第6話 黒蜂蜜パニック──魔王城が戦場になった日
魂灯の儀式から一年。
エイデンは四歳になった。
その魔力は、小川のせせらぎのように静かで、柔らかな温みをまとっている。
エイナは執務机に向かいながら、外庭の方向へそっと耳を澄ませた。
風に混じる小さな笑い声が、胸の奥を軽く揺らす。
(……今日も元気そうじゃ……
ネフィラがおるし、問題はあるまい……)
――もう一度、その声を聴きたい。
そんな衝動が、ほんのわずか指先へ漏れた。
だが魔王としての責務が、それを押し戻す。
(……見に行きたいなどと思うでない、わらわ……
今は執務じゃ……)
◆
ふいに、甘い香りが漂ってきた。
(……む。この匂い……黒蜂蜜じゃな……?)
黒蜂蜜は魔力を帯び、魔獣を引き寄せる性質を持つ。
幼子が瓶を倒した光景は、容易に想像できた。
(……やはり、こぼしたな。エイデン……)
やがて外庭は、ふわふわした鳴き声で満たされる。
「ぷよ〜♡」
「きゅい♡」
「ぴるる♡」
(……ほれ見い。黒蜂蜜の匂いにつられておる……)
そう思った、その瞬間。
「みなのもろ〜……ついてこい〜!」
誇らしげな幼子の声が、外庭に響いた。
ほんの少し、エイナの口元が緩む。
(……なんじゃ……その……可愛い声は……)
椅子が、きしりと鳴った。
立ち上がりかけた身体を、エイナはぎゅっと押し戻す。
(……行きたいというのは……違う。
これは可愛いからではなく……
魔王として状況を把握したいだけ……じゃ……)
だが、外庭からは次々と声が上がる。
「かわ……!」
「尊い……!」
「行進してる……!」
(……どれほどの光景なのじゃ……
気にはなるが……いかぬ。今は執務……)
自分自身へ言い聞かせるように、そっと目を伏せた。
◆
その甘い空気の下に、不穏な揺れが混じった。
“シャラ……シャララ……シャ……”
(……この音……
まさか……黒殻シャドウローチ……)
エイナの肩に、冷たいものが走る。
(…………いやじゃ。
虫は……いやじゃ……
近寄りとうない……)
本音は、あまりにも明瞭だった。
だが、それを口にするわけにはいかない。
(……焦るでない、わらわ……
魔王が軽率に動くわけにはいかぬ……
まずは五柱がどう動くか……
監督する責務がある……)
“責務”という言葉で本音を塗りつぶしながら、
エイナは椅子の肘掛けに、強く手をかけた。
◆
その直後、外庭が爆ぜた。
「ぎゃああああああ!!!」
「ああああ無理なのだわぁぁ!!!」
「影から来るの反則ですぅぅ!!!」
「姉様! 早く燃やして!!」
五柱も、侍女団も、
虫の出現によって完全に崩壊していた。
(……五柱が無理なら……
無理じゃろう……)
――まだ、立たない。
(……虫は……
ほんに……いやなのじゃ……)
だが、外庭全体の魔力が荒れ狂いはじめる。
(……これは……
もう戦場の気配……)
ついにエイナは、意を決して椅子から立ち上がった。
(……執務に支障が出ておる……!
決して、虫から逃げたいわけでは……
ない……!)
◆
外庭へ降り立った瞬間、
エイナは災害の中心を目の当たりにした。
影から湧く黒殻シャドウローチ。
ミリアの黒炎があちこちで爆ぜ、
リュカは結界の中で半泣きになり、
ラズリは影へ逃げて逆に追われ、
ネフィラはエイデンを抱えて泣きそうに逃げ惑い、
セラフィルは優雅な笑顔のまま裏声で後退し、
侍女団は四散し、
グロンは斧を振り、石畳を砕いていた。
(……これは……
災厄ではないか……)
その中心で、エイデンが床を覗き込み、ぽそりと呟く。
「……くろぴか……?」
(触る気じゃな!?
やめんか!!)
だが、エイナより速く――
「触っちゃだめぇぇぇぇ!!」
ミリアの黒炎が地面を爆ぜ、
ローチを瞬時に焼き尽くした。
◆
エイナは一度目を閉じ、深く呼吸する。
「……もうよい」
影が渦巻き、音を飲み込む。
「《アビス・リング》」
外庭の影が一斉に立ち上がり、
黒殻の魔物はすべて深淵へと吸い込まれていった。
静寂が戻る。
(……虫は……
二度と来るでない……)
◆
その静けさの中。
エイデンが床の跡を見つめながら、ぽつりと呟く。
「……くろぴか……はやかった……
でも……もふもふ、すき……」
外庭にいた全員が、崩れ落ちた。
「「「「「かわいいぃぃぃ!!!!」」」」
「尊い……!」
「天使……!」
(……やはり……
この子は……
魔王城の光じゃ……)
◆
だが、その光の余韻の裏で。
エイナは、外庭の惨状を見渡した。
砕けた石畳。
焦げ跡。
散乱した魔石。
戦場、そのもの。
(……しかし……
わらわは……
肝心の“行進”を見られなんだ……)
胸の奥に、ざわりとした気配が生まれる。
だが、エイナはそれに名前をつけない。
(……これは嫉妬ではない。断じて違う。
魔王として、現場の状況を正確に把握できぬのは……
よろしくないのじゃ……)
(……可愛いものを見逃したわけでは……ない……
これは……責務ゆえの判断じゃ……
責務じゃ……)
自分に言い聞かせるように、深く息を吸う。
そして、魔王の声音で告げた。
「五柱、並べ。黒月侍女団もじゃ」
場の空気が、一瞬で引き締まる。
「明朝、わらわはここで茶を飲む。
それまでに外庭を、一片の乱れもなく復旧せよ。
これは――魔王としての命じゃ」
(……うむ。これは責務じゃ……
責務ゆえ……)
(……決して、可愛い光景を“見逃し”たゆえの……
腹いせなどでは……
断じて……ない……)
そう、強く、強く言い聞かせた。
五柱と侍女団が、震えながら深く頭を下げる。
「「「御意……!!!」」」
(……明日は必ず見る。
そなたの行進も、笑顔も……
すべて、わらわの目で……)
エイナは、そっと目元を和らげた。




