第7話 雪市へ──初めての外界と幸福
魔王城の朝は、いつもより少しだけ明るく見えた。
窓の向こうで静かに降る雪の光が壁をやわらかく染め、それ以上に、今日が“初めて外の世界へ出る日”だという事実が、胸の奥をそわそわと揺らしていた。
エイデンはネフィラの手を握りながら廊下を歩く。
黒石の床は冷たく硬く、魔灯は淡く揺れ、遠くから侍女たちの足音が一定の間隔で響いてくる。いつもと同じ景色なのに、胸の奥の熱だけが落ち着かなかった。
角を曲がると、セラフィルが静かに待っていた。
白手袋が雪の光を受けてやわらかく輝き、その動かぬ姿は、一枚の絵のようだった。
「エイデン様。お願いがございます」
名を呼ばれた瞬間、エイデンは反射的に背筋を伸ばす。
“頼まれる”ということは、まだほんの少しだけ怖い。
「“冬灯りのオイル”が切れてしまいまして。もし雪市で見つけられましたら、買ってきていただけますか」
雪市。
城の外。
知らない場所。
喉の奥で、どくん、と音がした気がした。
ネフィラが、きらりと目を輝かせる。
「セラフィル様〜? それってまさか……初おつかいデビューじゃないですか〜?」
「はい。もちろん、エイデン様がよろしければ」
視線が集まる。
その重さは、怖さより先に“やってみたい”という気持ちを引き出した。
「……いく」
声は小さかったが、揺れてはいなかった。
セラフィルは、やわらかく微笑んだ。
「ありがとうございます。頼もしい限りです」
ネフィラが嬉しそうに手を叩く。
「よーし♡ エイデンくんの晴れ舞台だ〜!」
エイデンは小さく拳を握った。
胸の奥が、ひっそりと熱い。
(……がんばろ……)
◆
城門を抜けた瞬間、世界の空気が変わった。
冷たい風が頬に触れ、その奥に、知らない匂いがいくつも混ざって流れ込んでくる。
焚き火の煙。
煮込みの香り。
土と雪と、見知らぬ誰かの生活の匂い。
「……さむ」
「外はこんな感じなんだよ〜。ほら、マントちゃんと留めて……手袋も指先までね♡」
ネフィラの手が手際よく整えてくれるたび、胸の中の不安が、ひとさじずつ溶けていった。
白い霧の向こうで、雪市の灯りがゆらゆらと揺れている。
◆
雪市は、エイデンの知る世界とはまるで違っていた。
屋台から立ちのぼる湯気、魔導布の天蓋から舞い落ちる光の雪、子どもたちの笑い声、影で荷物を運ぶ店主、炎術師の放つ火花。
すべてが魔術の色をまとい、きらきらと揺れながら視界に流れ込んでくる。
「いらっしゃい!」
「おつかいかい?」
「偉いねぇ」
「かわいい子だ!」
魔族たちの声は、思っていたよりもずっと優しくて、胸の奥がほっと温かくなった。
(……こわく、ない……)
そう思えたことが、少しだけ嬉しい。
隣のネフィラは、もう完全に“母”の顔だった。
「それは辛すぎる〜! これはひとくちだけ♡
ダメ、その目で見ないの♡ かわいすぎ♡」
楽しそうに笑いながらも、エイデンの手だけは一度たりとも離さなかった。
◆
広場に入ると、何かがふわりと浮いて見えた。
同じくらいの背丈の子どもたちが、“風輪”を空中に乗せて遊んでいる。透明な輪が光をつかんで、ゆらゆら揺れていた。
「……すご」
思わず近づくと、一人の子がにっと笑う。
「やる? お前も」
エイデンはこくりと頷いた。
目の前で揺れる輪は壊れそうで、でも触れてみたくて、胸がざわつく。
そっと手を伸ばした瞬間、胸の奥がきゅっと熱くなった。
風輪が――
ふ、と沈む。
「……え?」
「おい、見たか!?」
「なんで沈むんだよ!」
風じゃない。
輪の動きを変えたのは、見えない“重さ”。
(……なんだろ……これ……)
理由は分からない。
ただ、胸の奥の熱だけが、確かに残っていた。
そのとき――
「エイデンくん、だいじょぶ〜?」
少し離れた場所から、ネフィラの声が飛んだ。
一瞬、子どもたちの動きが止まる。
「……エイデン?」
一人が首をかしげる。
「それ、名前?」
エイデンは、こくりと小さく頷いた。
「……うん」
「へー!」
ぱっと空気が明るくなる。
「エイデンっていうのか!」
「いいな、その名前!」
「おれジル!」
「おれダグ!」
名前が次々に投げられる。
その輪の中に混ざる心地よさを、エイデンは初めて知った。
少し離れた場所で、ネフィラが見守っている。
いつもの賑やかさとは違う。
やわらかく、あたたかい目だった。
(……ねふぃら……)
その視線が、安心の灯りになる。
◆
「よし、そろそろ本番ね♡」
名残惜しく手を振り、エイデンはおつかいへ戻る。
だが、進むほどに喧噪は薄れ、雪の音だけが広がっていった。
風が強くなり、雪が静かに積もっていく。
(……さむ……)
理由もなく、胸のざわつきが強くなる。
遠くで、大きな影が横切った。
獣人。
人間とも魔族とも違う、初めて見る姿。
ネフィラの手が、ほんのわずかに強く握り返される。
「エイデンくん、こっちだよ。もうすぐだからね〜」
声は明るい。
けれど、歩幅だけが少し速い。
エイデンの小さな足は、その変化を確かに感じ取っていた。
◆
目的の店に着くころ、胸の高鳴りは別の意味で大きくなっていた。
(……おつかい……)
深呼吸して、カウンターに近づく。
「あの……ふゆあかりの、おいる……ください」
差し出した小袋が、かすかに震えた。
店主は代価を確かめ、瓶を丁寧に包んで渡してくれる。
「ようできた」
大きな手が、ぽん、と頭に置かれた。
叱る手じゃない。褒める重みだった。
「……うん」
胸の中に、静かな火が灯る。
「エイデンくん、すご〜い♡ 一人でちゃんと言えた〜!」
ネフィラの声が誇らしくて、くすぐったい。
(……できた……)
◆
帰り道、雪市の灯りと笑い声が、また近づいてくる。
さっきの子どもたちが、楽しそうに跳ね回っていた。
(……また、あそびたい……)
喉まで出かかった言葉は、声にならなかった。
ふと、暗い通りの奥に、さっきの獣人の影が見えた。
雪の影と混ざり合いながら、ゆっくりと遠ざかっていく。
(……なんか、こわ……)
その感覚の意味は、まだ分からない。
「帰ろっか、エイデンくん」
ネフィラの声が、いつものあたたかさに戻る。
エイデンは、その手をぎゅっと握り返した。
「……ねふぃら」
「ん〜?」
「また……きたい」
ネフィラは一瞬きょとんとして、それから、くしゃっと笑った。
「来よ? また一緒にね♡」
その言葉に、胸のざわざわがゆっくり溶けていく。
雪市の灯りが遠ざかり、魔王城の影が近づいてきた。
エイデンの世界は今日、確かにひとつ広がった。
そして胸の奥に残った“名もなきざわめき”だけが、静かに息をしていた。




