第8話 雪市事件――白雪に咲く影
獣人の露店が並ぶ通りは、
魔族の店とは、まるで違う匂いがした。
干し肉の脂。
なめされた毛皮。
骨細工に残る、生き物の気配。
エイデンはきょろきょろと視線を動かしながら、
ネフィラの手を、ぎゅっと握って歩いていた。
冷たいはずの指先が、
不思議と、あたたかい。
「だいじょぶだよ〜?
迷子になんて、させないからね♡」
声は、いつも通りのギャル調子。
軽くて、明るくて、頼もしい。
――けれど。
獣人区域に、足を踏み入れた瞬間。
空気が、変わった。
店主の視線が、止まる。
行き交っていた足音が、途切れる。
雪市のざわめきが、
まるで水に沈むみたいに、ゆっくりと、消えていく。
「……むね、へん……」
言葉にならない違和感が、
胸の奥に、ちくりと刺さった。
気づけば、エイデンの足が、わずかに止まっている。
ネフィラは、笑っていた。
いつもと変わらない、柔らかな笑顔。
――けれど。
握られた手だけが、
ほんのわずか、強くなっていた。
「大丈夫だって♡
あたしが、いるからね」
◆
「……人間……?」
呟いたのは、馬獣人の男だった。
最初は、ただの驚き。
だが、その声はすぐに、濁った熱を帯びていく。
「なんで……
人間のガキが……魔王領を歩ける……!」
「獣人の家族を殺した連中だぞッ!」
怒号が、雪を震わせた。
周囲の獣人たちが、ざわりと寄ってくる。
殺気と怨念が、視線となって突き刺さる。
一方で、魔族の群衆は、まるで違う反応を見せていた。
「……黒月侍女団の制服だぞ」
「なんで侍女が、“人間の子”を……?」
「いや、待て……
あれ、動きが……普通の侍女じゃ……」
ざわめきの中で、誰かが、ぽつりと呟く。
「獣人……終わったな……」
その声は、
雪よりも、ずっと冷たかった。
◆
エイデンには、何が起きているのか、わからなかった。
ただ、
向けられる怒りの視線だけが、肌を刺す。
「……ね、ねふぃら……やだ……」
震える声が、零れた瞬間。
ネフィラの腕が、すぐに抱き寄せる。
「大丈夫。あたしがいるよ。
怖いのは……全部、あたしがやるから」
その声が、胸に落ちた瞬間。
エイデンの中で、何かが、崩れた。
視界が、赤く揺れる。
耳の奥で、“燃える音”が響く。
――あつい。
――こわい。
――だれかが、抱いてくれていた感触。
理由も、形もない恐怖だけが、
過去から、蘇ってくる。
「……やだ……こわ……」
泣き出しかけた、その瞬間。
「殺す!!」
獣人たちの怒号が、重なった。
◆
ネフィラが、エイデンの耳元に囁く。
「エイデン、目ぇつむって。
ぎゅってしてて、いいよ」
「……ね、ねふぃら……」
「うん。大丈夫」
エイデンは、ぎゅっと目を閉じ、
ネフィラの服を、必死に握った。
◆
――群衆にとって。
そこからが、悪夢だった。
「……消えた……?」
ネフィラの姿が、
一瞬で、視界から消えた。
本当に、影が、ずれるように。
「来るぞ!!」
狼獣人が叫んだ時には、もう遅い。
喉元に、赤い線が刻まれた。
それは、痛みより先に――
“凍る”ような感触。
一拍遅れて、赤い花が、咲いた。
雪の上に、紅が散る。
小さな花びらみたいに舞って、溶けて、消えていく。
◆
「見えねぇ……!
どこに──」
猫獣人が刃を振るう。
空を切った、その瞬間。
背後に、影が落ちた。
ほんの、触れただけ。
それだけで、身体が、
糸のように崩れ落ちる。
雪が、赤を吸いながら、静かに広がっていった。
魔族の群衆が、震える。
「黒月侍女……じゃない……」
「いや……あれは、“裏守”……?」
「違う……
もっと……深い……」
獣人たちは、恐怖に、顔を青ざめさせる。
「なんで……あんな化け物が……
ただの人間のガキに……?」
「やべぇ……
あれ……魔王の影……」
「終わりだ……
俺たち……」
その中で、ようやく、
“気づく者”が現れた。
「黒月侍女が……抱いてる……ってことは……
あのガキ……まさか……」
◆
群衆の中で、
ひとり、状況を理解し始めた獣人がいた。
リーゴは、ようやく、理解した。
ネフィラの動き。
群衆の反応。
魔族が、誰一人、介入しない理由。
すべてが、
遅れて、地獄みたいな速度で、つながっていく。
(……なんで、気づかなかった……
なんで俺は……
“人間”としか、見なかった……)
心臓が、軋む。
(このガキ……
“ただの人間のガキ”じゃ……ねぇ……)
その瞬間。
ネフィラが、目の前に立っていた。
その瞳には、何もなかった。
怒りも、憎しみも、侮蔑もない。
感情の気配すらない。
ただ――
作業の目。
(あ……終わった……
踏み越えちまった……
魔王の……子を……!)
膝が、勝手に落ちた。
「エイデンを……怖がらせて、泣かせて……
そのうえ、刃まで向けた」
ネフィラの声は、静かだった。
「……それだけで、十分だよ」
リーゴの喉元に、短剣が触れる。
(は、はは……
気づくの……遅ぇよ……俺……)
心は、完全に、折れていた。
◆
――その刹那。
世界が、沈んだ。
雪が貼りつき、
吹雪が逆流し、
黒い霧が、通りを覆う。
「……エイデン……?」
魔王エイナの声が、落ちた瞬間。
獣人数十名の背骨が、
“折れたように”、沈んだ。
五柱が、続く。
市場全体が、静寂に、支配される。
ミリアの黒炎が、呼吸し。
グロンは、拳を握り潰しそうで。
セラフィルの足元で、血霧が揺れ。
リュカは、蒼白なまま、エイデンだけを見つめ。
ラズリは、影を沈めながら、状況を読む。
そして。
エイナの一言が、落ちた。
「わらわの子に……
刃を向けたのは、誰じゃ」
その声は――
死より、静かで。
死より、重かった




