられるとは、思わぬことじゃ」
雪の上で、周囲の獣人たちが、次々と崩れ落ちた。
リーゴだけが、立ったまま、顔を歪めている。
その足は、今にも折れそうに震えていた。
エイデンは、ネフィラの腕の中から、その姿を見上げていた。
これから何が起きるのか、まだ知らない。
ただ、この場所が――
自分の世界の何かを、大きく変えてしまう場所なのだと。
子どもなりに、はっきりと、感じていた。




