1.2.4.(第8節)「偽りの事故報告書」
死者は、沈黙しない。
遺された最後の記録は、巨大な嘘を暴くための刃となる。
だが、真実に近づくほど、影は色濃く、深くなる。
探偵の事務所の扉を叩くのは、依頼人ではない。
絡繰の竜が放つ、無慈悲な殺意。今宵、血の匂いが謎を加速させる。
血の匂いが、思考を鈍らせる。
それは、生命が不合理に断ち切られた時にだけ放たれる、鉄錆と後悔が混じり合った濃密な香り。部屋の中央に広がる黒い血だまりと、そこにうつ伏せに倒れる若き研究員カレル・アンベルクの亡骸は、この事件がもはや引き返せない領域に踏み込んだことを、ロゴスに嫌でも理解させていた。彼の呪われた才能が視た、ドアの錠前に走る微細な亀裂は、この悲劇の静かな序章に過ぎなかった。
「……アニマ。外部との通信を完全に遮断しろ。この部屋で起きたことは、まだ誰にも知られてはならない」
ロゴスは、感情を押し殺した低い声で命じた。彼の視線は、もはやカレルの死体そのものではなく、部屋全体に向けられていた。それは、この凄惨な殺人現場を一つの巨大な『テクスト』として読み解こうとする、探偵の目に他ならなかった。
「はい、ロゴス様」
アニマは静かに頷くと、そのサファイアの瞳を微かに発光させた。彼女のAIコアが、この部屋から外部へ向かうあらゆる通信経路をスキャンし、不可視の壁を築いていく。彼女の共感コアは、目の前の死と、ロゴスの内に渦巻く冷たい怒りの両方を受信し、処理しきれないほどの情報量にわずかなノイズを発していた。
ロゴスは、ゆっくりと部屋に足を踏み入れた。彼は、まずカレルの遺体に近づき、その傍らに屈み込んだ。背中に深々と突き刺さった刃物は、装飾のない、ただ殺傷能力だけを追求した軍用のナイフ。致命傷は心臓を一突き。犯行に一切の躊躇いはない。プロの仕事だ。
「……面白い」
ロゴスは、誰に言うでもなく呟いた。彼の指が、床に散乱した羊皮紙の一枚をそっと示す。
「犯人は、何かを探していた。だが、その探し方は素人だ。机の上のものはなぎ倒され、本棚の書物は引きずり出されている。プロの暗殺者が、これほど非効率な捜索をするとは思えん。まるで、殺害と捜索を行ったのが、別の人間であるかのようだ」
彼は立ち上がり、目を閉じた。
意識を集中させると、世界の表層が薄皮のように剥がれていく。彼の精神の前には、青白い光で構成された、この部屋の論理の骨格が浮かび上がる。そして、そこには、カレルが殺害された瞬間の、暴力的なエネルギーの軌跡が、黄金色の亀裂として生々しく刻まれていた。
亀裂は一点。背中の傷から発生し、そこで完結している。抵抗の痕跡を示す亀裂は、どこにもない。奇襲だ。カレルは、おそらく知り合いか、油断していた相手に、背後から一瞬で命を奪われた。
「……そして、その後だ」
ロゴスの視線が、部屋の中を走る、もう一つの微細な亀裂の群れを追う。それは、殺害の亀裂とは明らかに異質だった。乱雑で、焦りがあり、何度も同じ場所を往復している。犯人は、カレルを殺した後、この部屋にあるはずの『何か』を必死に探した。だが、見つけられなかった。
「何を探していた?マキナ卿が、これほど性急に口を封じ、それでもなお手に入れたかったもの……」
ロゴスの視線が、カレルの固まった指先――その先にあったはずの、時空間結晶の小さな欠片――があった場所へと注がれる。ロゴスはすでにそれを回収し、内ポケットに収めていた。
「犯人は、これも探していたはずだ。だが、本命はこれじゃない。もっと大きな……情報の塊そのものを」
彼は目を開け、部屋の中を見回した。論理的鋭敏性が見出した亀裂の軌跡と、物理的な部屋の状況を頭の中で重ね合わせる。犯人が最も時間をかけて探したのは、机の周辺、そしてベッドの下。ありきたりな場所だ。
「カレルは、ギルドの技術者だ。そして、ゼノン顧問から極秘の依頼を受けるほど、用心深い男だったはずだ。そんな彼が、命よりも重要な情報を、ありきたりの場所に隠すか?」
答えは否だ。ロゴスは、カレルの思考に自らを同調させていく。自分ならどうするか。追っ手に気づかれず、しかし、信頼できる協力者になら見つけられる場所。技術者としてのプライドと、ささやかな遊び心を込めて。
ロゴスの視線が、部屋の隅に置かれた、一見するとただのガラクタにしか見えない、旧式の分析機械の上で止まった。それは、カレルの専門とは少し違う、百年前の遺物。犯人も、価値がないと判断して手をつけなかったのだろう、そこだけが不自然なほど整然としていた。
彼は分析機械に近づき、その表面を指でなぞった。そして、製造番号が刻印されたプレートの、一つのネジだけが、他のものより僅かに摩耗していることに気づいた。彼はポケットから万能工具を取り出すと、慎重にそのネジを回した。カチリ、という小さな音と共に、プレートが外れ、その下から、小さな空洞が現れた。
空洞の奥に、それは静かに収まっていた。
指先ほどの大きさの、黒いデータチップ。表面には、カレルの手によるものだろう、極めて小さな文字で『真実には、代償が伴う』と刻まれていた。
「……見つけたぞ、カレル」
ロゴスはチップを手に取り、静かに呟いた。
その夜、煤とオイルの匂いが染みついた事務所は、いつも以上に重い沈黙に支配されていた。ロゴスは机の前の椅子に深く腰かけ、指先で黒いデータチップを弄んでいる。アニマは、彼の傍らで静かに佇み、その横顔をサファイアの瞳で見守っていた。
「やはり、駄目か」
ロゴスは、チップを安物の解析装置から引き抜くと、それを机の上に放り出した。
「三重どころじゃない。おそらく、七重以上の論理障壁が施されている。ギルドの最新技術を使った、軍用の暗号化だ。この事務所のガラクタじゃ、手も足も出ん」
「ギデオンに、頼みますか?」
「奴なら、あるいは可能かもしれん。だが、時間がかかる。それに、このチップの存在が外部に漏れること自体がリスクだ」
ロゴスは、冷え切った代用コーヒーを一口飲んだ。その味は、まるで今の自分たちの状況を象徴しているかのように、ひどく苦く、そしてざらついていた。
カレル・アンベルクは殺された。おそらくは、ギルドの手によって。そして、自分たちは、彼の遺したこの小さな遺品を巡って、巨大な組織と全面的に対立する道を選んでしまった。
「……ロゴス様」アニマが、躊躇いがちに口を開いた。「私たちは、危険な領域に踏み込み過ぎたのではないでしょうか。ゼノン様の死の真相を明らかにすることは、私の願いです。ですが、そのために、あなた様の命が……」
「今さらだろう」ロゴスは、彼女の言葉を遮った。「最初の依頼を受けた時から、こうなることは分かっていた。それに、もう探偵ごっこじゃない。これは、戦争だ」
彼の言葉に、アニマは唇を閉ざした。彼女の論理回路は、彼の言う『戦争』という言葉が比喩ではないことを、正確に理解していた。
その瞬間だった。
ピシッ。
静寂を破る、ガラスの割れるような、乾いた音。
音は、事務所の窓からだった。厚い防塵ガラスに、小さな亀裂が走り、そこから、一本の細い金属の矢のようなものが突き刺さっている。それは、音もなく、ロゴスの耳元を掠めて、背後の壁に突き立っていた。
「……!」
ロゴスは、椅子から転げ落ちるように床に身を伏せた。ほぼ同時に、二発、三発と、同じ矢が窓ガラスを貫通し、彼がさっきまで座っていた椅子や、机の上のランプを正確に破壊していく。
高圧エーテル式消音狙撃銃。審問庁の特殊部隊か、ギルドの暗殺部隊しか持たない、プロの道具だ。
「アニマ、伏せろ!照明を消せ!」
ロゴスの怒声に、アニマは即座に反応した。彼女は床に身を屈めながら、思考コマンドで事務所の照明回路をショートさせる。途端に、室内は完全な闇に包まれた。窓の外から差し込む、イゼルガルドの薄暗い光だけが、散乱した室内の様子を、まるで悪夢のようにぼんやりと照らし出している。
狙撃が止んだ。だが、それは終わりを意味しない。むしろ、始まりの合図だ。
ギィ、と。事務所の扉が、ゆっくりと、軋む音を立てて開いた。闇の中に、二つの人影が音もなく滑り込んでくるのが、辛うじて見えた。全身を黒い強化戦闘服で覆い、顔にはガスマスクのような呼吸器を装着している。その手には、狙撃銃よりも小型の、連射式の拳銃が握られていた。
ロゴスは、机の影に身を潜めながら、息を殺した。敵は二人。装備から見ても、ただのチンピラではない。自分とアニマを、確実に、そして静かに『処理』するために送り込まれた、ギルドの刺客だ。
『ターゲットの生命反応を確認。一名はオートマタ』
刺客の一人が、マスク越しに、くぐもった声で呟いた。彼らのマスクのレンズが、赤外線を放って闇の中をスキャンしている。
『オートマタは破壊。男は生け捕りにしろ。チップの場所を吐かせる』
もう一人が応じる。その声には、一切の感情がなかった。
(……チップのことが、もうバレているのか)
ロゴスは歯噛みした。カレルの部屋を出た時から、すでに尾行されていたのかもしれない。
「ロゴス様。敵は二人。右前方、距離7メートル。左前方、距離8.5メートル。心拍数、共に安定。極度の訓練を受けています」
アニマの合成音声が、囁くようにロゴスの耳元に届いた。彼女は、自らのセンサーで捉えた情報を、正確に彼に伝えていた。
二人の刺客が、ゆっくりと距離を詰めてくる。その動きには、一切の無駄がない。彼らは、暗闇をものともせず、確実に獲物を追い詰める捕食者だった。
絶体絶命。ロゴスの手には、護身用の古いリボルバーが一丁あるだけだ。それも、実弾は三発しか残っていない。まともに撃ち合えば、一瞬で蜂の巣にされるだろう。
だが、ロゴスの瞳には、絶望の色はなかった。そこにあったのは、極限の状況下でこそ燃え盛る、冷たく、そして獰猛な光だった。
彼は、足元に転がっていた、中身の残った蒸留酒の瓶を手に取った。そして、ポケットから、愛用のオイルライターを取り出す。
「アニマ。俺が合図をしたら、あの窓に、何か硬いものを全力で投げつけろ」
「……!了解しました」
刺客たちが、机のすぐそばまで到達した。その一人が、銃口をロゴスが隠れる影に向ける。
「今だ!」
ロゴスの叫びと同時に、アニマが行動した。彼女は、床に落ちていた金属製の文鎮を掴むと、人間離れした膂力で、狙撃によって亀裂が入っていた窓ガラスの中心めがけて、それを叩きつけた。
ガッシャーン!
けたたましい音を立てて、窓ガラスが粉々に砕け散る。刺客たちの注意が、一瞬だけそちらへ向いた。
その隙を、ロゴスは見逃さなかった。
彼は、机の影から飛び出すと同時に、ライターで火をつけた蒸留酒の瓶――即席の火炎瓶――を、刺客たちの足元へと投げつけた。
瓶が割れ、アルコール度数の高い液体が飛散し、そこに炎が引火する。
ゴウッ!
爆発的な音と共に、炎の壁が事務所の中を走り、刺客たちを飲み込んだ。
「ぐわぁっ!」
炎に巻かれた一人が、短い悲鳴を上げる。もう一人は、咄嗟に後方へ飛び退いて炎を避けたが、その体勢は完全に崩れていた。
ロゴスは、その隙を見逃さない。彼は、炎の壁を突っ切るようにして、体勢を崩した刺客に突進し、その懐に潜り込むと、銃を持つ腕を掴み、捻り上げた。関節が外れる鈍い音が響き、刺客の手から銃が滑り落ちる。さらにロゴスは、空いた手で相手のマスクを掴み、力任せに引き剥がした。
素顔が晒された刺客は、一瞬だけ驚愕の表情を浮かべたが、次の瞬間、彼は自らの奥歯を強く噛みしめた。彼の口から、黒い血が溢れ出す。仕込んでいた毒薬による、自決だった。
炎の中から、もう一人の刺客が、燃え盛る服のまま転がり出てきた。だが、彼もまた、任務の失敗を悟り、同じように自ら命を絶った。
数秒の静寂の後、残されたのは、燃え盛る炎が事務所の安物の家具を舐める音と、二つの死体、そして、荒い息をつくロゴスと、彼の傍らに駆け寄ったアニマだけだった。
ロゴスは、刺客の死体から、まだ熱を帯びたエーテルガンを拾い上げた。その側面には、小さな紋章が刻印されている。それは、技術魔術師ギルドの、それも、内部の保安部隊にしか使われない特殊な紋章だった。
「……」
彼は、無言でそれをアニマに見せた。彼女のサファイアの瞳が、その紋章の持つ意味を正確にデータとして認識し、わずかに見開かれる。
これは、警告ではない。脅しでもない。
自分たちを社会的に、そして物理的に、完全に『消去』するという、ギルドの明確な意志表示だ。
ロゴスは、燃え広がる炎を見つめながら、口の端に、獰猛な笑みを浮かべた。
「ああ、そうかよ、マキナ卿」
彼は、まるで目の前にいる好敵手に語りかけるように、静かに、しかし、心の底からの決意を込めて呟いた。
「お望み通り、戦争を始めてやろうじゃないか」
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第八話、いかがでしたでしょうか。
ついに、敵は牙を剥き、探偵の日常は炎と共に終わりを告げました。ここから、物語はさらに危険な領域へと加速していきます。
若き研究員が遺したデータチップには、一体何が記録されているのか。そして、ギルドという巨大な敵を前に、二人はどう立ち向かうのか。
もし、この先の二人の戦いを見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




