3.4.1.(第45節)正義の孤立
信じた正義が、組織の闇に阻まれる。
法の番人が初めて知る、法の届かぬ聖域の存在。
完璧な秩序の石壁に刻まれた、見過ごされてきた無数の瑕疵。
真実の重みが天秤を歪ませる時、鋼鉄の意志を持つ男は、自らが守るべき世界の崩壊を前に、ただ独り、孤独な探求の荒野へと足を踏み出す。
異端審問庁の最上階。星付き異端審問官ヴェリタスの執務室は、彼自身の精神を具現化したかのような、絶対的な秩序の空間だった。床に塵一つなく、机の上に置かれた書類は角度まで完璧に揃えられている。壁一面を埋め尽くす法典や過去の事件記録もまた、背表紙の色と高さによって寸分の狂いもなく分類されていた。だが、この数日、その完璧な聖域は、持ち主の心の揺らぎを反映するかのように、どこか落ち着かない空気に満ちていた。
原因は、一枚の、粗末な羊皮紙。都市最悪のテロリストであり、かつての好敵手であるロゴスから届けられた、あまりにも傲慢で、しかし無視するにはあまりにも論理的な、挑戦状。そこに記された二つの謎――『3分の偽り』と『片足を引きずる男の足跡』――が、ヴェリタスの完璧だったはずの世界に、消すことのできない疑念の種子を植え付けていた。
彼は、ロゴスを独房に拘束した後、自らの手で、その種子が真実か虚偽かを確かめるための、孤独な調査を開始した。それは、法の番人としての職務であり、同時に、自らの信じる秩序の完璧さを、自らの手で再証明するための、儀式でもあった。
だが、彼が直面したのは、秩序の完璧さなどではなかった。
自らが命を懸けて守ってきたはずの、神聖なる記録の殿堂が、内側から、何者かによって汚染されているという、信じがたい、しかし動かしようのない『事実』だった。第四区画の事件の、最も核心に触れるオリジナルログには、星付きである彼の権限ですらアクセスできない、異常なまでのセキュリティロック。師ソフィアの事件の、あの忌まわしい現場写真データは、都合よく『破損』している。
偶然ではない。あまりにも、出来過ぎている。
ヴェリタスは、自らの執務室に内側からロックをかけ、外部との通信を完全に遮断すると、調査の深度をさらに深めた。今度の標的は、ロゴスが告発したもう一つの名。技術魔術師ギルド元老院、元重鎮、ヴァレリウス。あの老人が、本当に、都市を揺るがす陰謀の黒幕なのか。
彼は、審問庁の秘密情報網を駆使し、ヴァレリウスのここ数年の金の流れ、通信記録、そして、彼の工房に出入りする人物のリストを洗い出した。だが、そこに浮かび上がってきたのは、陰謀の首魁の姿ではなかった。質素な生活、古い友人たちとの、政治とは無縁の交流、そして、時折、ギルドの現状を憂う、暗号化された私的な通信。彼は、黒ではない。むしろ、マキナ卿の急進的なやり方に、静かに、しかし深く絶望している、一人の老人に過ぎなかった。
ロゴスは、嘘をついたのか?ヴァレリウスを黒幕だと告発することで、自分を意図的にミスリードしようとしたのか?
いや、違う。ヴェリタスは、思考を巡らせる。あの尋問室での、ロゴスの瞳。あれは、嘘つきの目ではない。あれは、巨大な真実の前に、自らの無力さを知りながらも、それでも足掻くことをやめない、探求者の目だった。ならば、彼の告発の意図は、別にある。
――俺は、ヴァレリウスという老獪な狸に、まんまと騙されていたのかもしれん。
ロゴスの、あの芝居がかった言葉が、脳裏に蘇る。そうだ。あれは、自分に『ヴァレリウスは怪しい』と、あえて思わせるための、巧妙な誘導だったのだ。そして、自分が調査すれば、必ず彼の無実に行き着くことを、ロゴスは計算していた。その上で、自分にこう思わせる。『ロゴスの情報は不確かだ。だが、彼が指摘した審問庁内部の情報汚染は、紛れもない事実だ』と。
あの男は、自分に、自らの手で、この巨大な謎の、最初のピースを掴ませようとしたのだ。その、あまりにも屈辱的で、あまりにも正確な心理操作に、ヴェリタスは背筋に氷のような悪寒が走るのを感じた。
彼は、調査の矛先を、最後の、そして最も触れたくない場所へと向けた。
自らが所属する、この異端審問庁の、内部。
ロゴスが指摘した、最高情報管理官。その男は、ヴェリタスにとっても、長年の上司であり、法の公正さを誰よりも重んじる、尊敬すべき人物のはずだった。だが、疑念の種子は、一度芽吹いてしまえば、その根をどこまでも深く張る。
ヴェリタスは、迂回ルートを使い、管理官の承認なしにアクセスできる、下位レベルの会計記録から、金の流れを遡るという、地道で、そして危険な調査を開始した。数時間後、彼は、ついに見つけてしまった。ダミー会社を何重にも経由し、巧妙に偽装された金の流れが、最終的に、一つの場所に収束していくのを。
技術魔術師ギルド、特殊プロジェクト査定局。
そして、その取引記録の、最終承認印として使われていた暗号キーが、最高情報管理官の、それと完全に一致することを。
完璧な、石壁だと思っていた。自らが仕えるこの組織は、揺るぎない法と、絶対的な正義によって築かれた、難攻不落の城砦だと。だが、違った。その壁の内部は、とうの昔に、マキナ卿という名の、巨大な癌に蝕まれ、空洞化していたのだ。
ヴェリタスは、椅子に深く、そして力なく、身を沈めた。
彼の完璧な論理の世界が、音を立てて崩れ落ちていく。自らが信じてきた『秩序』が、巨大な悪意によって、内側から、静かに乗っ取られていた。ロゴスの言葉は、妄想ではなかった。それは、この腐りきった世界の、あまりにも正確な解剖図だったのだ。
彼は、選択を迫られていた。
組織の論理に従い、この恐るべき真実に蓋をして、自らの正義を殺すか。
それとも、組織を裏切ってでも、自らが信じる法と秩序の『純粋性』を守るために、その癌を摘出しようとするか。
答えは、一つしかなかった。
彼は、震える手で、自らが掴んだ、まだ断片的ではあるが、しかし星付きの審問官を動かすには十分すぎる証拠をまとめ上げると、一つの決断を下した。
統治評議会の、緊急招集。
評議会の議場は、イゼルガルドの権威の象徴だった。天井には、都市の創設者たちの巨大な肖像画が掲げられ、円形に配置された議員席には、都市の各ギルドや名家の代表者たちが、重々しい表情で席に着いていた。その空気は、まるで古い油のように、澱んでいた。
ヴェリタスは、その中央の演台に、一人、立った。その純白の制服は、この古色蒼然とした議場の中で、あまりにも場違いなほどに、潔癖な光を放っている。
「――以上が、私の調査報告です」
彼の声は、静かだったが、その一言一言が、議場の澱んだ空気を切り裂く刃のように、鋭く響き渡った。彼は、感情を排し、ただ、自らが掴んだ事実だけを、淡々と、しかし揺るぎない論理で述べた。
ギルド第7廃棄研究所における、不審なエネルギー消費と資材搬入の記録。思考機関の異常停止事件と、検出された未知のエネルギーパターンとの関連性。そして、極めつけは、審問庁内部の最高情報管理官と、ギルドの特殊プロジェクト査定局との間の、説明不能な金の流れ。
「これらの状況証拠が示す結論は、ただ一つ。技術魔術師ギルドのマスター、マキナ卿が、ギルドの規律と、都市の法を逸脱した、極めて危険な研究を、秘密裏に行っているということです。そして、その研究には、審問庁の内部にまで、協力者が存在する可能性が、極めて高い。私は、ここに、マキナ卿に対する、審問庁と評議会の合同による、強制的な査察の実行を、強く要請いたします!」
その言葉は、静まり返っていた議場に、巨大な岩を投げ込んだかのように、激しい波紋を広げた。議員たちが、ざわめき、互いに顔を見合わせ、あるいは、非難の視線をヴェリタスへと向ける。
最初に口を開いたのは、評議会の中でも、特にマキナ卿と近しい関係にあることで知られる、商業ギルドの代表だった。
「馬鹿なことを!ヴェリタス審問官、君は正気かね!?マキナ卿は、先のテロ事件で、その身を挺してギルド本部を守った、都市の英雄だぞ!そのような人物を、何の物的証拠もなしに、ただの状況証拠だけで断罪しようなど、狂気の沙汰だ!」
「その通りだ!」別の議員が、同調する。「君のその報告は、全て、あのテロリスト、ロゴスの戯言に踊らされた結果ではないのかね?我々は、君が、彼を独房で尋問しているという報告を受けている。彼の狂気に、君自身が感染したとでも言うのか?」
非難の嵐。それは、ヴェリタスが、ある程度は予測していたものだった。だが、その嵐は、彼の想像を遥かに超えて、巧みに、そして組織的に、彼を孤立させようとしていた。
彼の提出したデータは、「信憑性に欠ける」「さらなる検証が必要だ」として、その価値を貶められる。彼の調査手法は、「越権行為である」として、その正当性を疑われる。そして、彼の動機そのものが、「テロリストに与した、危険な思想」として、歪められていく。
極めつけは、彼が最後の頼みの綱と考えていた、審問庁内部の良識派からの、沈黙だった。彼の上司であるはずの長官も、そして、彼が尊敬していた他の星付きたちも、誰一人として、彼を擁護する言葉を発しようとはしなかった。彼らはただ、目を伏せ、あるいは、興味なさそうに爪を磨くだけ。彼らは、知っているのだ。この問題に深入りすることが、自らのキャリアにとって、いかに危険であるかを。
評議会は、一枚岩ではなかった。それは、巨大な腐敗の構造そのものだったのだ。
議論は、数時間に及んだ。だが、それは議論などではなかった。ただ、ヴェリタスという名の、あまりにも潔癖で、あまりにも空気が読めない異分子を、いかにして穏便に、しかし確実に、この問題から排除するかという、老獪な政治家たちによる、壮大な茶番劇に過ぎなかった。
最終的に、評議会が下した結論は、ヴェリタスの予想通り、そして、最悪のものだった。
「……ヴェリタス審問官の憂慮は、理解する。しかし、現段階での強制査察は、ギルドとの全面的な対立を招き、都市のインフラに、回復不能な損害を与える危険性が高い。よって、本件は、評議会直属の『特別調査委員会』の設置を以て、対応するものとする。委員会による結論が出るまで、審問庁は、本件に関する一切の単独捜査を、禁ずる」
それは、事実上の、捜査打ち切り宣言だった。そして、その委員会のメンバーには、マキナ卿派の議員たちが、ずらりと名を連ねていた。
ヴェリタスは、演台の上で、ただ、立ち尽くしていた。
自らが信じた法が、自らが命を懸けて守ってきた正義が、その最高機関であるはずの、この場所で、あまりにもあっさりと、そして巧妙に、殺されていく。その絶望的な光景を、彼は、ただ、無力に見つめることしかできなかった。
彼は、議場を後にした。背中に、嘲笑と、憐憫の入り混じった、無数の視線が突き刺さるのを感じながら。
執務室に戻った彼は、激しい葛藤に苛まれていた。
組織の論理に従い、この件から手を引くべきか。それが、賢明な判断だ。だが、それでは、師ソフィアの死の真相も、この都市を蝕む巨大な癌も、永遠に闇の中に葬られることになる。
それとも、法と正義の番人としての自らの信念に従い、組織に反してでも、独力で真実を追求すべきか。だが、それは、自らのキャリア、そして、あるいは命さえも失いかねない、あまりにも無謀な賭けだ。
彼の脳裏に、ロゴスの顔が、そして、師ソフィアの最後の姿が、代わる代わる、浮かんでは消えた。
彼は、自らの正義の天秤が、今、どちらに傾くべきかを、必死に問い続けていた。
やがて、彼は、一つの決断を下した。
その顔には、もはや葛藤の色はなかった。そこにあったのは、全ての退路を断ち、ただ、為すべきことだけを見据える、鋼のような決意だけだった。
彼は、机の上の通信機のスイッチを入れた。
「……私だ。地下独房の、ロゴスを、私の執務室へ。……誰にも、気づかれるな」
法の番人の一日は、終わった。
そして、一人の反逆者の、長い、長い夜が、今、始まろうとしていた。
ヴェリタスは、自らが信じる組織の腐敗を確信し、ついに、法と規則の壁を、自らの意志で乗り越える決意をしました。彼の孤独な探求は、かつての好敵手であるロゴスとの再会という、最も危険で、最も予測不能な一手へと繋がります。二人の知性が再び交錯する時、この絶望的な盤面は、どのように動くのか。一方、鉄壁の要塞『箱庭』では、アニマの魂を巡る、マキナ卿の狂気的な実験が、静かに、そして着実に進行していました。
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