1.2.2.(第6節)「技術魔術師ギルドの沈黙」
秩序の頂点にそびえるは、知識を独占する者たちの牙城。
そこでは、礼節が最も鋭い刃となり、微笑みが最も厚い盾となる。
慇懃な言葉の裏に潜む、完璧な嘘。
探偵の呪われた瞳だけが、その論理に走る微細な亀裂を見抜く。
ギデオンの店を後にした時、下層街の息詰まるような空気は、もはやロゴスの思考を鈍らせる重りではなかった。それはむしろ、これから挑むべき謎の深さを象徴する、濃密な気配へと変わっていた。情報屋の薄汚れた店内で手に入れた『ゼノン顧問による禁書庫への不正アクセス』という第二の歯車は、彼の頭脳という名の絡繰機械の中で、確かな手応えをもって回転を始めていた。
「技術魔術師ギルド……」
上層区画へと向かう昇降機の中で、アニマが静かに呟いた。彼女の合成音声には、データベースが提示する客観的な情報以上の、一種の畏怖のような響きが混じっていた。
「はい。私の記録によれば、ギルドは都市の創設期から存在する最も古い組織の一つです。エーテル化学に関するあらゆる知識と技術を独占し、イゼルガルドのインフラ……動力、照明、通信、その全てを事実上支配下に置いています。彼らの許可なくして、この都市では歯車一つ動かすことはできません。統治評議会ですら、ギルドに対しては強い態度に出られない、と」
「支配者、というわけか」ロゴスは、鉄格子の窓の外を流れゆく、より洗練された中層区の街並みを眺めながら応じた。「そして、どんな組織であれ、支配者は秘密を抱えている。特に、自分たちの支配を揺るがしかねない、禁断の知識についてはな」
『時空間結晶』。その単語が、彼の脳裏をよぎる。ゼノン顧問が追っていたものがそれだとすれば、彼がギルドの最も深い場所に触れようとしていたことは疑いようがない。そして、ギルドがそれを理由に彼を消したのだとすれば、事件の根はロゴスが当初想定していたよりも、遥かに深く、そして暗い場所へと続いていることになる。
昇降機は、下層の混沌とも、中層の雑然とも違う、完璧に計算され尽くした上層区画のプラットフォームに静かに到着した。空気は濾過され、冷たく澄み渡り、まるで巨大な機械の内部に迷い込んだかのような無機質な静寂が支配している。道行く人々の服装は質が良く、その歩き方には一分の隙もない。だが、その表情は誰もが能面のように無表情で、感情という非効率なプログラムを切り捨てているかのようだった。
その中でも、ひときわ異様な存在感を放つ建造物が、前方にそびえ立っていた。技術魔術師ギルドの本部だ。
それは、一つの様式では到底定義できない、狂気的な建築物だった。ゴシック様式を思わせる天を突く尖塔の周りを、スチームパンク的な巨大な歯車や真鍮のパイプラインが、まるで生き物の血管や内臓のように絡みついている。建物の表面は黒曜石のように磨き上げられているが、その窓枠や扉には、朽ち果てたアール・デコを思わせる、退廃的で有機的な装飾が施されていた。建物全体が、まるで異なる時代の論理を無理やり一つに融合させたかのような、矛盾と不協和音の塊。しかし、そこには圧倒的なまでの技術力と、他者を寄せ付けない権威の匂いが満ち満ちていた。
「……ここが、絡繰の竜の巣か」
ロゴスは、ギデオンの言葉を反芻しながら呟いた。巨大な黒曜石の扉には、一切の取っ手や鍵穴が存在しない。二人が扉の前に立つと、扉の表面に青白い光で複雑な幾何学模様が走り、やがて音もなく、内側へと滑るように開いた。
内部は、外観の混沌とは裏腹に、静謐な空間が広がっていた。天井は目も眩むほどに高く、巨大なフーコーの振り子が、都市の自転を証明するかのように、厳かなリズムで揺れている。床には、天体の運行図を模した巨大な真鍮の象嵌が埋め込まれ、壁には歴代のギルドマスターたちの冷たい表情を刻んだレリーフが並んでいた。空気は、微かなオゾンと、古い羊皮紙の匂いが混じり合った、独特の匂いがした。知識の匂いだ。しかし、それは開かれた知識ではなく、独占され、秘匿された知識特有の、どこか黴臭い匂いだった。
「ご来訪の目的を伺ってもよろしいかな、元・審問官殿」
声は、どこからともなく響いてきた。ホールの中央に立つと、床の一部がせり上がり、受付カウンターと、そこに立つ一人の若いギルド員が現れたのだ。彼の態度は丁寧だったが、その目には非ギルド員に対する明確な侮蔑の色が浮かんでいる。
「ギルドマスターにお会いしたい。第四区画の事故で死亡した、ゼノン顧問の件で、いくつか確認したいことがある」
ロゴスが用件を告げると、ギルド員はわずかに眉をひそめた。
「マスターは多忙です。それに、あの件は審問庁によって『事故』と結論が出されたはず。我々ギルドが、外部の方にこれ以上お話しすることはありません」
その答えは、完全に予測通りだった。ヴェリタスが築き上げた『完璧な報告書』という名の城壁は、ここでも彼の前に立ちはだかる。だが、ロゴスは動じなかった。
「そうか。ならば、こう伝えろ。ゼノン顧問が、事故の直前、おたくらの『禁書庫』に不正なアクセスを試みていた痕跡を掴んだ、と。その件について、ギルドの公式な見解を伺いたい。審問庁の『元』職員として、非公式にな」
その言葉は、若いギルド員の表情から完璧なまでの冷静さを奪い去った。禁書庫。その単語は、ギルド内部の人間にとって、触れてはならない禁忌の代名詞なのだろう。彼の動揺は、ギデオンの情報の正しさを雄弁に物語っていた。
「……少々、お待ちください」
震える声でそう言うと、彼はカウンターの下で何らかの通信を行った。数分の、まるで時間が引き伸ばされたかのような沈黙の後、彼は顔を上げ、ロゴスに深々と頭を下げた。その瞳からは、先程までの侮蔑の色は消え、代わりに恐怖に近い感情が浮かんでいた。
「……マスターが、謁見の間でお待ちです。こちらへ」
案内されたのは、建物のさらに奥深くにある一室だった。巨大な円形の部屋で、壁一面が床から天井までの本棚になっており、革の背表紙を持つ無数の書物がぎっしりと並んでいる。だが、それ以上に目を引いたのは、部屋の中央に浮かぶ、巨大な天球儀だった。それは、無数の歯車とレンズで構成され、ゆっくりと自転しながら、内部にエーテルの光で描かれた恒星や惑星を、複雑な軌道で巡らせていた。
そして、その天球儀を、まるで我が子を慈しむかのように眺めている一人の男がいた。
「ようこそ、ロゴス君。そして、そちらの美しい自動人形さん」
男はゆっくりと振り返った。年の頃は四十代半ばだろうか。高価そうな、しかし華美ではない、仕立ての良い黒いローブを身にまとっている。白髪交じりの髪はきれいに整えられ、穏やかな笑みを浮かべたその顔には、深い知性と、人を安心させるような包容力が満ちていた。彼こそが、この巨大な知識の牙城を束ねる頂点、技術魔術師ギルドのギルドマスター、マキナ卿その人だった。
「君の噂は、かねがね耳にしているよ。かつては、ヴェリタス君と並び称された、審問庁きっての天才だったと。その君が、私の巣にまで何の用かな?」
その物腰は、どこまでも慇懃で、柔らかかった。だが、ロゴスはその言葉の端々に、隠しきれない優越感と、全てを見透かしているかのような冷徹さを感じ取っていた。
「単刀直入に伺います、マキナ卿」ロゴスは、相手の作り出す空気に飲まれぬよう、意識して単刀直入に切り出した。「ゼノン顧問の死についてです。我々の調査では、彼が死の直前、ギルドの禁書庫にアクセスしようとしていたことが分かっています。彼は、何を調べていたのですか?」
「禁書庫、か」マキナ卿は、少しだけ驚いたような表情を作ってみせた。だが、その瞳の奥は全く揺らいでいない。「それは初耳だな。ゼノン殿は、評議会の中でも特に古い技術に関心をお持ちの方だったからね。あるいは、何らかの学術的な興味から、我々のアーカイブを閲覧したいと、正規の手続きを準備されていたのかもしれない。だが、ご存知の通り、あのような悲劇が起きてしまった。残念なことだ」
その答えは、完璧だった。ゼノンの行動を肯定も否定もせず、すべてを『可能性』という曖昧な霧の中に包み込んでしまう。
「では、顧問が個人的に『時空間結晶』という代物を研究していたことはご存知でしたか?」
ロゴスは、さらに深く踏み込んだ。その単語が出た瞬間、マキナ卿の穏やかな笑みに、ほんの一瞬、コンマ数秒にも満たない微細な硬直が走ったのを、ロゴスは見逃さなかった。
「……クロノ・クリスタル。随分と懐かしい、御伽噺の名前が出てきたものだ」マキナ卿はすぐに平静を取り戻し、楽しそうに笑った。「まさか、君ほどの論理の探求者が、そのような伝説を信じているとでも言うのかね?あれは、ギルドの創設者たちが、自らの技術力を誇示するために創り出した、ただの寓話だよ」
「では、これは?」
ロゴスは懐から、ゼノンの遺品である記録媒体の破片を取り出し、彼に見せた。マキナ卿は、興味深そうにそれに歩み寄ると、指で触れることなく、じっくりと観察した。
「ふむ。確かに、興味深いアーティファクトだ。古代の技術言語で書かれている。だが、これがクロノ・クリスタルそのものであるという証拠はどこにもない。あるいは、ゼノン殿がどこかの遺跡から発掘した、ただのガラクタかもしれんよ」
マキナ卿の言葉は、どこまでも理路整然としていた。ロゴスの提示する全ての証拠を、彼は巧みなレトリックで無価値化していく。協力する気など、毛頭ない。彼の目的は、ロゴスという厄介な蝿を、穏便に追い払うことだけだ。
ロゴスは、目を閉じた。
意識を集中させ、世界の表層を剥ぎ取っていく。
彼の精神の前には、再び、青白い光で構成された論理の格子が浮かび上がる。そして、目の前に立つマキナ卿。彼の存在もまた、論理の線で構成されている。彼の言葉、彼の表情、彼の仕草、その全てが、完璧で、揺るぎない論理の構造物としてロゴスの目に映っていた。
『初耳だな』
『正規の手続きを準備されていたのかもしれない』
『随分と懐かしい、御伽噺の名前だ』
『ただのガラクタかもしれんよ』
マキナ卿が発した言葉が、彼の脳内で反響する。その一つ一つが、完璧なアリバイと、非の打ちどころのない否定の論理を構築していた。
だが。
ピシッ。
その完璧な論理構造物の、ちょうど中心。彼の穏やかな笑みを構成する線の、まさにその一点に、黄金色の亀裂が走った。
ピシッ、ピシリ。
それは、一つではなかった。『時空間結晶』という単語に反応した時。『禁書庫』という言葉を口にした時。彼の言葉の端々、その完璧な論理の壁の、ちょうど継ぎ目の部分に、無数の、微細な、しかし明確な『論理の亀裂』が、まるで蜘蛛の巣のように広がっていくのを、ロゴスは確かに視ていた。
彼は、嘘をついている。
それも、単純な嘘ではない。真実の断片を巧みに織り交ぜ、相手の思考を誘導し、完璧な論理で塗り固められた、芸術的なまでに高度な嘘だ。だが、その完璧さ故に、彼の能力の前では、その継ぎ目に生じる僅かな歪みが、致命的な亀裂として露わになってしまう。
「……そうですか。御伽噺、でしたか」
ロゴスは、ゆっくりと目を開けた。彼の表情は、先程までと何も変わらない。だが、その瞳の奥には、確信という名の冷たい光が灯っていた。
「どうやら、私の勘違いだったようだ。お時間を取らせてしまい、申し訳ありませんでした、マキナ卿」
「いや、構わんよ」マキナ卿は、満足げに微笑んだ。「いつでも訪ねてきたまえ。君のような若き知性と語り合うのは、私にとっても良い刺激になる。だが、あまり、御伽噺に深入りしすぎないことだ。現実が見えなくなってしまうからね」
その言葉を背に、ロゴスとアニマは謁見の間を後にした。巨大な黒曜石の扉が、音もなく背後で閉じる。
ギルドの内部は、相変わらず静寂に包まれていた。だが、ロゴスの耳には、もう聞こえていた。
この静寂の奥深くで、巨大な陰謀という名の歯車が、軋みを上げて回転している、その不協和音が。
そして、その歯車を回している男の、穏やかな笑みの下に隠された、冷たい沈黙の意味を。
彼は、間違いなく『黒』だ。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第六話、いかがでしたでしょうか。
ついに姿を現した、物語の最初の強敵、マキナ卿。彼の慇懃な態度の裏に隠された嘘を、ロゴスは見抜きました。
ここから、二人の知的な戦いが本格化していきます。
もし、この先の二人の対決に胸が躍りましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと幸いです。皆様の応援が、探偵の次の一手を導きます。
敵の嘘を見抜いたロゴスは、次なる証拠を求めてどこへ向かうのか。どうぞ、ご期待ください。




