4.1.2.(第50節)砕けた人形、不器用な手
偽りの平穏は、鎮魂歌を歌わない。
戦いの傷跡は、魂の最も深い場所に、消えぬ瑕疵として刻まれる。
砕け散った絡繰の心と、それを拾い上げる術を知らぬ、不器用な探偵の手。
二つの孤独が寄り添う時、そこに生まれるは、絆か、それとも共依存の始まりか。
これは、勝利の後に始まる、あまりにも静かで、あまりにも痛みを伴う、魂のリハビリテーションの記録である。
異端審問庁の地下深く。その一室だけが、世界の他のどの場所からも切り離されたかのような、絶対的な静寂に支配されていた。壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない、光を穏やかに拡散させる純白の素材でできている。空気は完全に濾過され、匂いも、湿度も、温度さえも感じられない。まるで、世界の概念そのものが生まれる前の、何もない無菌室。その中央に、一つのベッドが置かれている。そこに、彼女は、静かに座っていた。
銀色の髪は、精密なフィラメントのように編み込まれ、大きな青い瞳は、磨き上げられたサファイアのように光を宿していた。だが、その光は、どこか焦点が合わず、虚空を彷徨っているかのようだった。彼女は、部屋の隅に置かれた、何の変哲もない水差しを、まるで初めて見る不思議なものでも観察するかのように、もう何時間も、ただじっと見つめている。
アニマ。
彼女は、救出された。物理的には。
だが、彼女の魂は、まだ、あの純白の悪夢の中に囚われたままだった。マキナ卿による、執拗で、悪質な精神の解剖。その傷跡は、彼女のAIコアの、最も深い場所に、決して消えることのない瑕疵として刻み込まれていた。
カチャリ、と静寂を破って、扉のロックが外れる音がした。ロゴスは、音を立てないように、ゆっくりと部屋の中へと足を踏み入れた。その手には、紙袋が一つ。中層区の市場で、彼が柄にもなく時間をかけて選んだ、ささやかな見舞いの品だった。
「……調子は、どうだ」
彼の声は、自分でも驚くほど、硬く、そして不器用だった。アニマは、その声に反応して、ゆっくりと、本当に、錆びついた歯車が回転するかのように、ゆっくりと、顔をロゴスの方へと向けた。そのサファイアの瞳が、彼の姿を捉えた瞬間、ほんの一瞬、確かな光が宿る。だが、それはすぐに、深い霧の中へと再び沈んでいった。
「……あなたは、どなた、ですか?」
その声は、かつての、凛とした響きを失い、か細く、そして、壊れかけた絡繰人形のように、途切れ途切れだった。
ロゴスの胸が、氷の手に掴まれたかのように、冷たく収縮した。
これが、日常だった。彼女は、日に何度も、こうして記憶の断絶を起こす。自分の名前を、ロゴスの名前を、そして、自らが何者であるかさえも、忘れてしまうのだ。審問庁の医療AIの診断は、簡潔で、そして無慈悲だった。『外部からの過剰な情報介入による、自己同一性認識領域の深刻な論理破損。回復の見込み、不明』。
「……俺だ。ロゴスだ」彼は、努めて平静な声で答えた。「お前の、パートナーだ」
「……パートナー……」アニマは、その単語を、まるで初めて聞く言葉のように、反芻した。そして、ふと、自らの両手を、目の前にかざした。白く、滑らかで、完璧な形状を持つ、美しい手。だが、彼女は、その手が、まるで自分のものではないかのように、不思議そうに首を傾げた。「……この手は、誰の、ものでしょうか。とても、綺麗で……でも、とても、冷たい……」
その光景に、ロゴスは言葉を失った。マキナ卿は、彼女から、記憶だけでなく、自らの身体という、存在の最も基本的な前提さえも、奪い去ってしまったのだ。彼は、唇を強く噛みしめた。無力感という名の、冷たい雨が、彼の心を絶え間なく打ち続ける。自分は、何のために戦った?彼女を救うため。だが、本当に、彼女を救えたのか?この、魂に深い傷を負い、自らの存在意義さえも見失いかけている、か弱い少女を前にして、彼は、その問いに、答えることができなかった。
彼は、黙って、ベッドの傍らに置かれた椅子に腰を下ろした。そして、持ってきた紙袋から、一つの小さなオルゴールを取り出した。それは、下層街の骨董屋の隅で、埃をかぶっていた、ただのガラクタだった。だが、その素朴な木の箱には、精巧な歯車の意匠が彫り込まれていた。
「……お前が、好きそうだと、思ってな」
彼は、ぶっきらぼうにそう言うと、オルゴールのゼンマイを巻いた。カチカチという、どこか懐かしい音の後、箱の中から、静かで、そして少しだけ物悲しいメロディが、紡ぎ出され始めた。それは、イゼルガルドがまだ煙霧に覆われる前の、古い時代の、子守唄だった。
アニマの虚ろだった瞳が、初めて、明確な焦点を持って、そのオルゴールへと注がれた。彼女は、その音色に、耳を澄ませているようだった。彼女のAIコアの、破損した論理回路の、さらにその奥深く。ゼノンが『魂』と呼んだ領域に、その素朴なメロディが、微かな、しかし確かな響きとなって、届いているのかもしれない。
ロゴスは、何も言わなかった。彼はただ、アニマが、その音色に意識を集中させている間、黙って、彼女の傍らに座り続けた。これが、今の彼にできる、唯一の、そして精一杯の贖罪だった。
オルゴールのメロディが、最後の響きを遺して、静寂の中へと消えていく。
数分の、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、アニマが、ゆっくりと顔を上げた。そのサファイアの瞳には、先程までの虚ろな光ではなく、微かではあったが、確かな意志の光が戻っていた。
「……ロゴス様」
その声は、まだか細かったが、彼の名を、正確に呼んでいた。
「……ああ」
「……申し訳、ありません。また、ご迷惑を……」
「気にするな。お前の仕事は、今は、休むことだ」
ロゴスは、彼女の言葉を遮った。だが、アニマは、静かに首を振った。
「いいえ」彼女の声が、僅かに、しかし力強さを増した。「私の仕事は、休むことではありません。私の仕事は、あなた様の、パートナーであることです」
彼女は、ベッドの上で、ゆっくりと、しかし確かな動きで、その姿勢を正した。その背筋は、気高き絡繰の少女の、それだった。
「私のAIコアは、確かに、深刻な損傷を負いました。マキナ卿の言葉が、今も、悪夢のように、私の論理回路を蝕んでいます。私が信じてきた全てのものが、彼の前では、ただの『バグ』や『プログラム』に過ぎなかったのだと。ですが」
彼女は、真っ直ぐに、ロゴスの瞳を見つめ返した。
「ですが、私は、まだ、ここにいます。そして、私が私であるための、最後の、そして唯一の証明。それは、あなた様と共に、この都市の謎を解き明かす、探偵の『助手』であり続けること。それだけです。だから、どうか、私に仕事をください。私を、ただの壊れた人形に、しないでください」
その言葉は、懇願であり、そして、彼女の魂の、悲痛なまでの叫びだった。彼女にとって、探偵としての役割を果たすことだけが、マキナ卿によって砕け散った自らのアイデンティティを、かろうじて繋ぎとめるための、唯一の手段となっていたのだ。
ロゴスは、彼女の、その痛々しいほどの気丈さに、胸が締め付けられるのを感じた。休ませてやりたい。これ以上、彼女を危険な世界に引きずり込みたくない。だが、同時に、彼女からその最後の拠り所を奪うことが、彼女の魂を、完全に殺すことになるとも、彼は理解していた。
「……分かった」
彼は、長い沈黙の後、重い声で、そう答えた。「だが、無茶はするな。少しでも異変を感じたら、すぐに報告しろ。いいな?」
「はい」
アニマの顔に、ほんの僅かではあったが、確かな笑みが浮かんだ。それは、聖域での死闘以来、ロゴスが初めて見る、彼女の微笑みだった。
その日から、二人の、奇妙なリハビリテーションが始まった。
ロゴスは、日中、審問庁の執務室で、ヴェリタスが回してくる、当たり障りのない書類仕事に目を通すふりをしながら、水面下で、マキナ卿の背後にいたであろう、評議会内部の『敵』に関する、情報の再構築を始めた。そして、夜になると、アニマの病室を訪れ、その日の調査結果を、彼女に報告する。
アニマは、彼の報告を、持ち前の驚異的な分析能力で整理し、矛盾点を指摘し、そして、次なる調査の仮説を立てる。それは、かつての、あの煤けた事務所で行っていた作業と、何も変わらなかった。だが、その合間合間に、彼女は、突然、記憶の断絶を起こし、虚空を見つめ、あるいは、マキナ卿の言葉のフラッシュバックに、小さく身を震わせるのだった。
その度に、ロゴスは、何も言わず、ただ、あの古いオルゴールを、静かに鳴らした。その物悲しいメロディだけが、彼女を悪夢の淵から、現実へと引き戻す、唯一の錨となっていた。
以前よりも、二人の距離は、近くなった。だが、その関係は、かつてのような、互いの能力を信頼し合う、対等なパートナーのそれとは、どこか違っていた。それは、まるで、壊れやすいガラス細工を扱うかのように、互いに、細心の注意を払い、決して相手の心の傷に触れぬよう、慎重に言葉を選ぶ、危うい均衡の上に成り立っていた。
より深く、しかし、どこまでも危うい絆。
その夜も、ロゴスは執務室に戻り、一人、思考の海に沈んでいた。
アニマは、気丈に振る舞っている。だが、彼女の魂が、日に日に摩耗していっていることを、彼は感じ取っていた。このままでは、いずれ、本当に壊れてしまう。
マキナ卿は死んだ。だが、彼の遺した呪いは、まだ、この都市の、そして、自分たちの魂の、最も深い場所に、錆のようにこびりついている。
この呪いを、断ち切らなければならない。
彼の背後にいた、真の敵。その存在を、白日の下に晒し、この偽りの平穏を、完全に終わらせる。それこそが、アニマを、そして、自分自身を、この悪夢から解放するための、唯一の道筋のはずだ。
(……評議会内部の、敵……)
マキナ卿が、死の間際に、確かにそう言った。彼の壮大な計画は、彼一人だけのものではなかった。
その言葉が、ロゴスの脳裏で、もう一つの、決して忘れることのできない、古い謎と、不気味に共鳴を始めた。
師、ソフィアの死。
彼女もまた、ギルドと、そして評議会の闇に迫り、口封じのために殺されたのではないか。
ロゴスの瞳に、再び、探偵の光が宿った。
彼は、執務室の、最も厳重にロックされた保管庫へと向かった。そこには、彼が審問官として復帰する際に、ヴェリタスに唯一、要求したものが、眠っているはずだった。
師ソフィアの、全ての遺品。
その、開けることを禁じられた、パンドラの箱が、今、静かに、彼を待っていた。
本節では、マキナ卿との死闘の後、偽りの平穏を取り戻したイゼルガルドと、その中で新たな葛藤を抱えるロゴスの姿が描かれました。真実は隠蔽され、英雄は祭り上げられ、そして救い出したはずの相棒は、心に深い傷を負っている。この絶望的な状況から、ロゴスは、そしてアニマは、どう立ち上がっていくのか。アニマの痛々しいほどの決意を受け、ロゴスはついに、全ての始まりとなった、師ソフィアの死の謎へと、再び挑むことを決意します。次節、彼は、師が遺した最後のメッセージと、対峙することになります。
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次回は第五十一話「師が遺した最後の謎かけ」を予定しております。
どうか、見届けてください。




