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3.4.3.(第47節)独房の設計図

法の番人が灯した、たった三十分の光。

それは、友への黙認か、それとも真実への賭けか。

独房で研ぎ澄まされた探偵の刃が、今、鞘から抜かれる。

砕け散った魂の半身を取り戻すため、男はただ独り、神の庭へと挑む。

これは、敗北の淵から始まる、真なる反撃の物語である。

異端審問庁の地下深く。独房という名の石の棺桶は、絶対的な静寂と闇に支配されていた。ロゴスは、硬質プラスチック製の簡素な寝台の上に、ただ横たわっていた。だが、その精神は、眠りとは程遠い、思考の深淵を彷徨っていた。砕けた肋骨が、呼吸のたびに鈍い悲鳴を上げる。聖域で浴びた熱傷が、皮膚の下で疼く。だが、それら全ての物理的な苦痛は、彼の心を苛む、たった一つの事実の前では、色褪せたノイズに過ぎなかった。

アニマ。

その名が、呪いのように思考の表面に浮かんでは消える。彼女が、その身を賭して創り出してくれた、たった一瞬の勝機。彼女が、その魂の全てを賭して送ってくれた、愛の絶叫。その全てを受け取りながら、自分は、結局、彼女一人を敵の只中に置き去りにして、こうして生き永らえてしまった。そして今、自分は、かつての同僚の手によって、この石の棺桶の中にいる。

待つしかないのか。ヴェリタスが、自らの手で組織の腐敗という真実にたどり着き、その潔癖な正義に火をつける、その瞬間を。だが、残された時間は、ない。アニマは、今この瞬間も、あのマキナ卿という名の、神を気取る狂人の手に落ちているのだ。

絶望。その二文字が、再び、彼の思考を黒く塗りつぶそうとした、その時だった。

彼の寝台の、頭上の壁。その、目立たない継ぎ目の一つが、音もなく、微かに、青白い光を放った。

それは、瞬きほどの、ほんの僅かな光。常人であれば、決して気づくことのない、些細な変化。

だが、ロゴスは、その光を、見逃さなかった。

彼は、痛む身体を引きずるようにして、その壁へと近づいた。そして、光が灯ったパネルに、そっと、指先で触れる。途端に、彼の網膜に、直接、テキスト情報が投影された。それは、あまりにも短く、そして、差出人の名も記されていない、無機質なメッセージ。

だが、その一文を読んだ瞬間、ロゴスの、絶望の闇に沈んでいた瞳に、再び、剃刀のような、鋭い光が宿った。

『今夜、鐘が三度鳴る刻。第7管区の外部警備システムに、三十分間の『定期メンテナンス』が入る。理由は、聞くな』

それは、希望の光ではない。それは、あまりにも分の悪い博打に、それでも、自らの魂の全てを賭け、そして、勝利した者だけが宿す、獰猛なまでの、歓喜の光だった。

「……来たか、ヴェリタス」

彼は、誰に言うでもなく、呟いた。その口の端に、かつてないほどに深く、そして歪んだ笑みが、まるで傷口のように刻まれていく。

「てめえも、俺と同じ、どうしようもねえ『探求者』だった、ってわけだ」

このメッセージは、単なる情報ではない。これは、ヴェリタスからの、無言の『返答』だ。彼は、組織の論理と、自らの正義との間で引き裂かれた末に、法を犯すのではなく、法の『穴』を利用するという、彼らしい、あまりにも潔癖で、あまりにも危険な一手を選んだのだ。彼は、ロゴスを信じたのではない。彼が信じたのは、ロゴスが提示した『謎』を、自らの手で解き明かすという、探求者としての本能だけだ。そのために、彼は、自らのキャリアの全てを賭けて、この三十分という名の、蜘蛛の糸を垂らした。

ロゴスは、その糸の持つ、あまりにも重い意味を、骨の髄まで理解していた。

カチリ、という微かな金属音。独房の分厚い扉のロックが、外れた音だった。これも、ヴェリタスの仕業だろう。メンテナンスの名の下に、囚人の移送記録を偽装し、この独房を、ほんの数分間だけ、空ける。公式な記録には、何も残らない。完璧な、法の黙認。

ロゴスは、躊躇わなかった。彼は、音もなく扉を開けると、闇に包まれた地下通路へと、その身を滑り込ませた。警備の衛兵はいない。監視カメラのレンズは、明後日の方向を向いている。全てが、仕組まれていた。

彼は、元・異端審問官としての知識を頼りに、誰にも気づかれずに、この鋼鉄の迷宮を脱出する。向かうべき場所は、ただ一つ。

「……野良犬!てめえ、一体どうやってここへ!?」

ギデオンの店の厚い鉄の扉を開けたロゴスを、信じられないものを見るかのような、情報屋の驚愕の声が迎えた。店の奥で、ヴァレリウスもまた、ロッキングチェアから身を起こし、その老いた瞳を大きく見開いていた。

「少し、散歩に出たくなったんでな」ロゴスは、掠れた声で応じながら、店の奥へとよろめき入った。「だが、感傷に浸っている暇はない。時間は、三十分しかない」

彼は、二人の驚愕を意にも介さず、壁に立てかけてあった、ギルド第零研究施設『箱庭』の設計図を、作業台の上に広げた。

「ヴェリタスが、動いた。奴が、俺たちのために、神の庭の城壁に、ほんの僅かな風穴を開けてくれる。今夜、鐘が三度鳴る刻から、三十分間だけ。第7管区の、全ての外部警備システムが、沈黙する」

その言葉が持つ意味の、あまりの重大さに、ギデオンもヴァレリウスも、息を呑んだ。

「……正気か、若いの」ヴァレリウスが、震える声で言った。「たとえ外部の警備が止まったとして、『箱庭』内部の、マキナ直属の私兵部隊と、独立した防衛システムは、生きている。三十分で、あの鉄壁の要塞を、どうやって……」

「だから、これは戦争じゃない。外科手術だ」ロゴスは、設計図の一点を、指先で強く叩いた。「アニマが囚われているのは、ギデオンの情報によれば、この施設の、地下にある生体研究ブロックのはずだ。俺は、そこだけを狙う。最短ルートで侵入し、アニマを奪還し、そして離脱する。三十分。いや、往復の時間を考えれば、内部で動けるのは、十五分が限界だ」

「無茶だ!」ギデオンが、吐き捨てるように言った。「てめえの身体は、まだズタボロだ。それに、内部の構造は、この古い設計図とは、全く変わっている可能性が高い。ただの自殺行為だぜ」

「だから、道具が必要だ」

ロゴスは、ガラクタの山を指し示した。

「ギデオン。あんたが、闇市場から仕入れた、とっておきの『玩具』を、見せてもらうぞ。審問庁の連中でも使ってねえ、最新鋭のやつをだ。音を立てずに壁を登るための、吸着グローブとワイヤー。あらゆる電子ロックを、物理的に焼き切るための、高出力EMPデバイス。そして、これを」

彼は、壁に無造作に掛けられていた、一丁の、黒く、そして無骨なアサルトライフルを手に取った。それは、通常の火薬式ではない。圧縮したエーテルを、超音速の針として射出する、軍用の、消音式ニードルガンだった。

「こいつの、徹甲弾をありったけ。それと、閃光弾と、煙幕弾もだ。俺は、戦いに行くわけじゃない。だが、万が一の保険は、多いに越したことはない」

彼の瞳には、もはや迷いも、恐れもなかった。そこにあったのは、ただ、唯一無二の相棒を救い出すという、鋼のように硬質で、そして灼けつくように熱い、絶対的な決意だけだった。その気迫に、ギデオンは、それ以上の反論を、飲み込んだ。彼はただ、大きくため息をつくと、店の奥の、最も厳重にロックされた武器庫の扉を、不承不承といった体で開け始めた。

「……ヴァレリウス殿」ロゴスは、次に、静かに佇む老技術者へと向き直った。「あなた様には、この『箱庭』の、オリジナルの設計思想について、教えていただきたい。マキナ卿は、完璧主義者だ。だが、その完璧主義故に、古い設計の『無駄』を、嫌うはずだ。彼が、改築の際に、手を加えなかったであろう、古い施設の『癖』や『弱点』。換気ダクトの位置、動力ケーブルの配線ルート、あるいは、建設当時に作業員が遺した、設計図にはない『抜け道』。どんな些細な情報でもいい。それが、俺の命綱になる」

ヴァレリウスは、ロゴスの、その覚悟に満ちた瞳を、じっと見つめ返した。そして、静かに、しかし力強く、頷いた。

「……分かった。私の、この老いぼれた頭脳の、全ての記憶を、君に託そう」

そこから先の時間は、戦争そのものだった。

ギデオンが、次々と、闇市場の最高級の装備を、ロゴスの前に並べていく。軽量で、あらゆるセンサーに反応しない、黒の強化戦闘服。闇の中でも、熱源と音響を探知できる、マルチゴーグル。そして、無数の、用途不明の、しかし deadly なガジェットの数々。ロゴスは、それらを、まるで手足の一部であるかのように、無駄のない動きで、自らの身体に装着していく。

その横で、ヴァレリウスが、記憶の深淵から、古い設計図の断片を、次々と引き出していく。

「……北側の外壁、第三層と第四層の間だ。建設当時、資材搬入用のリフトが故障し、その修理のために、作業員が壁の内部に、非公式の足場と通路を設置した、という記録が、あったはずだ。それは、公式な設計図からは、もちろん抹消されている。だが、構造上、今も残っている可能性が高い……」

「……動力炉の冷却システム。マキナの性格からして、最新鋭のものに換装しているだろう。だが、冷却水を排出するための、旧式の排水管だけは、そのままである可能性が高い。なぜなら、その配管は、施設の基礎構造そのものと連結しており、交換するには、施設全体を一度、解体しなければならんからだ。そこが、唯一の、外部へと通じる、監視されていないルートかもしれん……」

ロゴスは、それらの情報を、スポンジが水を吸い込むように、自らの頭脳に叩き込んでいく。彼の脳内で、新しい、そして唯一の、侵入経路の設計図が、急速に構築されていく。

やがて、全ての準備が整った。

壁の古時計の針が、鐘が三度鳴る、その時刻へと、ゆっくりと近づいていた。

ロゴスは、黒の戦闘服に身を包み、顔の半分を覆うマルチゴーグルを装着し、その姿は、もはや煤けた探偵ではなく、闇に潜む、一匹の孤高の獣のようだった。

「……行くぞ」

彼は、短く、仲間たちに告げた。

「嬢ちゃんを、頼んだぜ、野良犬」

「……必ず、生きて戻れ、若いの」

二人の老人の、声援とも、祈りともつかぬ言葉を背に、ロゴスは、再び、店の奥の隠し通路へと、その身を沈めた。

彼の心には、もはや迷いも、恐れもなかった。

そこにあったのは、ただ、唯一無二の相棒を救い出すという、鋼のように硬質で、そして灼けつくように熱い、絶対的な決意だけだった。

ヴェリタスが、その全てを賭けて創り出してくれた、たった三十分の奇跡。

その一秒たりとも、無駄にはしない。

彼は、闇の中を、一つの確かな目的地に向かって、疾走した。

神の庭へ。

そして、囚われた魂の元へ。

ヴェリタスが灯した、たった三十分の光。その蜘蛛の糸を掴み、ロゴスはついに、アニマを救い出すための、決死の潜入作戦を開始します。仲間たちの知識と技術を結集し、研ぎ澄まされた刃となって、彼は神の庭へと挑みます。物語は、第3巻のクライマックス、息もつかせぬアクションと、知略の応酬へと、一気に加速していきます。

一方、その神の庭では、マキナ卿によるアニマへの精神攻撃が、最終段階に入っていました。ロゴスは、間に合うのか。そして、彼女の魂は。

もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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