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4.1.3.(第51節)師が遺した最後の謎かけ

偽りの平穏は、過去の亡霊を呼び覚ます。

砕け散った魂の半身を救うため、探偵は自らの最も深い傷跡――師の死――と再び対峙する。

開けることを禁じられたパンドラの箱。そこに遺されていたのは、埃をかぶった思い出か、それとも次なる絶望への招待状か。

全ての始まりとなった事件の深淵で、探偵は、都市の根幹を揺るがす巨大な陰謀の、真の輪郭に気づき始める。

異端審問庁の地下深く。そこは、光も、音も、そしていかなる感傷さえも届かぬ、記録と記憶の墓場だった。分厚い合金でできた隔壁が、ゴウ、という地響きにも似た重い音を立てて横にスライドする。ロゴスは、その先に広がる絶対的な静寂と、濃密な時間のおりの匂いに、一瞬だけ足を止めた。

最高機密物証保管庫。彼が審問官として復帰する際に、ヴェリタスに唯一要求し、認めさせた場所。その一区画が、今、目の前で静かに口を開けていた。

そこは、彼の師であったソフィアが殉職した、あの日から、時が止まったままの世界だった。

壁一面を埋め尽くす、膨大な量の研究記録を収めたデータクリスタルの棚。中央には、彼女が生前愛用していた、傷だらけの木製の執務机。その上には、インクが半分ほど乾いた万年筆と、読みかけの法典が、まるで持ち主が少し席を外しているだけであるかのように、静かに置かれている。空気は完全に濾過され、無機質なオゾンの匂いがするはずなのに、ロゴスの鼻腔には、彼女が好んで焚いていた、微かな白檀の香りが蘇るかのようだった。

「……師よ」

彼の唇から、誰に聞かせるともない呟きが漏れた。

ソフィアの死。それは、彼の探偵としてのキャリア、自信、そして誇りの全てを粉々に打ち砕いた、原初のトラウマ。 彼女の遺品に触れることは、癒えかけた傷口を再びこじ開け、あの日の無力感と罪悪感という名の膿を、自らの手で絞り出す行為に等しかった。だが、彼はもう、その痛みから目を逸らすことはできなかった。

アニマ。あの気高き絡繰の少女の、光を失いかけたサファイアの瞳。彼女を救うためなら、どんな地獄の釜の底へでも、再びその身を投じる覚悟が、彼にはあった。マキナ卿は死んだ。だが、彼の遺した呪いは、まだ終わっていない。

『評議会内部の敵』。

あの神を気取る狂人が、死の間際に確かにそう言った言葉。 彼の壮大な計画は、彼一人だけのものではなかった。その言葉が、ロゴスの脳裏で、ソフィアの死の状況と、不気味な共鳴を始めていた。

彼は、ゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。そして、迷うことなく、執務机の引き出しを開ける。そこには、彼女が個人的に進めていた、公式記録にはない調査資料が、暗号化された状態で保管されていた。彼は、かつて彼女から教わった、二人だけが知る解読キーを、コンソールに打ち込んだ。

スクリーンに、膨大な量の情報が浮かび上がる。金の流れ、資材の搬入記録、そして、評議会議員たちの、秘密裏の会合の盗聴ログ。全てが、数年前に、彼女が単独で追っていた、巨大な腐敗の痕跡だった。

ロゴスの思考が、猛烈な速度で回転を始める。彼は、自らが暴いたマキナ卿の事件と、今目の前にあるソフィアの調査記録との、類似点を冷静に洗い出していく。

第一に、金の流れ。ソフィアが追っていたのは、評議会の予備費から、複数のダミー会社を経由して、出所不明の口座へと流れる、巨額の資金だった。その金の流れのパターンは、マキナ卿がエーテル・ウイルスの開発資金を洗浄するために使っていた手口と、驚くほど酷似していた。

第二に、資材。ソフィアの記録には、ギルドが秘密裏に輸入しようとしていた、いくつかの非合法な化学薬品や、軍用の演算チップのリストがあった。それらは、ロゴスが第7廃棄研究所で発見した、エーテル・ウイルスの材料リストと、完全に一致していた。

そして、第三に、最も重要な点。ソフィアの調査の矛先は、最終的に、一人の人物へと収束していた。評議会の中でも、特に強い権力を持ち、しかし決して表舞台には立たない、影の実力者。その名は、公式な記録からは巧妙に消去されていたが、彼女が遺したメモの断片に、暗号の形で、確かに記されていた。その名は、マキナ卿ではなかった。

「……やはり、いたのか」

ロゴスは、乾いた唇から、喘ぐようにその言葉を絞り出した。

マキナ卿の背後にいた、真の黒幕。ソフィアは、その存在に、誰よりも早く気づいていたのだ。彼女は、マキナ卿という狂気の天才を駒として操り、都市の支配構造そのものを、内側から乗っ取ろうとしていた、評議会内部の『敵』の、その尻尾を掴みかけていた。

だから、彼女は殺された。

完璧な『事故』に見せかけて。

ロゴスは、目を閉じた。意識を、深く、深く沈めていく。彼の呪われた才能、『論理的鋭敏性』が、再びその牙を剥く。

彼の精神の前には、ソフィアが遺した膨大な研究記録が、青白い光で構成された、巨大な論理の格子となって浮かび上がった。その格子は、ほとんど完璧だった。彼女の調査は、緻密で、論理的で、非の打ちどころがない。だが、その完璧なはずの格子の、まさに中心。彼女が、黒幕の正体に、あと一歩でたどり着こうとしていた、その部分だけが、まるで何者かによって強引に引き裂かれたかのように、無数の、そして深い『論理の亀裂』となって、黒い口を開けていた。

それは、彼女の調査が、外部からの圧力によって、強制的に中断させられたことを示す、絶対的な証拠だった。

ピシリ。

その亀裂の群れの中で、ひときわ強く、黄金色の光を放つ、一本の亀裂が、ロゴスの注意を引いた。それは、他の亀裂とは異質だった。外部からの破壊の痕跡ではない。それは、ソフィア自身が、自らの調査に行き詰まり、あるいは、どうしても解けない謎に直面したことを示す、彼女自身の思考の『矛盾』の痕跡だった。

「……これは……」

ロゴスは、その亀裂に、意識を集中させた。それは、彼女が死の直前まで格闘していたであろう、一つの、極めて高度に暗号化されたデータファイルに繋がっていた。彼は、そのファイルをコンソールで開こうとする。だが、スクリーンに表示されたのは、意味をなさない、膨大なノイズの羅列だけだった。

それは、一見すると、ただの破損したデータに見えた。だが、ロゴスの目には、そのノイズのパターンが、特定の周期で、僅かな規則性を持って繰り返されているのが、視えていた。

(……これは、ただのノイズじゃない。暗号だ。それも、通常の解読法では決して開けない、彼女が、俺にだけ遺した、最後のメッセージ……)

彼の脳裏に、遠い過去の記憶が蘇る。候補生時代、ソフィアは、よく彼に、論理遊戯を仕掛けてきた。それは、彼女なりの、彼の暴走しがちな才能を制御するための、訓練の一環だった。その中に、一つだけ、どうしても解けなかった問題があった。

『全ての規則が偽りである世界で、唯一真実を見つけ出す方法は何か?』

その問いに、彼は答えられなかった。ソフィアは、ただ、悪戯っぽく微笑んで、こう言っただけだった。

『答えは、規則の外にあるんじゃない。規則そのものが、答えなのよ、ロゴス』

その言葉が、今、稲妻のように、彼の思考を貫いた。

このノイズの羅列。その、特定の周期で繰り返される『規則性』そのものが、暗号を解くための『鍵』なのだ。

彼は、記憶を頼りに、あの日の論理遊戯の盤面を、脳内で再構築する。そして、その盤面に対応する数列を、ノイズデータに、フィルターとして適用した。

途端に、スクリーンを埋め尽くしていたノイズが、まるで霧が晴れるかのように、意味のある情報へと、その姿を変え始めた。

それは、一つの座標だった。

都市の、公式な地図には存在しない、忘れ去られた区画を示す、緯度と経度。

そして、その座標の下に、ただ一言、こう記されていた。

『――真実は、常に、最も深い闇の中に沈んでいる』

「……沈んだ、書庫……」

ロゴスは、その言葉を、反芻するように呟いた。

全ての点が、一つの線で繋がった。ソフィアは、黒幕の正体を突き止めるための、決定的な証拠が、その『沈んだ書庫』にあることを突き止めた。そして、そこへ向かおうとした、あるいは、その存在を誰かに伝えようとしたために、消されたのだ。

彼は、その座標と、謎めいた言葉が記されたスクリーンを、自らの端末に転送した。これが、次なる戦場への、地図となる。

彼は、ゆっくりと立ち上がると、時が止まったままの師の執務机に、そっと手を触れた。そして、誰に言うでもなく、静かに、しかし、鋼のような決意を込めて、誓った。

「師よ。あなたの戦いは、まだ終わってはいない。この俺が、必ず、終わらせてみせる」

彼は、保管庫の重い隔壁が、再び閉じていくのを、振り返ることなく、その場を後にした。

向かうべき場所は、決まっている。この、師が遺した最後の、そして最も難解な謎かけを、解き明かすことができる、唯一の存在の元へ。

彼の足は、自然と、審問庁の地下深く、あの純白の病室へと、向かっていた。

第51節では、ロゴスがついに師ソフィアの死の真相へと、再び深く踏み込みました。 彼女の遺品から見つかったのは、評議会内部の黒幕の存在を示唆する証拠と、次なる謎の舞台「沈んだ書庫」への、暗号化されたメッセージでした。 全ての始まりとなった事件と、現在の戦いが、今、一本の線で繋がろうとしています。ロゴスは、この新たな、そして最も個人的な謎を解き明かすため、心に傷を負った相棒、アニマの元へと向かいます。彼女は、彼の期待に応えることができるのでしょうか。

物語の続きにご期待いただけるようでしたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者の何よりの励みになります。

次回は第五十二話「沈んだ書庫の座標」を予定しております。

どうか、見届けてください。


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