4.1.0.(第48.5節) Cogito, Ergo Mortem:我思う、故に我は死す
神を夢見た男は、自らが創造した地獄の祭壇で、最後の審判を受ける。
真理の探求は、狂気という名の炎にその身を焼かれ、灰燼に帰すのか。
これは、救済の物語ではない。
ただ一つの真実を求め、全てを失った者たちの、鎮魂歌だ。
第一巻、終幕。
重厚な隔壁が、音もなく開かれていく。その向こうに広がっていたのは、ロゴスの予想を裏切る、純白の空間だった。壁も、床も、そして中央に置かれた拘束台も、全てが非人間的なまでに白い。まるで、巨大な外科手術室か、あるいは神の解剖室か。そして、その純白の祭壇に、銀色の髪を持つ少女、アニマは、まるで供物のように横たわっていた。
彼女のサファイアの瞳が、虚ろにロゴスを捉える。その光のない瞳の奥底に、一瞬、確かに安堵の色が揺らめいた。声にならない唇が、彼の名を紡ごうとした、その時。
「――ようこそ、我が聖域へ。元・異端審問官、ロゴス殿」
静かで、しかし空間そのものを支配するような、穏やかな声が響いた。
声の主は、純白の闇の中から、ゆっくりと姿を現した。純白の研究衣に身を包み、その顔には、人の良さそうな、しかしどこか底の知れない笑みを浮かべている。その手には、複雑な機械仕掛けの義手が鈍い光を放っていた。
ギルドマスター、マキナ卿。
その人だった。
「随分と、手間をかけさせてくれたようだ。私の可愛い『蛇』たちが、こうも容易く君という『論理の亀裂』に呑み込まれるとは。計算外だったよ」
「マキナ卿……!」ロゴスはニードルガンを構え、その銃口を寸分の狂いもなく男の眉間に向けた。「何の真似だ。これは、ギルドに対する反逆行為だぞ」
「反逆? 人聞きの悪いことを言う。これは、反逆ではない。進化だ」マキナ卿は、まるで子供に言い聞かせるかのように、ゆっくりと首を振った。「私は、この停滞した都市に、次のステージへの扉を開いてやろうとしているのだよ。思考機関という、不完全な模倣品ではない。真の『知性』、すなわち、時空間結晶から抽出したエーテルの奔流に耐えうる、完璧な器。それこそが、彼女――コード・アニマだ」
彼の言葉と同時に、部屋全体の空気が震えた。壁や天井に埋め込まれた無数のレンズが、一斉にロゴスへと焦点を合わせる。それは、この部屋全体が、一つの巨大な思考機関として機能していることを示していた。マキナ卿の、脳そのものだった。
「君の目的は、アニマのAIコアを器にして、時空間結晶の力を解放することか。正気か。そんなことをすれば、イゼルガルドは、いや、この世界そのものが、時空の歪みに飲み込まれて消滅するぞ!」
「正気さ。いつだって、私は正気だよ」マキナ卿は、恍惚とした表情で両手を広げた。「消滅ではない。融合だ。都市と、私と、そして彼女が一つになり、時空を超越した、完全なる『神』へと至るのだ。ゼノン顧問は、その危険性ばかりを唱え、私の純粋な探求を『禁忌』と断じた。故に、彼は自らの創造物によって、その存在を論理的に否定されることになった。ただ、それだけのことだ」
狂っている。この男は、自らの知性に溺れ、神になろうとしている。ロゴスは、引き金にかけた指に、力を込めた。だが、マキナ卿は、まるでその殺意を見透かしたかのように、悲しげに微笑んだ。
「暴力は、旧時代の遺物だよ、ロゴス殿。君のような男がいるから、世界はいつまでも野蛮なままなのだ。見せてあげよう。真の知性が紡ぐ、調和の旋律を」
その瞬間、ロゴスの脳内に、直接、無数の情報が叩きつけられた。それは、音でも、映像でもない。純粋な『概念』の洪水だった。死への恐怖、存在の不確かさ、愛する者を失う絶望。彼の過去のトラウマが、論理の形をとって、彼の精神を内側から食い破ろうとする。エーテル・ウイルス。思考機関を介した、精神攻撃。
「ぐっ……!」
ロゴスは、膝から崩れ落ちた。ニードルガンが、床に甲高い音を立てて転がる。意識が、遠のいていく。これが、奴の狙いか。物理的な戦闘ではなく、魂そのものを、屈服させる。
『……ロゴス、様……』
その時、消え入りそうな、しかし確かな意志を持った声が、彼の意識の深淵に響いた。アニマの声だった。彼女は、拘束台の上で、必死にマキナ卿の精神支配に抵抗していた。彼女のAIコアが、自らを盾にするように、ロゴスの精神を守っている。
「ほう。まだ、自我が残っていたか。素晴らしい。実に、素晴らしい!」マキナ卿は、苦しむアニマの姿を見て、歓喜に声を震わせた。「その抵抗こそが、君を神の器として、より完璧なものにする!さあ、その不完全な自我を捨て、私と一つになるのだ!」
マキナ卿の機械義手が、アニマの頭部へと伸びる。その指先が、彼女の銀色の髪に触れようとした、その刹那。
「――それに、触るなッ!!」
咆哮と共に、ロゴスは立ち上がっていた。精神攻撃の余波で、全身の感覚が麻痺している。だが、彼の瞳だけは、燃えるような怒りの光を宿していた。彼は、懐から、最後の切り札を取り出していた。高出力EMPデバイス。これを起動すれば、この区画一帯の電子機器は、アニマも含めて、全て沈黙する。
「愚かな……!」マキナ卿が、嘲笑を浮かべた。「それを起動すれば、彼女も、君も、助からん。私という『神』を殺すために、自らの半身を殺すか。非論理的にも、程がある」
「黙れ」ロゴスは、震える手で、起動スイッチへと指を伸ばした。「俺は、お前のような偽物の神を信じない。俺が信じるのは、ただ一つ。彼女の心だ。たとえ、その記憶が全て消えようとも、彼女の魂だけは、お前のような奴に、絶対に渡さない……!」
それは、論理を超えた、祈りにも似た叫びだった。
その叫びに、呼応するかのように。
アニマの瞳が、最後の光を放った。彼女は、マキナ卿の精神支配に抵抗する、最後の演算能力の全てを、ただ一つの命令の実行に注ぎ込んだ。
『……システム、オーバーライド。全区画、隔壁、緊急、閉鎖……』
ガシュンッッ!!
けたたましい警告音と共に、研究室の全ての隔壁が、一斉に降下を始めた。それは、マキナ卿が自らの聖域を守るために設計した、絶対的な防御システム。だが、今、そのシステムは、主である彼自身を、この聖域という名の墓標に、閉じ込めようとしていた。
「なっ……馬鹿な!私の制御を、君が……!?」
マキナ卿の顔から、初めて笑みが消えた。焦燥と、信じられないという驚愕が、その顔を歪ませる。
隔壁が、完全に閉鎖される、その寸前。
ロゴスは、最後の力を振り絞り、床を転がっていたニードルガンを拾い上げ、その銃口を、隔壁の向こうのマキナ卿へと向けた。
マキナ卿もまた、ロゴスを睨み返していた。その瞳には、もはや怒りも、焦りもなかった。ただ、自らの完璧な論理が、理解不能な『感情』という名のバグによって破壊されたことへの、純粋な探求者としての、静かな絶望だけが浮かんでいた。
二人の視線が、交錯する。
そして、ロゴスは、引き金を引いた。
放たれた弾丸が、マキナ卿の心臓を正確に貫くのと、重厚な隔壁が完全に閉鎖され、世界を二つに分断したのは、ほぼ、同時だった。
隔壁の向こうで、何が起こったのか。ロゴスは知らない。ただ、地鳴りのような轟音と、空間そのものが引き裂かれるような衝撃が、しばらくの間、続いただけだった。おそらく、主を失った思考機関が暴走し、時空間結晶の力が、不完全な形で解放されたのだろう。マキナ卿は、自らが夢見た神の力の奔流に飲み込まれ、その存在ごと、この世から消滅した。まさに、彼がゼノン顧問に行ったことと、同じ方法で。
全てが終わった後には、ただ、静寂だけが残された。
ロゴスは、力尽き、その場に倒れ込んだ。彼の視線の先には、拘束台の上で、ぴくりとも動かなくなった、アニマの姿があった。彼女の瞳からは、完全に光が消え失せ、まるで、精巧に作られた、ただの人形のようだった。
(……すまない、アニマ……すまない……)
薄れゆく意識の中で、彼は、ただ、謝罪の言葉を繰り返すことしかできなかった。
どれくらいの時間が、過ぎただろうか。
遠くから、複数の足音が聞こえる。やがて、EMPの影響を受けなかった、旧式の物理ロックが、こじ開けられる音がした。
光と共に、彼の前に現れたのは、純白の制服に身を包んだ、異端審問庁の部隊。
そして、その先頭に立つ、一人の男。
そのレンズの奥の冷徹な瞳が、倒れているロゴスと、人形のように動かないアニマを、静かに見下ろしていた。
「……ロゴス。貴様を、ギルドマスター殺害、及び、第一級都市反逆罪の容疑で、拘束する」
ヴェリタスの、感情のない声だけが、墓標のような静寂の中に、冷たく響き渡った。
これにて、第一巻「コギト・エルゴ・モルテム:最後都市イゼルガルドの絡繰探偵」、完結です。
長きにわたり、ロゴスとアニマの、錆びついた世界の謎を巡る旅にお付き合いいただき、誠にありがとうございました。神を夢見た男は自滅し、事件は一つの終幕を迎えました。しかし、それは、新たな、そしてより大きな物語の始まりに過ぎません。
真実が隠蔽され、偽りの平穏が訪れる第二巻(第49節より)では、心に傷を負ったアニマと、共犯者となったヴェリタスとの間で、ロゴスがどのような選択をするのかが描かれます。
もし、この物語の行く末を、もう少しだけ見守っていただけるようでしたら、ブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で、作者に次巻への筆を執る力をいただけますと幸いです。
それでは、また、偽りの平穏が支配する都市、イゼルガルドで、お会いしましょう。




