4.1.1.(第49節)偽りの平穏、錆びついた真実
英雄は歴史に刻まれ、狂人は記録から抹消された。
都市は平穏という名の、継ぎ接ぎだらけの美しい嘘をまとう。
戦いは終わり、世界は救われた。だが、その代償として葬られた真実は、
ただ独り、生き残った男の胸の内で、決して消えぬ錆となって、静かに魂を蝕んでいく。
これは、勝利の記録ではない。あまりにも代償の大きい、敗北から始まる物語だ。
マキナ卿との死闘から、数週間が過ぎた。
イゼルガルドの空を覆っていた錬金術的な煙霧は、統治評議会が主導する大規模な環境浄化プロジェクトによって、ここ数十年で最も清浄な空へと変わっていた。上層区画の尖塔群は、かつての煤けた威容ではなく、磨き上げられた真鍮の輝きを、久しぶりに覗かせた太陽の光に反射させている。ギルド中央支部で発生した「テロ」の傷跡も、驚異的な速度で修復され、今やそこは、悲劇を乗り越えた都市の復興の象M徴として、多くの市民が訪れる祈りの場と化していた。
街角の巨大な情報スクリーンは、一日中、同じニュースを繰り返し流している。異端審問庁の星付き、ヴェリタス審問官の、英雄的な活躍。ギルドの過激派組織「歯車の蛇」の壊滅。そして、組織に利用され、その狂気に加担してしまった悲劇の天才、マキナ卿への追悼の辞。全てが、完璧に計算され尽くした、美しい物語だった。人々は、その物語を信じ、安堵し、そして日常へと戻っていった。イゼルガルドは、表面上の、完璧な平穏を取り戻していた。
異端審問庁の、中層階の一室。それが、ロゴスに再び与えられた執務室だった。
かつての煤とオイルの匂いが染みついた安物の事務所とは、何もかもが違っていた。壁一面を埋め尽くす法典、角度まで完璧に揃えられた書類の山、そして、窓の外に広がる、どこか現実感のない都市の風景。そこは、かつて彼が自らの手で捨て去ったはずの、秩序と論理が支配する、息の詰まるような檻そのものだった。
彼は、机の上に置かれた一枚のデータパッドを、感情のない瞳で見下ろしていた。それは、評議会が正式に承認し、全市民に公開された、今回の事件の最終報告書だった。
『――ギルド内部の急進派テロ組織「歯車の蛇」は、ギルドマスター、マキナ卿の純粋な探究心を利用し、思考機関を暴走させる新型ウイルスを開発。その力で都市の転覆を画策した。マキナ卿は、自らの過ちに気づき、その身を挺してテロリストの計画を阻止しようとしたが、力及ばず殉職。その後、ヴェリタス審問官率いる異端審問庁の部隊が、命懸けの突入作戦を敢行し、テロ組織の首謀者である元・異端審問官ロゴスを拘束。組織を壊滅させ、都市の平和を守った』
完璧な、嘘だった。
「歯車の蛇」などという組織は、存在しない。マキナ卿は、英雄などではない。そして、自分は、首謀者でもなければ、英雄でもない。ただ、巨大な悪意の掌の上で踊らされた、哀れな道化に過ぎなかった。時空間結晶の存在も、エーテル・ウイルスの真の目的も、審問庁内部の腐敗も、その全てが、この美しい物語の下に、深く、静かに、埋葬されていた。
「気分は、どうだ」
静寂を破り、背後から声がかけられた。振り返るまでもない。この執務室に、ノックもなしに入ってくる無粋な男は、一人しかいなかった。
ヴェリタス。
彼は、純白の制服に身を包み、壁に寄りかかりながら、腕を組んでこちらを見ていた。そのレンズの奥の瞳は、以前と何も変わらない。冷徹で、正確無比で、そして、どこか深い疲労の色を滲ませて。
「最高の気分だ」ロゴスは、皮肉を込めて答えた。「都市の平和は守られ、俺はテロリストから一転、ヴェリタス様のご温情で、監視付きではあるが、こうして審問官に復帰させてもらえた。感謝しかない」
「……やめろ」ヴェリタスの声は、低く、そして重かった。「これは、取引だ。君が、あの聖域で起きた『真実』について沈黙を守る代わりに、私は、君の存在を、法の下で守る。君の功績は、全て私のものとなった。そして、君の罪は、全て存在しない『組織』のものとなった。これは、私が、私の信じる『秩序』を守るために下した、最も非論理的で、最も汚れた決断だ。君に、感謝される謂れはない」
聖域での死闘の後、ロゴスはヴェリタスによって拘束された。だが、尋問室で、彼は全てを話した。自分が掴んだ、全ての真実を。そして、その告白と、彼が独自に行った調査の結果、ヴェリタスは、自らが信じる世界の、その醜い真の姿を知った。だが、彼は、それを公にはしなかった。あまりにも巨大すぎる真実は、公にした瞬間、この都市を、内戦という名の、回復不能な混沌へと叩き込むだろう。彼は、秩序の番人として、それだけは避けたかった。
だから、彼は『嘘』を選んだ。評議会と取引し、マキナ卿の罪を架空の組織に着せ、全ての真相を闇に葬る代わりに、ロゴスの命を救い、そして、自らが審問庁内部の腐敗を粛清するための、時間と権力を手に入れた。それは、彼の潔癖な正義が、初めて現実の泥に塗れた瞬間だった。
「俺は、何のために戦ったんだ、ヴェリタス」
ロゴスの声には、抑えきれない憤りと、そして、どうしようもない無力感が滲んでいた。「師ソフィアは、この真実を暴こうとして殺された。ゼノン顧問も、カレルも、そうだ。俺たちは、彼らの無念を晴らすために、命を懸けたはずだ。だが、その結果が、これか?彼らの死は、歴史から抹消され、真犯人は、悲劇の英雄として祀り上げられる。こんなものが、お前の言う『秩序』か?」
「そうだ」ヴェリタスは、きっぱりと言い切った。「たとえ、それが偽りの平穏であったとしても、人々がそれを信じ、日常を送れるのなら、それは守られるべき秩序だ。真実が、常に人々を幸福にするとは限らん。時には、知らぬことこそが、救いとなる」
「……お前は、変わったな」
「君が、変えたんだ」ヴェリタスは、初めて、レンズの奥の瞳で、ロゴスを真っ直ぐに見据えた。「君が、私の完璧だった世界に、瑕疵を、矛盾を、そして、どうしようもない人間の感情という名の『バグ』を、持ち込んだ。私は、もはや、純粋な法の番人ではいられない。君と同じ、泥水の中を這いずり回る、ただの探求者だ。そして、私の探求は、まだ終わってはいない。必ず、この手で、審問庁の膿を出し切り、そして、評議会の闇を暴いてみせる。そのためには、時間が必要だ。君には、その時が来るまで、雌伏していてもらう」
二人の視線が、火花を散らすことなく、ただ、静かに交錯した。かつて憎み合い、対立した二人の男は、今や、同じ真実を共有し、しかし全く違う方法で戦おうとする、奇妙な共犯者となっていた。そこには、友情も、信頼もない。ただ、互いの能力だけを認め合う、歪で、そしてどこか物悲しい、共闘関係だけが存在していた。
その日の執務が終わり、日が暮れた頃。
ロゴスは、誰に告げるでもなく、静かに執務室を出た。彼の足は、自然と、審問庁の地下深くへと向かっていた。そこは、一般の職員は立ち入ることを禁じられた、最高レベルのセキュリティで守られた、医療及びメンテナンス区画だった。
長い、無機質な廊下。壁も、床も、天井も、全てが純白で、まるで巨大な機械の胎内のようだった。彼の記憶の中にある、あの忌まわしい『箱庭』の研究室を、嫌でも思い出させた。
やがて、彼は、一つの扉の前で、足を止めた。扉のプレートには、名前はない。ただ、『特別観察対象:コード・アニマ』とだけ、無機質な文字で記されている。
彼は、扉の脇にある認証パネルに、自らのIDカードをかざした。緑色のランプが灯り、重厚なロックが外れる音が、静寂に響く。ヴェリタスの、計らいだった。この部屋へのアクセス権限を持つのは、彼と、そしてロゴスの、二人だけ。
扉の向こうは、執務室とはまた違う、静謐な空間だった。部屋の中央に、一つのベッドが置かれている。そこに、彼女は、静かに座っていた。
銀色の髪は、精密なフィラメントのように編み込まれ、大きな青い瞳は、磨き上げられたサファイアのように光を宿していた。だが、その光は、どこか焦点が合わず、虚空を彷徨っているかのようだった。彼女は、ロゴスが入ってきたことにも気づかず、ただ、自分の指先を、まるで初めて見る不思議なものでも観察するかのように、じっと見つめている。
アニマ。
彼女は、救出された。物理的には。
だが、彼女の魂は、まだ、あの純白の悪夢の中に囚われたままだった。マキナ卿による、執拗で、悪質な精神の解剖。その傷跡は、彼女のAIコアの、最も深い場所に、決して消えることのない瑕疵として刻み込まれていた。
「……アニマ」
ロゴスが、掠れた声で、彼女の名を呼んだ。
その声に、彼女のサファイアの瞳が、初めて、ぴくりと動いた。ゆっくりと、本当に、錆びついた歯車が回転するかのように、ゆっくりと、彼女の顔が、ロゴスの方へと向けられる。
その瞳が、ロゴスの姿を捉えた瞬間。
彼女の虚ろだった瞳に、ほんの一瞬、確かな光が宿った。安堵、喜び、そして、どうしようもないほどの、悲しみ。無数の感情の奔流が、彼女の論理回路を焼き切らんばかりに、渦を巻いた。
「……ロゴス、様……?」
その声は、かつての、凛とした響きを失い、か細く、そして、壊れかけた絡繰人形のように、途切れ途切れだった。
ロゴスは、言葉を失った。彼は、ただ、彼女の元へと歩み寄り、そのベッドの傍らに、静かに膝をついた。
俺は、何のために戦った?
彼女を救うため。
だが、本当に、彼女を救えたのか?
この、魂に深い傷を負い、自らの存在意義さえも見失いかけている、か弱い少女を前にして、彼は、その問いに、答えることができなかった。
偽りの平穏。錆びついた真実。そして、砕け散った魂の半身。
彼の戦いは、終わった。
そして、彼の、本当の、そして最も長く、苦しい戦いが、今、静かに始まろうとしていた。
本節では、マキナ卿との死闘の後、偽りの平穏を取り戻したイゼルガルドと、その中で新たな葛藤を抱えるロゴスの姿が描かれました。真実は隠蔽され、英雄は祭り上げられ、そして救い出したはずの相棒は、心に深い傷を負っている。この絶望的な状況から、ロゴスは、そしてアニマは、どう立ち上がっていくのか。次節では、二人の新しい、そして危うい関係が、静かに描かれていきます。
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次回の更新は第五十話「砕けた人形、不器用な手」を予定しております。
どうか、見届けてください。




