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1.2.3.(第7節)「時空間結晶の残響」

沈黙は、嘘を塗り固めるための漆喰。

だが、過去の記録は、消し去ることのできない残響を遺す。

時計仕掛けの少女の記憶に刻まれた、ただ一つの不協和音。

それが、次なる悲劇の舞台の幕を開ける、錆びついた鍵となる。

死者のスケジュールだけが、真実への道を照らし出す。

技術魔術師ギルドの巨大な黒曜石の扉が背後で閉じた時、ロゴスは自らが再び巨大な迷宮に足を踏み入れたことを悟っていた。だが、今度の迷宮は、かつて彼が彷徨った証明不可能な謎のそれとは違う。出口は確かに存在する。そして、その出口へと続く道筋には、マキナ卿という男が残した、無数の、微細な論理の亀裂が道標のように続いている。問題は、その亀裂を物的な証拠として、ヴェリタスのような規則の番人たちに突きつけられないことだった。

事務所へと戻る昇降機の中、ロゴスは沈黙していた。彼の頭脳は、マキナ卿との会話を反芻し、その完璧な論理構造の裏に隠された嘘の意図を再構築しようと、猛烈な速度で回転していた。あの男は、ゼノン顧問の死に関わっている。それも、深く。禁書庫への不正アクセス、『時空間結晶』という禁断の単語。それらすべてを、彼は『御伽噺』という言葉の壁の向こうに隠した。だが、その壁には無数の亀裂が走っていることを、ロゴスだけが視ていた。

「ロゴス様」

隣に立つアニマが、静かに口を開いた。彼女のサファイアの瞳は、鉄格子の窓の外を流れ落ちていく、上層区画の整然とした光を見つめていた。

「マキナ卿は、嘘をついておられました。私の共感コアが、彼の言葉に含まれる感情パラメーターと、彼の表面的な表情との間に、0.87秒の深刻な遅延ディレイを検知しました。それは、極めて高度な偽りを構築している際の、典型的な精神的負荷の兆候です」

「ああ、その通りだ」ロゴスは、アニマの方を見ずに応じた。「奴は、芸術的なまでに完璧な嘘つきだ。だが、その完璧さこそが、俺の目には欠陥として映る。問題は、どうやってその嘘を暴くかだ。奴の牙城に正面から乗り込んでも、あの慇懃な態度で全てをはぐらかされるだけ。物証がなければ、ヴェリタスも動かん。完全に、手詰まりだ」

その言葉とは裏腹に、彼の声には奇妙な熱がこもっていた。解き明かすべき謎が、より複雑で、より強大であればあるほど、彼の思考は冴えわたる。失職し、酒に溺れていた数年間で錆びついていたはずの探偵の魂が、今や完全に覚醒し、獲物を前にした飢えた獣のように、次なる一手を探し求めていた。

事務所に戻り、冷え切った空気に包まれると、ロゴスは一直線に机に向かった。しかし、彼が手に取ったのは蒸留酒の瓶ではなく、一枚の羊皮紙とインク壺だった。彼は、記憶を頼りに、マキナ卿との会話で視えた『論理の亀裂』の箇所を、単語レベルで書き出していく。

「『初耳だな』……ここで最初の亀裂。ゼノンと禁書庫の関係を、奴は確実に知っていた」

「『御伽噺』……ここで最大の亀裂。時空間結晶は、御伽噺などではない。ギルドがその存在を秘匿している、現実のアーティファクトだ」

「だが、これだけでは状況証拠にすらならん」ロゴスはペンを置き、椅子の背にもたれかかった。「奴を動かすか、あるいは奴の周囲を崩すための、新たな『事実』が必要だ。ギデオンから得た情報は、奴を揺さぶるには足りなかった」

沈黙が落ちた。部屋に響くのは、窓を叩く錆色の雨音と、アニマの胸元から聞こえる時計仕掛けの心臓の、規則正しい鼓動だけ。その時、不意にアニマが口を開いた。

「ロゴス様。私に、何かできることはありますでしょうか」

その問いに、ロゴスは目を開けた。彼の視線は、虚空を彷徨い、やがて、静かに佇むアニマの姿に焦点を結んだ。彼女の存在そのものが、この事件の始まりだった。彼女がもたらした『焦げ付いた砂糖の香り』という最初の矛盾。

「……アニマ」ロゴスは、ゆっくりと身体を起こした。「君は、ゼノン顧問の助手を務めていたと言ったな」

「はい。彼のスケジュール管理、資料の整理、通信の取次などが、私の主な任務でした」

「君の内部記録……AIコアには、その時の業務記録がすべて残っているか?」

「もちろんです。機密保持契約に基づき、三重の暗号化を施した上で、私の記憶領域に完全に保存されています。評議会の正式な命令がなければ、私自身もアクセスできない領域ですが」

「命令がなくとも、君自身の意志で、その記録をスキャンすることは可能か?例えば、公式な記録――審問庁に提出されたゼノン顧問の行動記録――と、君の内部にある『生』の記録とを照合し、その間に齟齬がないかを探し出す、といった作業は」

ロゴスの問いに、アニマはわずかに瞬きをした。彼女の論理回路が、その命令の意図と、それに伴うリスクを高速で計算しているようだった。それは、審問庁の公式記録を疑い、独自のデータでそれを覆そうという、明確な反逆行為に他ならない。

「……可能です」やがて、彼女は静かに、しかしはっきりと答えた。「私のコアに直接アクセスし、クロスリファレンスを実行します。どのような情報をお探しですか?」

「何でもいい。公式記録から削除された予定、記録されているのに実際には行われなかった訪問、予定時刻と実際の行動との間の、コンマ数秒のズレでも構わん。ゼノン顧問が殺される前の、そうだな……最後の1週間。その期間の、あらゆる『ノイズ』を探し出してくれ。マキナ卿の完璧な嘘を崩せるのは、同じく完璧なはずの公式記録に潜む、ほんの僅かな矛盾だけだ」

その言葉を受け、アニマは静かに頷いた。彼女は部屋の中央に歩み出ると、その場にすっと膝を折って座った。まるで瞑想に入るかのように、そのサファイアの瞳を閉じる。途端に、彼女の周囲の空気が、微かに震えるような感覚があった。彼女のAIコアが、内部の膨大なデータアーカイブにアクセスするため、全リソースを集中させているのだ。彼女の胸元で時を刻んでいた時計仕掛けの鼓動が、普段よりも少しだけ速いリズムを刻み始める。

ロゴスは、その様子を黙って見守っていた。彼は、アニマという存在の特異性を改めて感じていた。彼女は単なる機械ではない。心を語り、自らの意志で危険な調査に身を投じる。そして今、彼女の記憶そのものが、この膠着した状況を打破するための、唯一の武器となろうとしていた。

時間は、静かに流れていった。窓の外では、錆色の雨が降り続いている。事務所の中は、アニマの内部で稼働するプロセッサのかすかな高周波音だけが満たしていた。一時間、二時間が経過しただろうか。ロゴスが冷え切った代用コーヒーを三杯ほど飲み干した頃、それまで微動だにしなかったアニマの瞼が、ぴくりと震えた。

そして、彼女はゆっくりと目を開けた。そのサファイアの瞳は、先程よりも深い光を宿しているように見えた。

「……見つかりました」

彼女の声は、かすかに、しかし確信に満ちていた。

「一つだけ。公式の行動記録と、私の内部記録との間に、明確な矛盾が存在します」

「何だ」

「事故が起きる二日前。ゼノン様は公式記録では、『終日、自室にて評議会への報告書を作成』となっております。ですが、私の内部記録によれば、その日の午後、二時間だけ、彼のスケジュールには空白の時間がありました。そして、彼の移動記録によれば、彼は官用リフトではなく、民間の貨物用リフトを使い、ある場所へ向かわれています」

「どこだ」

「技術魔術師ギルドの、第七研究区画です。そこは、ギルドの中でも特に古い施設が集まる場所で、主に基礎理論の研究や、若手の技術者が割り当てられる区画だと記録されています」

第七研究区画。ギルドの聖域である禁書庫とは違う。だが、ギルドの敷地内であることに変わりはない。

「そして、彼はそこで、誰かと密会していました」アニマは続けた。「通信記録はありません。ですが、彼の生体認証キーが、第七研究区画にある、ある個人の研究室の扉を開けた記録が残っています」

「誰の研究室だ」

「若手研究員、カレル・アンベルク。記録によれば、彼は数年前にギルドに入ったばかりの技術者で、その専門は……『古代情報媒体の構造分析と、その復元理論』です」

その瞬間、ロゴスの頭の中で、バラバラだった歯車が、一つの巨大な機構として、確かな音を立てて噛み合った。

古代情報媒体の復元。時空間結晶。そして、ギルドの若手研究員との密会。

ゼノン顧問は、独力で時空間結晶を分析することに行き詰まり、その分野の専門家である、ギルド内部の、しかし権力の中枢からは遠い場所にいる若手研究員に、協力を求めたのだ。おそらく、何らかの報酬と引き換えに。そして、その研究員と共に、彼はギルドの最も深い秘密に触れてしまった。

「……アニマ。そのカレル・アンベルクという研究員の、現在の所在は分かるか」

「はい。ギルドの職員データベースにアクセスします。……彼は、ギルドが所有する職員用の宿舎に居住しています。中層区の、第十二区画です」

「行くぞ」

ロゴスは、考えるよりも早く立ち上がっていた。外套を掴み、事務所の扉へと向かう。マキナ卿は、まだ自分たちがこの事実にたどり着いたことを知らないはずだ。だが、時間の猶予はない。このカレルという研究員が、事件の唯一の目撃者であり、そして、マキナ卿の嘘を物理的に証明できる、唯一の証人なのだ。

中層区の第十二区画は、他の居住区と変わらない、雑然とした街並みが広がっていた。ギルドの職員用宿舎は、その一角に立つ、装飾のない、ただ機能性だけを重視したような無機質な建物だった。ロゴスとアニマは、受付の目を盗み、建物の裏手にある非常階段を使って、カレルの部屋がある階へと向かった。

彼の部屋は、廊下の最も奥にあった。ドアのプレートには、確かに『カレル・アンベルク』という名前が刻まれている。

ロゴスは、ドアノブに手をかける前に、一瞬だけ動きを止めた。彼は目を閉じ、意識を集中させる。論理の格子が、彼の精神に浮かび上がる。そして、目の前のドア。その構造を示す青白い線の中に、彼は視てしまった。

ピシッ。

鍵だ。ドアの内部にある、シリンダー錠の論理構造に、微細な、しかし明確な亀裂が走っていた。それは、正規の鍵以外のもので、無理やりこじ開けられた痕跡。

「……遅かったか」

ロゴスは悪態をつくと、もはや躊躇うことなくドアノブを回した。鍵はかかっていなかった。軋む音を立てて、扉が内側へと開く。

途端に、むわりと鼻をつく、甘く、そして不快な匂い。

血の匂いだ。

部屋の中は、荒らされていた。床には研究資料と思われる羊皮紙が散乱し、机の上の実験器具はなぎ倒されている。

そして、その中央。

床に広がる黒い血だまりの中に、一人の若い男が、うつ伏せに倒れていた。背中には、心臓を正確に貫いたのだろう、一本の刃物が深々と突き刺さっている。その顔を見るまでもなく、彼がこの部屋の主、カレル・アンベルクであることは明らかだった。

「……」

アニマが、息を呑むのが分かった。彼女の共感コアが、この凄惨な光景と、部屋に残された死の残響を、ノイズとしてではなく、明確な『悲劇』として受信していた。

ロゴスは、ゆっくりと部屋に足を踏み入れた。彼の瞳は、もはや死体には向けられていなかった。彼は、部屋の隅々を、まるで獲物を探す猛禽のように鋭い視線でスキャンしていく。

敵は、自分たちの動きを読んでいた。あるいは、ゼノン顧問が殺されたのと同じ時に、この若き協力者もまた、口を封じられていたのかもしれない。どちらにせよ、唯一の証人は、永遠に沈黙してしまった。

だが、ロゴスは諦めてはいなかった。彼の呪われた才能は、物理的な証人だけでなく、その場に残された論理の矛盾をも暴き出す。

彼の視線が、部屋の一点で、ぴたりと止まった。

それは、倒れたカレルの手元。彼の指は、何かを掴もうとするかのように、不自然に固まっていた。

そして、その指先が触れていた床板の上に、何かがあった。

それは、この凄惨な殺人現場には、あまりにも不釣り合いな、小さな、輝く、結晶の欠片だった。

時空間結晶の、残響。

マキナ卿が消し去ろうとし、若き研究員が命を懸けて遺した、最後のメッセージ。

ロゴスは、その小さな光の中に、次なる謎への、そして巨大な陰謀の核心へと続く、新たな扉を見出していた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第七話、いかがでしたでしょうか。

新たな手がかりは、新たな悲劇へと繋がってしまいました。敵は、ロゴスたちの一歩先を行動しています。

絶体絶命の状況で、死者が遺した最後の『残響』。これが、次なる展開の鍵となります。

もし、この先の二人の反撃にご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと幸いです。皆様の応援が、探偵の思考をより深く、鋭くさせます。

新たな殺人と、残された謎の欠片。ここから、本当の戦いが始まります。どうぞ、お見逃しなく。

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