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3.4.2.(第46節)法の黙認

鋼鉄の意志を持つ男は、自らが信じる世界の崩壊を前に、ただ独り、孤独な探求の荒野へと足を踏み出す。

信じた正義が、組織の闇に阻まれる。法の番人が初めて知る、法の届かぬ聖域の存在。

完璧な秩序の石壁に刻まれた、見過ごされてきた無数の瑕疵。

真実の重みが天秤を歪ませる時、彼は、自らが守るべき法の、その裏口の扉を、自らの手で静かに開けることを決意する。

それは、友への返信か、それとも、自らの魂への反逆か。

異端審問庁の最上階。星付き異端審問官ヴェリタスの執務室は、彼自身の精神を具現化したかのような、絶対的な秩序の空間だった。だが今、その完璧な聖域は、持ち主の心の揺らぎを反映するかのように、どこか落ち着かない空気に満ちていた。壁一面を埋め尽くす法典の背表紙が、まるで無数の墓標のように、彼を静かに見下ろしている。

評議会から戻って、どれほどの時間が経っただろうか。ヴェリタスは、執務室の窓際に立ち、眼下に広がるイゼルガルドの雑然とした街並みを、感情のない瞳で見下ろしていた。あの場所で、彼は全てを失った。自らが命を懸けて守ってきたはずの法が、権力者の都合の良い道具として捻じ曲げられる瞬間を、ただ無力に見つめることしかできなかった。組織の論理は、真実をいとも容易く飲み込んだ。そして、自分自身もまた、その巨大な欺瞞の構造を維持するための一つの歯車に過ぎなかったのだと、骨の髄まで思い知らされた。

『――君は、ただの、檻の中から、偽りの空を見上げている、哀れな囚人に過ぎん』

あの男、ロゴスの、嘲るような、しかしどこか哀れむような声が、脳裏に蘇る。あの時、自分はそれを狂人の戯言として、完璧な論理の盾で弾き返したはずだった。だが、今や、その言葉は、否定しようのない真実の刃となって、彼の魂を内側から切り刻んでいた。

彼は、机の上の通信機のスイッチに、指をかけたまま、凍り付いていた。数時間前、評議会での惨めな敗北の後、彼は確かに決意したはずだ。法と正義が機能しないのなら、法を超えた場所にいる、あの男の力を借りるしかない、と。地下独房のロゴスを、この執務室へ。そう、命じようとした。

だが、その指は、最後の命令を下すことを、ためらっていた。

ロゴスと、直接会う。それは、何を意味する?この、完璧に盗聴対策が施された執務室ですら、壁の向こうに、最高情報管理官の、あるいはマキナ卿の『耳』がないと、どうして言い切れようか。ロゴスと接触したという事実そのものが、決定的な反逆の証拠として、自分を社会的に抹殺するための、最高の武器となるだろう。そして、自分だけではない。彼の潔癖な正義感は、自らの部下たちを、この泥沼の戦いに巻き込むことを、許さなかった。

だが、このまま何もしなければ?

アニマという名の、あの気高き自動人形は、マキナ卿の狂気の玩具となり、その魂を蹂躙され続ける。そして、ロゴスは、いずれ独房の中で、あるいは移送の途中で、誰にも知られず、『事故死』として処理されるだろう。真実は永遠に闇に葬られ、マキナ卿は、神のごとき力を手に入れ、この都市を、彼の歪んだ理想郷へと作り変えていく。

その光景を、ただ黙って、法の番人として見過ごすこと。それは、ヴェリタスにとって、物理的な死よりも、耐え難い屈辱だった。

「……くそっ」

彼の唇から、生まれて初めて、そのような呪詛の言葉が漏れた。彼は、拳で、硬い黒檀の机を強く叩いた。完璧だったはずの世界に、初めて、感情という名の、暴力的な亀裂が走る。

彼は、組織の論理と、自らの正義との間で、引き裂かれていた。どちらを選んでも、待っているのは破滅だ。組織に従えば、魂が死ぬ。正義を貫けば、社会的に死ぬ。

だが、本当に、道はその二つしかないのか?

ヴェリタスの頭脳が、肉体の疲労を無視して、氷のように冷たく、そして正確に回転を始めた。彼は、チェスの名人が、詰みの盤面の中から、唯一の引き分けへの道筋を探し出すかのように、思考を巡らせた。

自らの立場――星付き異端審問官――を、完全に捨てずに。

公式な記録上は、いかなる瑕疵も残さずに。

それでいて、あの男、ロゴスに、反撃の機会を与える、ただ一本の、細き蜘蛛の糸を垂らす。

そんな、虫の良い、都合のいい手が、果たして、存在するのか?

彼は、自らの執務机の、隠されたコンソールから、再び、異端審問庁の、全てのシステム管理権限が眠る、深層のデータベースへとアクセスした。今度の目的は、陰謀の証拠を探すためではない。自らが持つ権限の、その『穴』を探すためだった。

都市のインフラ、交通機関、通信網。その全てに、審問庁は、緊急時における強制介入権限を持っている。その権限の行使は、全て記録され、監査される。だが、その中に、一つだけ、例外に近い項目があった。

『定期メンテナンス』。

都市の各区画の警備システムや、インフラの制御AIは、その機能の正確性を維持するため、定期的に、専門の技術官によるメンテナンスを受けることが、法で定められている。そして、そのメンテナンスの際、作業中の不測の事態を防ぐため、管轄の星付き審問官の権限によって、一時的に、対象区画の特定のセキュリティシステムを、完全に無力化することが『許可』されていた。それは、あまりにも日常的で、あまりにも膨大な数の業務の一つ。その実行記録は、日報の片隅に、一行のコードとして記されるだけで、誰の注意を引くこともない。

これだ。

ヴェリタスの瞳が、危険な光を宿した。

彼は、地図データを展開させ、一つの区画に、その焦点を合わせた。

上層区画、第7管区。

そこには、あの忌まわしい、鉄壁の要塞が存在する。ギルド第零研究施設。通称『箱庭アルカ』。アニマが囚われている、マキナ卿の私的な実験王国。

この『箱庭』そのものは、治外法権だ。だが、その周囲の区画は、違う。そこは、紛れもなく、審問庁の管轄下にある。そして、その警備システムは、彼が承認すれば、いつでも『メンテナンス』の名の下に、沈黙させることができる。

例えば、三十分間だけ。

それは、あまりにも短く、あまりにも無謀な時間だ。だが、あの男、ロゴスならば。彼が、もし自由の身であったなら。その、神が与えたもうた、僅かな機会を、最大限に活用するだろう。

だが、どうやって、彼に伝える?

彼は、独房の中だ。いかなる通信手段も、遮断されているはず。

いや、違う。ヴェリタスは、自らの記憶の、さらに深い場所を探った。審問庁の独房には、設計上、一つの『裏口』が存在する。それは、囚人が暴動を起こした場合や、施設が外部からの攻撃を受けた際に、内部の状況を、最低限のテキスト情報でのみ、司令室へと伝達するための、非常用の、そして完全に独立した通信ライン。その存在は、星付き以上の、ごく一部の人間にしか知らされていない。そして、その回線は、一方通行ではない。特定の、最高レベルの暗号キーを使えば、外部から、独房の、壁に埋め込まれた小さなパネルに、メッセージを『送る』ことも、可能だった。

それは、法の番人として、決して使ってはならない、禁断の鍵。囚人との、不正な取引にも使われかねない、システムの、意図的な『瑕疵』。

だが、今、その『瑕疵』こそが、彼の信じる正義を、かろうじて繋ぎとめる、唯一の命綱となっていた。

彼は、決意した。

自らの執務室で、細心の注意を払いながら、彼は、誰にも追跡されない、旧式の、そして一度きりしか使えない、使い捨ての暗号化通信回線を構築した。そして、その回線を通じて、地下独房の、あの男だけが気づくはずの、非常用通信パネルへと、一つの、あまりにも簡潔な、しかし全てを込めたメッセージを、送信した。

タイプする指が、僅かに、震えていた。それは、恐怖ではない。自らが、初めて、信じてきた法のレールを、自らの意志で踏み外すことへの、背徳感と、そして、それでも真実を求める探求者としての、昏い高揚感の震えだった。

『今夜、鐘が三度鳴る刻。第7管区の外部警備システムに、三十分間の『定期メンテナンス』が入る。理由は、聞くな』

送信後、彼は、その通信に関わる、全てのログを、自らの権限を最大限に利用して、審問庁のデータベースから、完全に消去した。そして、何事もなかったかのように、再び、机の上に山と積まれた、決済を待つ書類の山へと、その視線を戻した。

壁に掛けられた時計の針が、規則正しく、時を刻んでいる。

彼の、法の番人としての一日は、まだ、終わっていない。

だが、彼の内面では、もはや何かが、決定的に、そして修復不可能なまでに、変わってしまったことを、彼自身が、誰よりもよく、自覚していた。

彼は、もはや、純粋な法の番人ではなかった。

彼は、共犯者になったのだ。

自らが最も憎むべき、テロリストの。そして、自らが最も救いたいと願う、真実の。

独房の、絶対的な静寂と闇の中。

ロゴスは、硬い寝台の上に、ただ、横たわっていた。だが、その精神は、眠りとは程遠い、思考の深淵を彷徨っていた。

その時だった。

彼の寝台の、頭上の壁。その、目立たない継ぎ目の一つが、音もなく、微かに、青白い光を放った。

それは、瞬きほどの、ほんの僅かな光。常人であれば、決して気づくことのない、些細な変化。

だが、ロゴスは、その光を、見逃さなかった。

彼は、痛む身体を引きずるようにして、その壁へと近づいた。そして、光が灯ったパネルに、そっと、指先で触れる。

途端に、彼の網膜に、直接、テキスト情報が投影された。

それは、あまりにも短く、そして、差出人の名も記されていない、無機質なメッセージ。

だが、その一文を読んだ瞬間、ロゴスの、絶望の闇に沈んでいた瞳に、再び、剃刀のような、鋭い光が宿った。

それは、希望の光ではない。

それは、絶望の、さらにその先にある、全てを諦め、そして全てを破壊することだけを目的とした、純-粋な狂気の光でもない。

それは、あまりにも分の悪い博打に、それでも、自らの魂の全てを賭け、そして、勝利した者だけが宿す、獰猛なまでの、歓喜の光だった。

彼は、ゆっくりと顔を上げた。その口の端に、かつてないほどに深く、そして歪んだ笑みが、まるで傷口のように刻まれていく。

「……来たか、ヴェリタス」

彼は、誰に言うでもなく、呟いた。

「てめえも、俺と同じ、どうしようもねえ『探求者』だった、ってわけだ」

彼は、独房の、冷たい壁に、そっと、背を預けた。

そして、来るべき夜明けを、いや、これから始まる、最も長く、そして最も危険な夜を、ただ、静かに、待ち始めた。

反撃の準備は、整った。

舞台は、忘れられた歯車の墓場ではない。

神の庭、そのものである。

ヴェリタスは、自らが信じる組織の腐敗を確信し、ついに、法と規則の壁を、自らの意志で乗り越える決意をしました。彼の孤独な探求は、かつての好敵手であるロゴスへの「黙認」という、最も危険で、最も予測不能な一手へと繋がります。二人の知性が、見えざる糸で再び結ばれた時、この絶望的な盤面は、どのように動くのか。一方、鉄壁の要塞『箱庭』では、アニマの魂を巡る、マキナ卿の狂気的な実験が、静かに、そして着実に進行していました。もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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