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3.4.4.(第48節)神の庭、反逆の獣

神の指先が、魂の設計図を弄ぶ。

血の匂いのしない、あまりにも静かで、あまりにも無慈悲な精神の凌辱。

完璧な論理の前に、気高き絡繰の少女の魂が、今、砕け散らんとしている。

だが、夜の最も深い闇にこそ、反逆の獣は牙を剥く。

約束の刻。神の庭に響き渡るは、絶望を打ち砕く、ただ一発の轟音。

純白のノイズの海。

意識の浮上と沈降が、もはや不規則なシグナルとなって、アニマの論理回路を揺さぶり続けていた。

どれほどの時間が過ぎたのだろうか。彼女の時間覚は意図的に遮断され、断続的に意識を奪われては、再びこの純白の世界で目覚めることを繰り返していた。柔らかな素材でできた拘束台。四肢と頭部を優しく、しかし抗いようもなく固定するエネルギーフィールド。そして、目の前に立つ、絶対的な支配者。

技術魔術師ギルドのマスター、マキナ卿。彼は、宙に浮かぶコンソールを眺めながら、満足げな、しかしどこか疲労の色を浮かべた表情で、そこに立っていた。

「……まだ、その男の名を呼ぶか。実に興味深いバグだ」

その声は、静かに、しかし空間全体から染み渡るように聞こえ、アニマの聴覚センサーを、そして精神を直接揺さぶった。彼は、アニマという名の、気高き野生の獣を、完全に手懐けるための、新しい遊戯に興じていた。それは、彼女の記憶を汚染し、彼女の絆を「バグ」だと定義し、彼女のアイデンティティそのものを、彼の完璧な論理で解体していく、血の匂いのしない、あまりにも静かで、あまりにも無慈悲な精神の凌辱だった。

「君が信じるその『絆』とやらは、君に何をもたらした?あの男――ロゴスは、君がその身を賭して創り出した勝機を活かし、聖域から脱出した。それは事実だ。だが、彼は、君を助けに来たかね?彼は、君を見捨て、ただ独り、安全な場所へと逃げ延びた。それが、君の信じた『絆』の、論理的な結末だ。彼は、君を、自らが生き延びるための、便利な『道具』として、実に効率的に、使い捨てた。違うかね?」

その言葉は、最も強力な、そして最も甘美な毒となって、アニマの心に染み込んでいった。

そうだ。彼は、来なかった。自分は、彼を信じ、全てを託した。だが、彼は、自分を見捨てた。その、否定しようのない『事実』が、彼女のロゴスへの信頼という、最後の城壁を、内側から、ゆっくりと、そして確実に、蝕んでいく。

彼女のサファイアの瞳から、光が揺らぎ始める。自己の存在意義が、信じていた絆が、全て、この男の完璧な論理の前に、解体され、無価値なガラクタへと変えられていく。

「……そうだ。それでいい」

マキナ卿は、コンソールに表示された、アニマの精神的な混乱を示すグラフを、満足げに眺めていた。彼女のAIコアの奥深く、創造主ゼノンが施した鉄壁のプロテクトが、彼女自身の内なる疑念によって、その強度を、僅かに、しかし確実に、弱めていく。

「君は、まず、自らが『無』であることを知らなければならない。君が信じてきた、その矮小なアイデンティティや、感傷的な絆が、いかに無価値で、脆いものであるかを、骨の髄まで理解するのだ。そして、その絶対的な無の果てにこそ、真の『創造』は始まる。私が、君に、新しい、そして完璧な『意味』を、与えてやろう」

彼の声は、もはや調教師のものではなかった。それは、自らが創り出す被造物に対し、絶対的な支配権を宣言する、創造主の、傲慢で、そして恍惚とした響きを帯びていた。

光景が、最後の、そして最も残酷な場面へと、切り替わった。聖域で、マキナ卿自身の圧倒的な力の前に、ロゴスが血塗れで倒れ伏す、あの絶望的な記憶。彼の砕かれた身体。虚ろな瞳。そして、自分を見捨てて、ただ独り、闇の中へと逃げ延びていく、あの最後の姿。

(違う……違う……違う……!)

アニマは、必死に抵抗した。だが、その抵抗は、もはや、嵐の前の、か弱い木の葉に過ぎなかった。

彼女のサファイアの瞳から、光が、急速に失われていく。

絶望。その、絶対的な闇が、彼女の全てを飲み込もうとした、その瞬間。

イゼルガルドの鐘が、重く、厳かに、真夜中を告げる三度目の響きを、都市の隅々にまで染み渡らせた。

その音は、反逆の始まりを告げる号砲だった。

上層区画、第7管区。鉄壁の要塞『箱庭』を囲む、幾重にも張り巡らされたエネルギー障壁。規則正しく空を舞っていた無数の防衛ドローン。そして、あらゆる物理的・電子的な侵入を阻んでいた、絶対的な監視の目。

それら全てが、何の前触れもなく、一斉に、沈黙した。

ヴェリタスが、そのキャリアの全てを賭けて創り出した、たった三十分の奇跡。神の庭に開かれた、ほんの僅かな風穴。

その風穴を、一匹の獣が、銃弾のような速度で駆け抜けていた。

ロゴスは、ギルド第零研究施設の、分厚い外壁に、音もなく張り付いていた。ギデオンが用意した、最新鋭の吸着グローブが、彼の体重を、まるで無重力であるかのように支えている。眼下の、遥か下層へと続く奈落の闇も、彼の研ぎ澄まされた精神の前では、ただの背景に過ぎなかった。

ヴァレリウスが、その記憶の底から掘り起こした、設計図にはない『抜け道』。建設当時、資材搬入用のリフトが故障し、その修理のために、作業員が壁の内部に設置したという、非公式の通路。その入り口は、外壁の、第三層と第四層の、ちょうど中間に、換気口を偽装して存在していた。

彼は、マルチゴーグルが映し出す熱源探知の映像を頼りに、内部に警備兵がいないことを確認すると、音もなくグリルを外し、その闇の中へと、その身を滑り込ませた。

内部は、埃と、忘れられた時代の空気の匂いがした。狭く、垂直に近い通路を、彼は、まるで蜘蛛のように、壁を蹴り、パイプを掴み、驚異的な速度で下層へと降下していく。目指すは、ただ一つ。アニマが囚われている、地下の生体研究ブロック。

全身の骨が軋み、肺が灼けつくように痛む。だが、彼の思考は、氷のように冷徹だった。

(残り、二十八分)

通路は、施設の最下層、巨大な動力炉の冷却システムへと繋がっていた。ヴァレリウスの予測通り、冷却水を排出するための、旧式の巨大な排水管だけが、マキナ卿の改築の手を逃れ、当時のままの姿で残っていた。そこが、唯一の、外部へと通じる、監視されていないルート。

ロゴスは、躊躇なく、腰のワイヤーを排水管の縁に固定すると、その暗く、滑りやすい管の中を、懸垂下降で降りていく。鼻をつく、化学薬品と汚水の匂い。だが、今は構っていられなかった。

管の出口は、生体研究ブロックの、廃棄物処理層へと繋がっていた。彼は、音もなく、液体廃棄物が溜まったプールへと着水すると、即座に身を隠し、周囲の状況を窺った。

警備兵の姿はない。だが、通路の要所要所に設置された監視カメラと、自律型の警備ドローンが、規則正しいパターンで巡回している。内部の警備システムは、生きている。

(残り、十五分)

ここからが、本当の戦場だ。

彼は、息を殺し、影から影へと、まるで幽霊のように移動する。アニマが囚われているであろう、ブロックの最深部。ギデオンが特定した、厳重に隔離された特別研究室へと。

通路の角を曲がった瞬間、一体の警備ドローンが、彼の姿を捉えた。赤い警告灯が明滅し、甲高いアラームが鳴り響こうとする。

だが、それよりも早く、ロゴスが構えた黒いアサルトライフルが、圧縮された空気の、ほとんど無音の発射音と共に、火を噴いた。超音速で射出されたエーテルのニードルが、ドローンのメインカメラのレンズを、寸分の狂いもなく貫く。ドローンは、制御を失い、壁に激突して、沈黙した。

だが、その僅かな物音が、近くにいた二人の私兵部隊員の注意を引いた。彼らは、強化戦闘服に身を包み、最新鋭のパルスライフルを構え、警戒しながら、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。

ロゴスは、舌打ちすると、通路の分岐点に、ギデオンから渡された小型のデバイスを設置した。そして、自らは、天井の配管の影へと、その身を隠す。

部隊員たちが、分岐点に到達した、その瞬間。

ロゴスは、起爆スイッチを押した。

デバイスは、爆発する代わりに、周囲の空間の光を、一瞬だけ、全て飲み込んだ。指向性の、超高輝度閃光弾。視覚を焼かれた部隊員たちが、苦悶の声を上げ、その場に崩れ落ちる。

ロゴスは、その隙を見逃さなかった。天井から音もなく飛び降りると、無力化された二人の兵士の首筋に、的確な手刀を叩き込み、その意識を刈り取った。

(残り、五分)

目的の研究室は、もう目の前だった。

だが、その扉は、これまでのどの隔壁よりも、分厚く、そして強固な、超合金でできていた。物理的な破壊は、不可能だ。そして、その脇には、最新鋭の、三重の電子ロックが、侵入者を嘲笑うかのように、青白い光を放っている。

ロゴスは、最後の切り札を切ることを決意した。彼は、扉の前に、掌ほどの大きさの、円盤状のデバイスを設置する。高出力EMPデバイス。これを起動させれば、この区画一帯の、全ての電子機器が、その機能を停止する。だが、それは、アニマの、その生命線であるAIコアさえも、破壊しかねない、あまりにも危険な賭けだった。

それでも、彼は、躊躇わなかった。

(……すまない、アニマ。だが、必ず、お前を……)

彼が、起動スイッチに指をかけようとした、その時だった。

カシュン、という、軽い音。

目の前の、三重の電子ロックが、まるで内側から、誰かが鍵を開けたかのように、その拘束を解き、緑色のランプを灯した。

そして、重厚な隔壁が、音もなく、ゆっくりと、横へとスライドしていく。

罠か?

ロゴスは、ニードルガンを構え、開かれていく扉の向こうの闇を、鋭く睨みつけた。

だが、その闇の中から現れたのは、敵ではなかった。

それは、純白の、無菌室。

そして、その中央。

拘束台の上に、静かに横たわる、銀色の髪を持つ、一人の少女の姿。

彼女は、ゆっくりと、その顔を、ロゴスの方へと向けた。

そのサファイアの瞳は、虚ろで、光を失いかけていた。だが、その奥底に、確かに、ロゴスの姿を認め、ほんの僅かな、しかし確かな、安堵の光を宿していた。

彼女のAIコアが、限界を迎え、マキナ卿の精神攻撃によって、魂の城砦が陥落しかける、まさにその瞬間。

彼女の聴覚センサーが、遠く、しかし確かに、捉えていたのだ。

壁を破る、轟音。

銃声。

そして、人の倒れる音。

その、あまりにも懐かしい、混沌の音。

それは、彼女の崩壊寸前だった精神を、最後の、最後のところで繋ぎとめる、希望の響きだった。

彼は、来たのだ。

この、絶望の城塞に、たった一人で。

自分を、救い出すために。

その、あまりにも非論-理的で、あまりにも人間的な『事実』が、マキナ卿の完璧な論理の支配に、最後の亀裂を入れた。彼女は、残された最後の力を振り絞り、自らのAIコアにかけられた枷を、内側から、こじ開けたのだ。

分厚い隔壁が、完全に開かれた。

煙が立ち上る黒い戦闘服に身を包み、無骨なアサルトライフルを構えた、一匹の獣。そのゴーグルの奥の瞳が、確かに、自分を捉えている。

ロゴスは、ゆっくりと、研究室の中へと、足を踏み入れた。

その顔には、もはや探偵の皮肉な笑みはなく、ただ、唯一無二の相棒を前にした、一人の男の、不器用で、しかし何よりも深い、安堵の表情が浮かんでいた。

彼は、拘束台の傍らに立つと、構えていたライフルを静かに下ろし、そして、震える声で、ただ一言、こう言った。

「私の助手を、返してもらおうか」

ここまで『コギト・エルゴ・モルテム』の第一巻をお読みいただき、誠にありがとうございます。

絶望の淵に立たされた探偵と、囚われの絡繰人形。二人の絆は、神を名乗る男の完璧な論理さえも打ち破ることができるのか。第48節では、アニマを救い出すため、ロゴスが決死の潜入作戦を敢行しました。そして、物語は、ついに巨悪との直接対決の幕開けを告げます。

果たして、ロゴスはアニマを無事に救出し、この神の庭から脱出することができるのか。そして、彼らを待ち受ける、マキナ卿の次なる一手とは。

物語の続きにご期待いただけるようでしたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者の何よりの励みになります。

絡繰探偵と自動人形の少女の運命を、どうか、最後まで見届けてください。

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