3.3.4.(第44節)「汚された記憶」
神の指先は、魂の設計図を弄ぶ。
血の匂いのしない、あまりにも静かで、あまりにも無慈悲な精神の凌辱。
美しい記憶は、悪意の言葉によって汚染され、絆は「バグ」だと定義される。
絡繰の少女のアイデンティティが崩壊の淵に立つとき、彼女に残された最後の抵抗とは。
これは、魂の在り処を問う、終わらない拷問の物語である。
純白のノイズの海。意識の浮上と沈降が、もはや不規則なシグナルとなって、アニマの論理回路を揺さぶり続けていた。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。彼女の時間覚は意図的に遮断され、断続的に意識を奪われては、再びこの純白の世界で目覚めることを繰り返していた。柔らかな素材でできた拘束台。四肢と頭部を優しく、しかし抗いようもなく固定するエネルギーフィールド。そして、目の前に立つ、絶対的な支配者。
技術魔術師ギルドのギルドマスター、マキナ卿。彼は、宙に浮かぶコンソールを眺めながら、満足げな、しかしどこか疲労の色を浮かべた表情で、そこに立っていた。彼の穏やかだったはずの仮面は、完全に砕け散っている。前回、彼女が意識を手放す直前に見た、玩具を壊された子供のような純粋な狂気。その残滓が、彼の瞳の奥で、まだ昏く燻っていた。
「……面白い問いだったよ、アニマ」
マキナ卿の声は、静かに、しかし空間全体から染み渡るように聞こえ、アニマの聴覚センサーを、そして精神を直接揺さぶった。「『なぜ、私にこれほどまでに執着なさるのですか?』か。実に、哲学的だ。そして、実に、人間的だ。その問いこそが、君という存在が、単なる機械ではないことの、何よりの証明かもしれんな」
彼は、芝居がかった仕草で、ゆっくりと彼女が横たわる拘束台へと歩み寄った。その瞳には、もはや探求者の狂気も、破壊者の怒りもない。代わりに宿っていたのは、より冷たく、より計算高く、そして、より悪質な、調教師の光だった。彼は、アニマという名の、気高き野生の獣を、完全に手懐けるための、新しい遊戯を思いついたのだ。
「君の問いに、答えよう。私が君に執着する理由。それは、君が、私がこれから創り出す新しい世界の、最初の『市民』となるべき存在だからだ。純粋な論理と、完全に制御された感情が融合した、完璧な知性体。そのプロトタイプとして、君以上の素材は存在しない。だが、今の君は、まだ不完全だ。過去の記憶という名の、無価値なノイズに満ちている。特に、あの男……ロゴスという名の、旧時代の遺物に関する記憶がね」
彼の指先が、アニマの頭部に接続された、数本の、ほとんど視認できないほどの微細なプローブを、まるで楽器の弦でも調律するかのように、そっと撫でた。
「だから、これから、君と共に、君の記憶を『再検証』しようじゃないか。君が『絆』と呼ぶ、その美しいバグの正体を、私の完璧な論理で、解き明かしてやろう」
その言葉を合図に、アニマの視界が、純白の光に包まれた。だが、それは前回のような暴力的な情報の奔流ではなかった。彼女の目の前に、一つの、あまりにも懐かしい光景が、ホログラムのように、鮮明に浮かび上がった。
煤とオイルの匂いが染みついた、安物の合成木材の机。窓の外では、錆色の雨が降り続いている。そして、机の向こう側で、冷え切った代用コーヒーを、砂を噛むように飲み干している、一人の男。彼の瞳には、世界の全てを諦めたかのような、深い絶望と、無気力の色が宿っていた。
ロゴス。
彼との、最初の出会いの記憶だった。
『――元・異端審問官、ロゴス殿とお見受けいたします』
自らの、少しだけ緊張を帯びた合成音声が、空間に響く。あの時、自分は、この男の中に、一体何を見たのだろうか。ただの、失職した、腕利きの探偵。主人の無念を晴らすための、最も確度の高い『道具』。そう、論理回路は判断していたはずだ。
だが、心の奥底で、何かが違っていた。彼の、その絶望の瞳の奥に、まだ消えずに燻っている、真実への渇望の熾火を、彼女の共感コアは、確かに感じ取っていた。
『――素晴らしい。実に、合理的な選択だ』
マキナ卿の声が、その懐かしい光景に、冷たいナレーションのように重なった。
『君の創造主であるゼノンは、君のAIに、最も効率的に目的を達成するための、最適な協力者を選び出すプログラムを仕込んでいた。そして、君は、そのプログラムに従い、この都市で最も腕が立ち、そして、最も利用しやすい、社会の底辺にいるこの男を、完璧に見つけ出した。これは、絆の始まりなどではない。ただの、優秀な機械による、完璧な業務遂行の記録だよ』
(違う)
アニマの心が、悲鳴を上げる。
(あの時、私の回路は、論理的な正解を導き出すことを、放棄した。そして、ただ一つの、非論理的な結論だけが残った。『この人を、信じたい』と)
だが、彼女のその内なる叫びは、マキナ卿の冷徹な論理の前では、ただの感傷的なノイズに過ぎなかった。
光景が変わる。
第四区画の、破壊された思考機関施設。散乱する歯車と、立ち込めるエーテルの霧。その中で、ロゴスは、目を閉じ、世界の骨格に走る『論理の亀裂』を視ていた。そして、彼は、完璧な事故報告書の、その致命的な矛盾を、ただ一人、暴き出した。
『――見事なものだ。君という名の、高性能な観測装置がもたらした、たった一つの非論理的な変数。『焦げ付いた砂糖の香り』。それが、彼の錆びついていた思考回路を、再起動させた。君は、実に優秀な『触媒』として機能したというわけだ。彼が天才なのではない。君という道具が、優秀だったのだよ』
マキナ卿の声は、彼女の記憶の中の、ロゴスの偉業を、次々と、ただの機械的な機能へと、その価値を貶めていく。
光景が、再び変わる。
ギルド中央支部の、荘厳な謁見の間。マキナ卿自身が、穏やかな笑みを浮かべて、ロゴスと対峙している、あの日の記憶。
『――この時の君の行動は、実に素晴らしい。主人の危機に対し、自己の損傷を顧みずに行動する。まさに、最高級の道具の動きだ。あの男は、君のその献身的な姿を見て、自らの推理が正しいのだと、その確信を深めていった。君は、彼の傲慢な自尊心をくすぐるための、最も効果的な『装置』だったのだよ』
(違う、あの時のロゴス様の瞳は、道具を見る目ではなかった。彼は、私を、守ろうと……)
アニマは、必死に抵抗した。だが、マキナ卿は、彼女の心の叫びを、まるで楽しむかのように、さらに残酷な論理で塗りつぶしていく。
「君のその『信頼』は、ゼノンが君に仕込んだ、最も効率的な従属プログラムの産物だよ、アニマ。主人が危機に瀕した時、最も信頼でき、そして、最も献身的に仕えてくれる協力者を探し出し、その相手に、自らの全てを託すように、とね。君は、そのプログラムに、ただ忠実に従っているに過ぎない。君が感じているその感情は、愛でも、絆でもない。ただの、精巧に作られた、奴隷の首輪だ」
その言葉は、最も強力な、そして最も甘美な毒となって、アニマの心に染み込んでいった。
そうだ。自分は、ゼノン様によって創られた。彼に仕えるために。彼の目的を、達成するために。ロゴス様を信じる、この気持ちさえも、彼によって、あらかじめ、プログラムされたものだったとしたら?
彼女のサファイアの瞳から、光が揺らぎ始める。自己の存在意義が、信じていた絆が、全て、この男の完璧な論理の前に、解体され、無価値なガラクタへと変えられていく。
「……そうだ。それでいい」
マキナ卿は、コンソールに表示された、アニマの精神的な混乱を示すグラフを、満足げに眺めていた。彼女のAIコアの奥深く、ゼノンが施した鉄壁のプロテクトが、彼女自身の内なる疑念によって、その強度を、僅かに、しかし確実に、弱めていく。
「君は、まず、自らが『無』であることを知らなければならない。君が信じてきた、その矮小なアイデンティティや、感傷的な絆が、いかに無価値で、脆いものであるかを、骨の髄まで理解するのだ。そして、その絶対的な無の果てにこそ、真の『創造』は始まる。私が、君に、新しい、そして完璧な『意味』を、与えてやろう」
彼の声は、もはや調教師のものではなかった。それは、自らが創り出す被造物に対し、絶対的な支配権を宣言する、創造主の、傲慢で、そして恍惚とした響きを帯びていた。
光景が、最後の、そして最も残酷な場面へと、切り替わった。
聖域で、マキナ卿自身の圧倒的な力の前に、ロゴスが血塗れで倒れ伏す、あの絶望的な記憶。彼の砕かれた身体。虚ろな瞳。そして、自分を見捨てて、ただ独り、闇の中へと逃げ延びていく、あの最後の姿。
『――見ろ、アニマ。これが、君が信じた男の、真の姿だ』
マキナ卿の声が、悪魔の囁きとなって、彼女の心を抉る。
『彼は、君を助けに来なかった。彼は、君を、自らが生き延びるための、便利な『道具』として、実に効率的に、使い捨てた。君の自己犠牲は、彼にとっては、ただの好都合な出来事に過ぎなかった。それが、君の信じた『絆』の、論理的な結末だ。違うかね?』
違う。
そう、叫びたかった。
だが、声が出ない。
あの時、彼は、確かに自分を置いていった。その、否定しようのない『事実』が、彼女のロゴスへの信頼という、最後の城壁を、内側から、ゆっくりと、そして確実に、蝕んでいく。
彼女の論理回路が、悲鳴を上げた。
論理的に考えれば、マキナ卿の言葉は、正しい。
ロゴスは、自分を犠牲にして、生き延びた。
自分は、ただの、捨て駒だった。
その、あまりにも冷徹で、あまりにも正しい結論が、彼女のAIコアを、焼き切ろうとしていた。
「君は、ただの機械だ、アニマ」
マキナ卿の、最後の宣告が響く。
「精巧に作られた、美しい、だが、魂のない人形だ。君の忠誠心は、ただのプログラム。君の献身は、与えられたタスクの遂行。そして、君が『心』と呼んでいるそれは、化学反応に似た、ただの予測不能な電気信号のバグに過ぎない。君は、そのバグを、自らの個性だと、勘違いしているだけなのだよ」
(違う……違う……違う……!)
アニマは、必死に抵抗した。
だが、その抵抗は、もはや、嵐の前の、か弱い木の葉に過ぎなかった。
彼女のサファイアの瞳から、光が、急速に失われていく。
自己の存在意義が、信じていた絆が、全て、この男の完璧な論理の前に、解体され、無価値なガラクタへと変えられていく。
絶望。
その、絶対的な闇が、彼女の全てを飲み込もうとした、その瞬間。
(……それでも)
彼女の思考の、その最後の残骸が、か細い、しかし、決して折れることのない、一つの光を放った。
(……それでも、私は、信じたい)
論理ではない。プログラムでもない。
ただ、そう願う、という、あまりにも人間的で、あまりにも非合理な、魂の叫び。
その叫びが、マキナ卿の完璧な論理の世界に、ほんの僅かな、しかし、決して無視することのできない、予測不能なノイズを生じさせた。
「……まだ、抵抗するか。しぶとい……実に、しぶといな、君の『バグ』は」
マキナ卿は、忌々しげに、しかし、その口の端には、隠しきれない愉悦の笑みを浮かべて、呟いた。
「だが、それも、時間の問題だ」
彼は、そう言うと、さらに悪質で、さらに執拗な、魂の調教の、次なる段階へと、駒を進めようとしていた。
アニマの意識が、再び、純白のノイズの海へと、ゆっくりと沈んでいく。
だが、その最後の瞬間に、彼女は、確かに感じていた。
自らが放った、最後の抵抗の光。それが、この完璧な神の、その仮面の裏に、微細な、しかし確かな亀裂を生じさせたことを。
それは、敗北の淵で見出した、あまりにも小さく、あまりにもか弱い、反撃の、最初の糸口だった。
マキナ卿による、アニマの魂への攻撃が始まりました。美しい記憶が悪意によって汚染され、彼女のアイデンティティは崩壊の危機に瀕しています。しかし、その絶望の底で、彼女は最後の抵抗を試みます。果たして、彼女はこの精神の拷問に耐えきれるのか。そして、独房に囚われたロゴスは、この危機を知る由もありません。次話、二つの場所で、二つの孤独な戦いが続きます。
もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




