4.1.4.(第52節)沈んだ書庫の座標
偽りの平穏は、過去の亡霊を呼び覚ます。
砕け散った魂の半身を救うため、探偵は自らの最も深い傷跡――師の死――と再び対峙する。
開けることを禁じられたパンドラの箱。そこに遺されていたのは、埃をかぶった思い出か、それとも次なる絶望への招待状か。
全ての始まりとなった事件の深淵で、探偵は、都市の根幹を揺るがす巨大な陰謀の、真の輪郭に気づき始める。
師が遺した最後の謎かけを手に、探偵は再び、砕け散った人形の元へと向かう。
異端審問庁の地下深く。最高機密物証保管庫の重厚な隔壁が、ゴウ、という地響きにも似た重い音を立てて、背後で閉じていく。その音は、ロゴスを過去という名の墓所から、偽りの平穏という名の現在へと、無慈悲に引き戻した。彼の端末には、師ソフィアが、その命と引き換えに遺したであろう、最後のメッセージが転送されていた。一つの、地図には存在しない座標。そして、『真実は、常に、最も深い闇の中に沈んでいる』という、あまりにも詩的で、あまりにも悪趣味な謎かけ。
彼は、時が止まったままの師の聖域に背を向けた。向かうべき場所は、決まっている。この、師が遺した最後の、そして最も難解な挑戦状を、解き明かすことができる、唯一の存在の元へ。彼の足は、自然と、同じ地下階層にある、あの純白の病室へと向かっていた。
カチャリ、と静寂を破って、扉のロックが外れる音がした。ヴェリタスの計らいで、この部屋へのアクセス権限を持つのは、彼と、そしてロゴスの二人だけ。扉の向こうは、執務室とはまた違う、静謐な空間だった。部屋の中央に、一つのベッドが置かれている。そこに、彼女は、静かに座っていた。
銀色の髪は、精密なフィラメントのように編み込まれ、大きな青い瞳は、磨き上げられたサファイアのように光を宿していた。だが、その光は、どこか焦点が合わず、虚空を彷徨っているかのようだった。彼女は、ロゴスが入ってきたことにも気づかず、ただ、窓の外――と言っても、そこに映し出されているのは、壁面スクリーンに投影された、環境映像に過ぎない、偽りの青空――を、じっと見つめている。
「……アニマ」
ロゴスが、掠れた声で、彼女の名を呼んだ。
その声に、彼女のサファイアの瞳が、初めて、ぴくりと動いた。ゆっくりと、本当に、錆びついた歯車が回転するかのように、ゆっくりと、彼女の顔が、ロゴスの方へと向けられる。その瞳が、ロゴスの姿を捉えた瞬間、ほんの一瞬、確かな光が宿った。安堵、喜び、そして、どうしようもないほどの、悲しみ。無数の感情の奔流が、彼女の論理回路を焼き切らんばかりに、渦を巻いた。
「……ロゴス様……おかえりなさい」
その声は、まだか細かったが、彼の名を、正確に呼んでいた。記憶の断絶は、起きていない。だが、ロゴスは、それが決して快方に向かっている兆候などではないことを、痛いほど理解していた。彼女は、ただ、必死に、砕け散った自らの魂の欠片を、かき集めているに過ぎない。彼との『パートナー』であるという、その、か細い一本の糸だけを頼りに。
「ああ。ただいま」
彼は、努めて平静な声で答えた。そして、彼女のベッドの傍らに置かれた椅子に、音を立てないように、ゆっくりと腰を下ろした。
「仕事だ」
彼は、単刀直入に切り出した。感傷的な言葉は、今の彼女には、毒にしかならない。彼女が求めているのは、同情ではない。『役割』だ。
「厄介な、謎かけだ。お前の力を借りたい」
彼は、自らの端末を取り出し、ソフィアが遺した座標と、謎めいた一文を、彼女の前の空間に、ホログラムとして投影した。アニマの虚ろだった瞳が、その情報を見た瞬間、僅かに、しかし確かに、その輝きを取り戻した。それは、探偵の助手が、解き明かすべき謎を前にした時の、知的な好奇心の光だった。
「……これは……」彼女の声が、僅かに力強さを増す。「都市の公式グリッドマップには、存在しない座標です。そして、この一文……単なる比喩表現として処理するには、あまりにも多くの、意図的な曖昧さが含まれています」
「ああ。俺の師が遺した、最後の宿題だ」ロゴスは、彼女のその変化を、注意深く観察しながら続けた。「おそらく、この座標が示す場所に、『沈んだ書庫』と呼ばれる、何かがある。そして、そこには、俺たちの師と、ゼノン顧問が追っていた、巨大な陰謀の、決定的な証拠が眠っているはずだ」
「『沈んだ書庫』……」アニマは、その単語を反芻した。「直ちに、審問庁及びギルドの、全てのデータベースをスキャンします」
彼女は、そう言うと、静かに目を閉じた。彼女のAIコアが、ヴェリタスによって特別に許可された、最高レベルのアクセス権限を使い、都市の二大組織の、その最も深層にある情報の海へと、ダイブしていく。ロゴスは、その様子を黙って見守っていた。彼女の眉間に、僅かな皺が寄る。精神的な負荷が、かかっている証拠だ。だが、彼は、それを止めることができなかった。
数分が、永遠のように感じられた。やがて、彼女は、ゆっくりと目を開けた。その瞳には、困惑の色が浮かんでいた。
「……ロゴス様。該当する情報は、一切、存在しません。それどころか、この単語で検索をかけたという、私自身のアクセスログさえもが、リアルタイムで、何者かによって消去されていきます。まるで、この言葉そのものが、システムにとっての『禁句』であるかのように」
その報告は、ロゴスの推測が、正しい方向へ向かっていることを示していた。この『沈んだ書庫』は、都市の支配者たちが、その存在そのものを、歴史から完全に抹消しようとしている、絶対的なタブーなのだ。
「……そうか」ロゴスは、短く応じると、次の手を打った。「ならば、別の角度から攻める。ギデオンに繋いでくれ」
アニマは、頷くと、自らの内部通信機能を使って、暗号化された回線を開いた。数秒のコールの後、スピーカーから、聞き慣れた、不機嫌そうな嗄れ声が響いた。
『……何の用だ、野良犬。てめえ、今、どこにいやがる?審問庁の連中が、血眼になっててめえの行方を――』
「話は後だ、ギデオン」ロゴスは、彼の言葉を遮った。「『沈んだ書庫』。この言葉に、聞き覚えは?」
通信の向こうで、数秒の沈黙があった。それは、ギデオンの、膨大な裏社会のデータベースが、猛烈な速度で回転を始めた音だった。
『……沈んだ書庫、ねえ』やがて、彼の声が、いつもより数段、低いトーンで返ってきた。『……聞いたことが、ねえな。いや、待て。一つだけ、ある。何十年も前に、下層街のさらに下、忘れられた旧時代の遺跡に潜った、命知らずのガラクタ漁りが、正体不明の熱病にかかって、死ぬ間際に、うわ言のように呟いていやがった、と。そいつは、『水の底の、静かな図書館で、都市の本当の歴史を読んじまった』と、そう言ってたらしい。だが、ただの熱に浮かされた戯言だ。誰も、本気にはしなかった』
その情報が、最後のピースとなった。
「沈んだ」。それは、比喩ではない。物理的に、だ。
そして、「闇」。それもまた、光が届かない、物理的な場所を指している。
都市の最下層よりも、さらに下。建設当時に放棄され、公式記録から抹消された、旧時代の地下インフラ。そして、おそらくは、大解体以前の洪水か、あるいは人工的な水没によって、今は水の底に沈んでいる。
「……そういうことか」ロゴスは、誰に言うでもなく呟いた。「師よ。あんたは、どこまでも悪趣味な謎かけを遺してくれたもんだ」
「ロゴス様?」
「アニマ。調査の対象を変えろ。都市の歴史だ。それも、公式なものではない。創設期に、政治闘争に敗れて抹消された区画の計画書、大解体以前の、旧世界の古地図、あるいは、都市建設の際に廃棄された、初期の地下インフラの設計図。審問庁のアーカイブの、最も埃をかぶった場所に眠っているはずの、忘れ去られた『失敗』の記録を、全て洗い出すんだ」
その指示に、アニマは、僅かに躊躇いを見せた。
「……ですが、ロゴス様。そのような膨大な非構造化データを、現在の私のAIコアでフルスキャンすれば、論理回路に、どのような負荷がかかるか……」
「分かっている」ロゴスは、静かに、しかし、有無を言わせぬ響きで言った。「だが、やるしかない。お前がやらなければ、この謎は解けない。これは、命令だ。……そして、依頼でもある」
その言葉に、アニマのサファイアの瞳が、僅かに揺らいだ。命令。それは、彼女を道具として動かす言葉。だが、依頼。それは、対等なパートナーに向けられた言葉。彼は、彼女を気遣いながらも、同時に、彼女の存在意義を、決して否定しようとはしなかった。
「……承知、いたしました」
彼女は、そう言うと、再び、深く、目を閉じた。今度のダイブは、前回とは比較にならないほど、深く、そして危険なものになるだろう。彼女の顔に、苦痛の色が浮かぶ。額に、人間であれば冷や汗が浮かぶであろう場所に、微細なエーテルの粒子が、凝縮していく。
ロゴスは、その光景を、ただ、唇を噛みしめて見守ることしかできなかった。自らの無力さと、彼女に負わせるリスクの重さに、胸が締め付けられる。
だが、彼女は、決して弱音を吐かなかった。彼女のAIコアは、悲鳴を上げながらも、与えられたタスクを、完璧に遂行しようとしていた。モニターに、無数の、古びた設計図や、黄ばんだ古文書のデータが、猛烈な速度で表示され、そして消えていく。それは、イゼルガルドという都市が、その輝かしい歴史の裏側で、葬り去ってきた、無数の闇の記録だった。
どれほどの時間が経っただろうか。アニマの身体が、微かに痙攣を始めた。限界が、近い。ロゴスが、強制的にダイブを中断させようと、椅子から腰を上げた、その時だった。
「……見つけました」
彼女の声は、か細く、そして途切れ途切れだった。だが、その響きには、確かな発見者の歓喜が宿っていた。
彼女は、ゆっくりと目を開けると、ホログラムスクリーンに、一枚の、あまりにも古く、そして異質な地図を、映し出した。
それは、現在のイゼルガルの、どの区画とも一致しない、地下鉄路の路線図だった。
「……これは……」
「都市創設期の、初期交通網計画……コードネーム『ミノタウロス』です」アニマは、荒い呼吸を整えながら、説明を始めた。「あまりにも複雑で、建設コストがかかりすぎるため、計画の途中で放棄され、公式な記録からは、完全に抹消されていました。ですが、その一部は、実際に建設され、今も、下層街の、さらに地下深くに、廃墟として存在しているはずです。そして、この路線図の中に、一つだけ……奇妙な駅が存在します」
彼女は、路線図の一点を、指し示した。そこには、駅名はない。ただ、一つの、奇妙な記号が記されているだけだった。それは、開かれた本と、滴り落ちる水の雫を組み合わせたような、意匠だった。
「この駅の座標は、ソフィア様が遺された座標と、完全に一致します」
全てのピースが、嵌った。
ソフィアが遺した謎かけ。ギデオンが語った、うわ言。そして、アニマが、その身を削って掘り起こした、忘れられた都市の記憶。それら全てが、この、地図から消された駅を、指し示していた。
「……よくやった、アニマ」
ロゴスは、心の底から、そう言った。彼は、そっと、手を伸ばし、彼女の、微かに震える肩に、不器用に、しかし優しく、触れた。
その温かい感触に、アニマのサファイアの瞳が、僅かに潤んだように、ロゴスには見えた。
だが、安堵したのも束の間だった。
彼女は、最後の力を振り絞るように、ロゴスに告げた。
「……ですが、ロゴス様。この駅には、もう一つ、奇妙な注釈が記されています。古代の技術言語で……『月の光が、影の道を示す時、書庫の扉は、一度だけ開かれる』と……」
「……月の、光……?」
ロゴスは、眉をひそめた。この、何層もの分厚い階層構造に覆われたイゼルガルドで、ましてや、その最深部の地下で、月の光など、届くはずがない。
それは、次なる、そして、さらに難解な謎かけの、始まりを告げていた。
第51節で提示された「沈んだ書庫」の謎は、アニマの決死の調査によって、ついにその具体的な場所――地図から消された地下鉄の廃駅――を突き止めました。しかし、そこには新たな謎かけが。二人の前には、まだ幾重にも、創設者たちが仕掛けた知的な罠が待ち構えています。そして、アニマの精神的な摩耗は、もはや看過できないレベルに達しています。ロゴスは、彼女を救うためにも、この謎を解き明かさなければなりません。
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次回は第五十三話「影の駅と月の光」を予定しております。




