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1.3.1.(第9節)「異端審問官の追憶」

過去の亡霊は、決して死なない。

忘れられた事件、癒えない傷跡、そして師が遺した最後の言葉。

それらが現在の謎と不気味に共鳴する時、探偵は再び、自らが犯した罪の深淵を覗き込む。

一つのデータチップが、二つの悲劇を繋ぐ錆びついた鎖であることを、彼はまだ知らない。

真実への道は、常に最も痛みを伴う記憶の先に続いている。

炎は、あらゆるものを浄化し、そしてあらゆる証拠を灰燼に帰す。

煤とオイルの匂いが染みついた安物の家具が、まるで長年溜め込んだ怨嗟を吐き出すかのように、パチパチと甲高い音を立てて燃え盛っていた。事務所の床に転がる二つの黒焦げの死体は、もはや人間としての尊厳を完全に失い、ただの無機質な炭素の塊と化している。ギルドが放った無慈悲な殺意の残骸。彼らは自らの奥歯に仕込んだ毒で命を絶ち、その身元に繋がる一切の情報を、自らの肉体ごとこの世から消し去った。完璧な証拠隠滅だった。

「……行くぞ、アニマ」

炎の熱が頬を炙る中、ロゴスは感情を押し殺した低い声で言った。彼の瞳は、燃え盛る炎の向こう側、この混沌とした都市のさらに深い闇を見据えている。ここは、もはや安全な場所ではない。ギルドは、自分たちが本気であることを、最も雄弁な形で示してきた。警告ではない。これは、宣戦布告だ。

「ですが、この火災は……」

アニマが躊躇いがちに言う。彼女の論理回路は、この場を離れることが最善手であると理解しながらも、共感コアがこの惨状と、これから始まるであろう逃亡劇の過酷さに警鐘を鳴らしていた。

「放置しろ。どうせすぐに衛兵や消防隊が駆けつける。その頃には、俺たちはもうここにいない」ロゴスは、机の焼け残った引き出しから、辛うじて無事だった護身用のリボルバーと数発の予備弾、そして、この襲撃の原因となった黒いデータチップを掴み取ると、躊躇なく炎の中へと背を向けた。「この火事は、奴らがやったことだ。俺たちがやったんじゃない。せいぜい、奴らの後始末に、審問庁の連中が頭を悩ませればいい」

彼の言葉は、投げやりなようでいて、その実、冷徹な計算に基づいていた。この炎は、自分たちがギルドに狙われているという事実を、公にせず、しかし水面下で審問庁に知らしめるための、意図せぬ狼煙となるかもしれない。ヴェリタスがこれをどう読むか。今は、そんなことを考えている暇はなかった。

二人は、裏口から燃え盛る事務所を脱出した。錆色の雨は、まるでこの炎を嘲笑うかのように、しとしとと降り続いている。雨に濡れた石畳が、周囲の建物のエーテルランプの光をぼんやりと反射していた。ロゴスはアニマを伴い、人目を避けるように裏路地を選びながら、再び都市の深層、下層街へとその身を沈めていく。頼れる場所は、もはや一つしかなかった。

ギデオンの店は、相変わらず混沌の極みだった。厚い鉄の扉を開けると、オイルと埃と、そして無数のガラクタが発する独特の匂いが、逃亡者の強張った神経をわずかに弛緩させた。

「……おいおい、野良犬。今度は何だってんだ。ずぶ濡れじゃねえか。それに、なんだか妙に焦げ臭えぞ」

店の奥で作業をしていたギデオンは、ゴーグルを額に押し上げ、訝しげな表情で二人を迎えた。

「少し、火遊びが過ぎてな。家が燃えた」ロゴスは、肩で息をしながら言った。「しばらく、ここに厄介になりたい。もちろん、情報料の割増で構わん」

「家が燃えた、だと?」ギデオンは嗄れた声で呟き、ロゴスの外套に付着した微かな煤の粒子と、彼の瞳の奥に宿る尋常ならざる光を一瞥した。「……ギルドの連中に、尻尾を踏まれたか。あの時、忠告したはずだぜ。眠ってる竜を起こすな、と」

「生憎、起こすどころか、喉笛に噛みついてしまったらしい」

ロゴスは、店の隅にある椅子にどさりと腰を下ろした。アニマは、彼の傍らで直立不動のまま、周囲のガラクタの山を静かにスキャンしている。

「……まあいい。どうせ、お前さんのような厄介事を抱えた客は嫌いじゃねえ」ギデオンは、ため息と共にキセルに火をつけた。「だが、宿代は高くつくぞ。まずは、お前さんが掴んだ『お宝』を見せてもらおうか」

ロゴスは頷くと、懐からカレルが遺した黒いデータチップを取り出し、作業台の上に置いた。

「こいつの解読を頼みたい。ギルドの最新式だ。おそらく、七重以上の論理障壁が施されている」

ギデオンはチップを指先でつまみ上げ、片眼鏡モノクルを嵌めてそれをまじまじと観察した。

「……ほう。こいつは、ただの暗号化じゃねえな。『迷宮式連鎖暗号ラビリンス・チェイン・コード』だ。一度解読キーを間違えると、内部のデータ構造が自己崩壊を始める、極めて悪質な代物だ。こんなものを弄ってたのか、あの若造は。道理で、ギルドに消されるわけだ」

彼は舌を打ちながら、チップを自らの解析装置に慎重に接続した。モニターに、常人には到底理解できない、膨大な量の記号と数列の奔流が表示される。

「時間はかかる。数日は覚悟しろ。それまで、店の奥の部屋を使え。ネズミが出るが、ギルドの暗殺者よりはマシだろう」

ギデオンの言葉に、ロゴスはただ黙って頷いた。解析装置の冷却ファンが唸る音と、モニターを流れる無機質な文字列だけが、張り詰めた静寂を支配していた。ロゴスは、椅子に深く身を沈め、目を閉じた。襲撃の興奮と、逃亡の疲労が、鉛のように身体にのしかかる。だが、彼の思考は休むことを知らなかった。

(迷宮式連鎖暗号……)

その言葉の響きに、ロゴスは心の奥底で何かが引っかかるのを感じていた。それは、忘却という名の錆びついた扉の向こう側から聞こえてくる、微かな軋みのような音だった。彼は、ギデオンがタイプするキーボードの乾いた音を聞きながら、意識を過去へと遡らせていく。

それは、まだ彼が星付きの異端審問官として、その才能を疑うことなく振るっていた時代。彼の隣には、常に師であるソフィアがいた。彼女は、ロゴスの暴走しがちな論理的鋭敏性を唯一御することのできる、理知的で、そして誰よりも人間的な温かみを持った女性だった。

「ロゴス」と、彼女はよく言った。「あなたのその瞳は、世界の真理を見通す力がある。でもね、真理はいつも正しいとは限らないのよ。時には、人を深く傷つける。論理だけを信じては駄目。あなたの心を、そのコンパスを、決して見失わないで」

あの事件が起きる、数週間前のことだった。

ソフィアは、一つの極秘調査に没頭していた。それは「論理の錆」とは全く別の、都市のインフラシステムそのものに巣食う、正体不明のデータ汚染に関する調査だった。彼女は、その汚染が、技術魔術師ギルドの、それもごく一部の急進派によって意図的に引き起こされているのではないかと疑っていた。

「ギルドの内部に、独自の暗号化プロトコルを開発しているグループがあるの」彼女は、自分の研究室で、誰にも見せたことのない資料をロゴスに示しながら言った。「彼らは、それを『迷宮式連脱暗号』と呼んでいるわ。通常の解読を試みれば、データそのものが消滅する。まるで、自らの秘密を守るために自爆する、神話の怪物のようね」

その時のロゴスは、彼女の懸念を真剣には受け止めていなかった。ギルドの内部抗争など、日常茶飯事だ。審問庁が介入すべき案件ではない、と。彼は、自身の能力がより輝く、奇怪で、非論理的な事件の方にばかり気を取られていた。

そして、悲劇は起きた。

ソフィアは、ギルドの廃棄された研究施設で、事故死した。高濃度のエーテル蒸気の漏出による、大規模な爆発事故。公式記録は、彼女が単独で危険な調査を行い、施設の老朽化した安全装置を見誤ったことが原因だと結論付けた。現場には、彼女以外の誰かがいた痕跡は、一切発見されなかった。

完璧な事故だった。あまりにも、完璧すぎる。

ロゴスは、納得できなかった。彼は、自らの論理的鋭敏性を使い、焼け爛れた現場に残された、微細な論理の亀裂を視た。それは、外部から安全装置が意図的に操作された痕跡。人為的な介入。殺人だ。彼は、ソフィアが追っていたギルドの急進派のリーダーを告発した。

だが、物的証拠は何一つなかった。彼が視た亀裂は、他の誰にも見えなかった。ヴェリタスは、ロゴスの主張を「師を失った衝撃による、精神の錯乱」と断じた。彼の告発は、審問庁の権威を失墜させる妄言として、握り潰された。それどころか、ロゴスがソフィアを焚きつけ、無謀な調査に向かわせたのだと、彼は糾弾された。師を死に追いやったのは、彼の呪われた才能そのものなのだ、と。

ロゴスは、全てを失った。地位も、信頼も、そして、自らの能力に対する自信さえも。ソフィアの事件は、彼の心に、決して癒えることのない巨大な傷跡を残した。

「……おい、野良犬。起きろ」

ギデオンの嗄れた声が、ロゴスを悪夢のような追憶から現実へと引き戻した。いつの間にか、彼は椅子の上で眠り込んでいたらしい。

「どうした。魘されていたぞ。師匠の夢でも見ていたか?」

「……余計な世話だ」ロゴスは、額に滲んだ冷や汗を手の甲で拭った。「解読は、どうなった」

「まだだ。だが、面白いことが分かった」ギデオンは、モニターの一点を指し示した。「このチップの暗号構造、その設計思想の根幹部分に、奇妙な特徴がある。まるで、二人の人間が、別々の意図を持って設計したかのようだ。一方は、絶対に解読させないという強固な意志。だが、もう一方は、特定の条件下でのみ、解読を『許可』するような、意図的な脆弱性を残している」

「……脆弱性?」

「ああ。まるで、信頼できる誰かにだけ、この情報を託すための『裏口』を用意しているかのようだ。この二つの矛盾した設計思想が、この暗号をさらに複雑怪奇なものにしている。まるで……」

ギデオンの言葉を聞きながら、ロゴスは戦慄していた。

彼の脳内で、二つの事件が、一つの不気味な像を結び始めていた。

ソフィアの死。そして、ゼノン顧問の死。

どちらも、ギルドの暗部に触れようとした人間が、完璧に偽装された「事故」によって殺害された。

どちらの事件にも、「迷宮式連鎖暗号」という、ギルドの特殊な技術が影を落としている。

そして、どちらの事件現場にも、完璧なはずの状況を覆す、たった一つの、非論理的な矛盾が残されていた。ソフィアの時は、彼女がそこにいるはずのない時間に現場にいたという、説明不能なタイムスタンプ。そして今回は、『焦げ付いた砂糖の香り』。

これは、偶然ではない。

同じ脚本家が書いた、悪趣味な芝居の再演だ。

マキナ卿。あの穏やかな笑みの裏に、冷たい爬虫類のような瞳を隠した男。彼こそが、ソフィアを殺し、そして今また、ゼノンを殺したのか。

ロゴスは立ち上がり、ギデオンが操作するモニターを、食い入るように見つめた。

「……ギデオン。その『裏口』を開ける方法は分かるか」

「まだだ。だが、鍵は、このチップの内部ではなく、外部にある。何か、特定の情報……合言葉のようなものを入力しない限り、この裏口は開かん」

その時、ロゴスは思い出した。カレルの死体が隠していた、あのデータチップ。その表面に刻まれていた、小さな文字を。

『真実には、代償が伴う』

それは、単なる警句ではない。あるいは、この迷宮の扉を開くための、最後の鍵なのかもしれない。

ロゴスは、自らの過去と、現在の事件が、一本の血塗られた線で繋がっていることを確信していた。カレルが遺したこのチップは、単にゼノン顧問の死の真相を記録したものではない。それは、数年前に闇に葬られたはずの、師の死の謎をも解き明かす、最後の希望なのだ。

彼の心臓が、激しく鼓動を始める。それは、恐怖ではない。長年、彼を縛り付けてきた罪悪感という名の鎖を、自らの手で断ち切るための、決意の音だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第九話、いかがでしたでしょうか。

ついに、現在の事件と、ロゴスの過去を縛る師の死が、一本の線で繋がりました。物語は、より深く、個人的な領域へと踏み込んでいきます。

若き研究員が遺した言葉は、この難解な暗号を解く鍵となるのでしょうか。

もし、この先の展開に心を動かされましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、探偵の過去を乗り越える力となります。

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