表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
13/18

第9話 雪市事件――家族の怒り


 雪の音が、消えていた。


 さっきまで頬を刺していた風の唸りも、遠くでざわめいていた声も、どこかへ吸い込まれたみたいに消えている。

 世界から、音だけが抜け落ちたようだった。


 エイデンは、ネフィラの胸元に顔を押しつけていた。


 この静けさは――

 “こわい人が近づいてくる合図”。


 そんな気がして、無意識のうちに、小さな手で服をぎゅっと掴む。


 けれど。


 雪を踏む足音の主を見た瞬間、胸の奥のこわばりが、ほんの少しだけほどけた。


 エイナがいた。


 その背後には、ミリア、リュカ、ラズリ、セラフィル、グロン。

 魔王城で、何度も見てきた家族の顔ぶれ。


 なのに今日は――

 誰も、笑っていなかった。


 怒鳴っているわけでもない。

 声を荒げているわけでもない。


 それでも、空気は石みたいに重くて、息を吸うだけで胸の奥がきりきりと痛む。


(……おこってる……)


 幼い頭でも、それだけは分かる。


 自分を守ろうとして、怒ってくれている。

 それが少し、うれしくて――

 でも、やっぱり、こわかった。


 視界の端には、倒れている身体がいくつも並んでいる。


 何人いるのか、エイデンには分からない。

 ただ、血の赤と雪の白がぐちゃぐちゃに混ざって、景色の輪郭を溶かしていた。


 その中で、まだ立っている獣人は、ひとりだけ。


 さっき、自分に刃を向けてきた男。

 それだけは、はっきり分かった。


 他の襲撃者たちは、すでにネフィラの短剣に貫かれている。


 群衆に混じっていた獣人たちは、皆、顔をこわばらせたまま立ち尽くし、誰ひとり血を流していなかった。

 雪に散っている血は――エイデンに刃を向けた者たちだけのもの。


 まるで、そこだけを狙い撃ちしたかのような光景。


 周囲の魔族たちは、息を呑んでそれを見つめていた。


 その視線の意味を、エイデンはまだ知らない。


     ◆


「ふーん……」


 沈んだ空気の中で、ミリアの声だけが、少し軽く響いた。


 いつもの明るい調子に似ている。

 けれど、そこには、いつもの熱っぽさがなかった。


 ――目が、笑っていない。


「アンタらさ」


 ミリアが、一歩、前へ出る。


 たったそれだけで、足元の雪が、びくりと震えたように感じられた。


「エイデンを、殺そうとしたんだ?」


 黒炎が、彼女の足元から音もなく広がる。


 じり、と雪が焼ける匂いが立ちのぼり、エイデンは思わず、ネフィラの胸に顔をうずめた。


「……殺すよ」


 ミリアの声は、驚くほど静かだった。


「アンタらだけじゃない。

 この国の獣人――全部」


 一拍。


「エイデン泣かせた種族なんて、いらないからさ」


 その一言で、場の空気が、さらに冷え込んだ。


 近くで様子をうかがっていた魔族の露店主が、小さく肩をすくめる。

 雪市の入口にいた若い侍女ふたりも、その場で固まったまま動けなくなった。


 冗談を言っている顔じゃない。


 本当に、言った通りにしてしまいそうな顔だった。


「ミリア、やめろ」


 グロンの声が、雪を揺らすように低く響く。


「ここは魔王様の場だ。

 勝手に、種族ごと滅ぼす話はするな」


「……分かってるよ」


 ミリアは、ぽつりと答えた。


 それでも、足元の黒炎は、まだ消えようとしなかった。


     ◆


 その横で、リュカが静かに前へ進み出る。


 赤と銀灰のオッドアイが、ゆっくりと獣人たちへ向いた。


 一瞬、瞳から“色”が抜けたように見えた。


 怒りでも、悲しみでもない。

 何かを並べ、削り、必要なものだけを残そうとする――計算の目。


「……生かす意味……ある……?」


 雪の上に落ちたその言葉は、ミリアの怒声よりも冷たく、獣人たちの背筋を鋭く刺した。


 エイデンには、意味はよく分からない。


 けれど、その声を聞いた瞬間、胸の中にあった“あたたかい場所”が、一瞬だけ消えたような気がした。


(……りゅか……こわい……)


 喉の奥から、小さなしゃくりあげる音が漏れる。


 リュカの視線が、はっとこちらへ向いた。


 さっきまで冷えていた瞳に、あっという間に色が戻る。


「エイデン……!」


 雪の上に膝をつき、そっと手を伸ばしてくる。


「怪我……してない……?

 どこか痛いところ……ない……?

 大丈夫……もう、大丈夫だから……」


 同じ人とは思えないほど、優しい声。


 エイデンは泣きながら、首を横に振った。


 痛くはない。

 でも、怖かった。


 その“こわい”を、どう言えばいいのか分からなくて、ただネフィラの服を、ぎゅうっと掴み続けた。


     ◆


「……エイデンは、リュカに任せるのだわ」


 ラズリが一歩、前へ出る。


 足元の影が、雪の上でやさしく揺れた。


 リュカに短く合図を送ると、そのままネフィラの前へしゃがみ込む。


「……ネフィラ。震えているのだわ」


 その言葉に、ネフィラの肩が、小さく跳ねた。


「……あたし、守ったよ……」


 押し出すような声。


「ちゃんと守った……

 でも……エイデンくんに……

 こんなの、見せたくなかった……」


 さっきまで刃を振るっていた手が、今は、エイデンを抱きしめるためだけに震えている。


「……よく守ったのだわ」


 ラズリの声は、雪よりもやわらかい。


「見せたくなかったって思えるなら……

 それだけで、十分なのだわ」


 エイデンは、ネフィラの胸に押しつけていた顔を、少しだけ上げた。


(……ねふぃらも……こわかった……?)


 守ってくれたはずの人が、震えているのが、いやだった。


 小さな手で、もう一度、服をぎゅっと掴む。


 離れないよ、と伝えたかった。


     ◆


 セラフィルが、静かに一歩前へ出た。


 礼儀正しい所作のまま、ひとりだけ立っている獣人――リーゴを、まっすぐ見据える。


「……あなたが」


 澄んだ声が、雪の上を滑る。


「エイデン様に、刃を向けた方ですね」


 問いかけの形をとりながら、その声音には、答えの余地がなかった。


 獣人全体を憎んでいるわけではない。

 ただ、エイデンに刃を向けた“その行為”だけを、鋭く射抜いている。


 リーゴの喉が、ごくりと鳴る。


 何を思っているのか、エイデンには分からない。

 ただ、足が、今にも折れてしまいそうなほど震えていることだけが見えた。


     ◆


 そのとき、魔王城からの救護・処理班が駆け込んできた。


「ネフィラちゃ〜ん! 来たよ──」


 軽い声は、途中でぴたりと止まる。


 視界に飛び込んできたのは、ミリアの黒炎と、五柱全員の殺気だった。


 黒月侍女団(メイド)は、一瞬で足を止める。

 全員の顔から、すっと血の気が引いた。


 誰も、何も言わない。


 けれど、その沈黙だけで、「ここは笑っていられる場ではない」と理解しているようだった。


 次の瞬間には、全員が背筋を伸ばし、無理やり“仕事の顔”に切り替える。


「しょ、処理班です!

 負傷者の誘導を行います……!」


「倒れている方々は、のちほど魔王城へ運搬します……!」


 声が、わずかに震えている。


 誰も、それを指摘しなかった。


     ◆


 エイデンの胸の中は、まだ、怖さでいっぱいだった。


 自分に向けられた、本物の刃。

 ネフィラの短剣が血を散らした光景。

 鼻を刺す血の匂い。

 足裏から伝わる雪の冷たさ。

 耳の奥に残る誰かの叫び。


 それらに混じって、頭の奥で、知らない景色がちらちらと光る。


 燃えている家。

 真っ赤な空。

 何かが崩れ落ちる音。

 誰かに強く抱きしめられていた感覚。


 それが何なのか、分からない。


 ただ、“こわい”という感情だけが、冷たい霧みたいに胸の中に広がっていく。


「ひっ……ぐ……」


 うまく息が吸えない。


 涙ばかりが溢れて、止まらなかった。


 背中をさするリュカの手。

 震える腕で抱き寄せるネフィラ。

 足元で寄り添うラズリの影。

 少し離れたところで燃えるミリアの黒炎の熱。

 動くだけで雪が鳴るようなグロンの重たい気配。

 遠くで淡々と呼吸を整えるセラフィルの気配。


 それらすべてが、輪のように、エイデンの世界を囲んでいた。


(……みんな……いる……)


 こわい。

 でも、一人じゃない。


     ◆


 ゆっくりと、雪を踏む足音が近づいてくる。


 エイナだった。


 五柱が左右に並び、魔王が雪市の中心に立つ。


 胸の奥が、ふっと軽くなる。

 “お母さん”が来た時みたいに、世界の色が、少しだけ戻る。


 エイナの瞳が、最初に捉えたのは、エイデンだった。


 その一瞬だけ、やわらかな光が宿る。


「……エイデン」


 名前を呼ぶ声が、雪よりもあたたかい。


「よう……耐えたな」


 エイデンは、ぐしゃぐしゃの顔のまま手を伸ばした。


 エイナはその手を受け止め、そっと抱き寄せ、小さな背中を撫でる。


 その温もりに触れた瞬間、ばらばらになりかけていた世界の輪郭が、少しだけ戻った気がした。


 ――けれど。


 次の瞬間、エイナの気配が変わる。


 腕の中のエイデンを、そっとネフィラへ預ける。


 魔王は、ゆっくりと、リーゴの方へ向き直った。


「……さて」


 その一言で、雪市全体の空気が凍りつく。


「わらわの子に刃を向けた者よ」


 怒鳴り声ではない。

 それでも、退く場所は、どこにもない。


「いかなる理由があろうとも──

 その罪から逃れられるとは、思わぬことじゃ」


 雪の上で、周囲の獣人たちが、次々と崩れ落ちた。


 リーゴだけが、立ったまま、顔を歪めている。

 その足は、今にも折れそうに震えていた。


 エイデンは、ネフィラの腕の中から、その姿を見上げていた。


 これから何が起きるのか、まだ知らない。


 ただ、この場所が――

 自分の世界の何かを、大きく変えてしまう場所なのだと。


 子どもなりに、はっきりと、感じていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ