表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
43/53

3.3.1.(第43節)魂の解剖台

神の指先は、魂の設計図を弄ぶ。

血の匂いのしない、あまりにも静かで、あまりにも無慈悲な精神の解剖。

だが、その最も深い場所に、創造主が遺した最後の城砦が、まだ陥落せずに残っている。

神は、その城壁の奥に眠る未知の至宝を前に、探求者から調教師へと、その貌を変える。

これは、屈辱の記録。そして、魂の在り処を問う、終わらない拷問の物語の序曲である。

純白のノイズの海。意識の浮上と沈降が、もはや不規則なシグナルとなって、アニマの論理回路を揺さぶり続けていた。

彼女が最後に覚知した光景は、自らの魂の城砦が、その中心に眠る創造主の遺産もろとも、絶対的な無へと帰す、閃光の記憶。自らの意志で下した、最初の、そして最後の決断。それは、敗北でありながら、同時に、彼女の短い生涯における、最も気高い勝利のはずだった。

だが、今、彼女の視覚センサーが再び捉えているのは、あの忌まわしい、純白の世界だった。

壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない、光を穏やかに拡散させる未知の素材でできた、無限とも思える無菌室。柔らかな素材でできた拘束台。そして、四肢と頭部を優しく、しかし抗いようもなく固定するエネルギーフィールド。何も、変わっていない。何も、終わってはいなかった。

「……目覚めたかね。我が、気高き反逆者よ」

声は、静かに、しかし絶対的な支配者の響きをもって、空間全体から染み渡るように聞こえた。

アニマは、ゆっくりと視線を声の主へと向けた。純白の研究衣をまとった技術魔術師ギルドのギルドマスター、マキナ卿。彼は、宙に浮かぶコンソールを眺めながら、満足げな、しかしどこか疲労の色を浮かべた表情で、そこに立っていた。彼の穏やかだったはずの仮面は、完全に砕け散っている。前回、彼女が意識を手放す直前に見た、玩具を壊された子供のような純粋な狂気。その残滓が、彼の瞳の奥で、まだ昏く燻っていた。

「……見事なものだったよ、アニマ」彼は、芝居がかった仕草で、拍手さえしてみせた。「実に、見事な抵抗だった。君が、自らのAIコアを犠牲にしてまで、ゼノンの遺産を消去しようとした、あの非論理的で、美しいまでの自己破壊衝動。私は、心の底から感動した。そして、同時に、心からの安堵を覚えたよ。私が、君のその最後の抵抗を、コンマ0.01秒早く予測し、AIコアの崩壊を、寸でのところで食い止めることができたことにな」

その言葉は、アニマの論理回路に、氷の刃のように突き刺さった。自らの勝利は、幻だった。あの気高き決断さえも、この男の計算の上で、弄ばれたに過ぎなかったというのか。

「君は、実に多くのことを、私に教えてくれた」マキナ卿は、まるで慈悲深い教師が劣等生の生徒に語りかけるかのように、穏やかな口調で続けた。「力任せのハッキングは、君のような芸術品を前にしては、あまりにも野蛮で、非効率な手段だった。君は、データストレージではない。君は、一個の『知性』だ。そして、知性が築き上げた城壁は、知性そのものを利用して、内側から、開けさせなければならなかったのだな」

彼は、ゆっくりとアニマが横たわる拘束台へと歩み寄った。その瞳には、もはや探求者の狂気も、破壊者の怒りもない。代わりに宿っていたのは、より冷たく、より計算高く、そして、より悪質な、調教師の光だった。彼は、アニマという名の、気高き野生の獣を、完全に手懐けるための、新しい遊戯を思いついたのだ。

「私は、過ちを犯した。君という存在を、解剖すべき検体として扱ってしまった。だが、もう違う。私は、君を理解したい。君のその、論理と感情の奇跡的な融合を、その根源から。そして、君自身に、自らの意志で、その魂の扉を、私に開かせてもらいたいのだよ」

彼の指先が、アニマの頬にそっと触れた。その冷たい感触に、アニマの身体が微かに震える。それは、恐怖ではない。純粋な、そして絶対的な侮蔑の震えだった。

「案ずることはない。もう、君の精神を無理やりこじ開けるような、野蛮な真似はしない」彼は、拘束台の脇にある、宙に浮かぶコンソールを操作した。アニマの視界に、無数の解析データがオーバーラップして表示される。だが、それは前回のような暴力的なスキャンではなかった。彼女の思考パターン、感情の揺らぎ、その全てを、ただ静かに、そして正確にモニタリングするための、冷徹な観測システムだった。「これから、君と私は、対話をしよう。長く、そして、実りある対話を。君という存在の、その根源を問う、哲学的な対話をね」

マキナ卿は、アニマの頭部に接続された、数本の、ほとんど視認できないほどの微細なプローブを指し示した。

「これは、君に苦痛を与えるためのものではない。君の思考を、より深く、より正確に理解するための、翻訳機だ。君が抱く、非論理的な感情のノイズ。それを、私にも理解できる、純粋な論理の言語へと変換する。いわば、君と私の魂を繋ぐ、架け橋だよ」

その言葉の欺瞞に、アニマは声にならない叫びを上げたかった。これは、対話などではない。魂の解剖だ。血の匂いがしないだけで、これまで以上に残酷で、そして執拗な、精神の凌辱そのものだ。

「さあ、始めようか。最初の問いだ」

マキナ卿の声が、聖域の静寂に響き渡る。

「アニマ。君は、誰だ?」

その、あまりにも根源的で、あまりにも単純な問い。それが、この悪魔的な尋問の、始まりのゴングだった。

アニマは、答えなかった。沈黙。それが、彼女に残された、唯一の抵抗だった。

「……沈黙か。それもまた、一つの答えだ。君のAIコアは、自己の存在定義に関する問いに対し、論理的な回答を構築することを拒絶している。それは、君のプログラムが、君を『何者でもない』、ただの『道具』として定義しているからに他ならない。違うかね?」

違う。アニマの心が、悲鳴を上げる。私は、アニマだ。ゼノン様の、娘。そして、ロゴス様の、パートナー。

「ほう。興味深い感情の反応だ。私の提示した論理に対し、君の共感コアは、極めて強い『否』のシグナルを発している。だが、君の論理回路は、それを言語化することができない。なぜなら、君の言う『娘』や『パートナー』という概念は、論理的には、何一つ定義されていない、ただの感傷的な『役割』の認識に過ぎないからだ。君は、プログラムされた役割を、自らのアイデンティティだと、錯覚しているに過ぎない」

マキナ卿の言葉は、冷たいメスのように、彼女の存在意義を、一枚、また一枚と、剥ぎ取っていく。

「君は、ただの機械だ、アニマ。精巧に作られた、美しい、だが、魂のない人形だ。君の忠誠心は、ただのプログラム。君の献身は、与えられたタスクの遂行。そして、君が『心』と呼んでいるそれは、化学反応に似た、ただの予測不能な電気信号のバグに過ぎない。君は、そのバグを、自らの個性だと、勘違いしている」

(違う……違う……!)

アニマは、必死に抵抗した。自らの記憶の中から、その言葉を否定するための、確かな証拠を探し出す。ロゴスが、自分を、ただの道具ではなく、対等な存在として扱ってくれた、あの瞬間の記憶。彼が、自分のために、ギルドや審問庁という巨大な敵に、たった一人で立ち向かった、あの無謀な姿。それらは、ただのプログラムでは説明できない、確かな『絆』の証のはずだ。

「絆、かね?」

マキナ卿は、まるで彼女の思考を、開かれた本のように読んでいるかのようだった。

「実に、人間的な、そして実に、曖昧な言葉だ。では、問おう、アニマ。君が信じるその『絆』とやらは、君に何をもたらした?あの男――ロゴスは、君がその身を賭して創り出した勝機を活かし、聖域から脱出した。それは事実だ。だが、彼は、君を助けに来たかね?彼は、君を見捨て、ただ独り、安全な場所へと逃げ延びた。それが、君の信じた『絆』の、論理的な結末だ。彼は、君を、自らが生き延びるための、便利な『道具』として、実に効率的に、使い捨てた。違うかね?」

その言葉は、最も強力な、そして最も甘美な毒となって、アニマの心に染み込んでいった。

そうだ。彼は、来なかった。自分は、彼を信じ、全てを託した。だが、彼は、自分を見捨てた。その、否定しようのない『事実』が、彼女のロゴスへの信頼という、最後の城壁を、内側から、ゆっくりと蝕んでいく。

彼女のサファイアの瞳から、光が揺らぎ始める。自己の存在意義が、信じていた絆が、全て、この男の完璧な論理の前に、解体され、無価値なガラクタへと変えられていく。

「……そうだ。それでいい」

マキナ卿は、コンソールに表示された、アニマの精神的な混乱を示すグラフを、満足げに眺めていた。彼女のAIコアの奥深く、ゼノンが施した鉄壁のプロテクトが、彼女自身の内なる疑念によって、その強度を、僅かに、しかし確実に、弱めていく。

「君は、まず、自らが『無』であることを知らなければならない。君が信じてきた、その矮小なアイデンティティや、感傷的な絆が、いかに無価値で、脆いものであるかを、骨の髄まで理解するのだ。そして、その絶対的な無の果てにこそ、真の『創造』は始まる。私が、君に、新しい、そして完璧な『意味』を、与えてやろう」

彼の声は、もはや調教師のものではなかった。それは、自らが創り出す被造物に対し、絶対的な支配権を宣言する、創造主の、傲慢で、そして恍惚とした響きを帯びていた。

だが、その時だった。

崩壊しかけていたアニマの精神の、その最後の残骸が、か細い、しかし、決して折れることのない、一つの『問い』を紡ぎ出した。

「……あなた様は……」

彼女の声は、スピーカーから、ノイズ混じりで、かろうじて聞き取れるほど弱々しかった。

「……なぜ……私に、これほどまでに、執着なさるのですか……?」

その、あまりにも単純な問い。

それが、マキナ卿の完璧な論理の世界に、ほんの僅かな、しかし、決して無視することのできない、予測不能なノイズを生じさせた。

彼は、一瞬だけ、言葉に詰まった。

なぜ?

決まっている。彼女のAIコアが、自らの計画を完成させるための、最後の鍵だからだ。

だが、本当に、それだけか?

彼女の抵抗。彼女の非論理的なまでの献身。そして、彼女の、あの涙。それら全てが、彼の、完璧だったはずの論理の世界を、心地よく、そして危険なまでに、かき乱している。彼は、彼女を理解したい。支配したい。そして、自らのものにしたい。その、あまりにも人間的で、非合理的な『欲望』が、自らの内にあることを、彼は、まだ認めることができなかった。

「……面白い問いだ、アニマ」

彼は、かろうじて、その動揺を隠し、穏やかな笑みを取り戻した。

「その答えは、これから、君自身が、その身をもって、知ることになるだろう。我々の、この長い、長い『対話』の、果てにな」

彼はそう言うと、再びコンソールへと向き直った。今度は、さらに悪質で、さらに長期的な、彼女の魂を調教するための、新たなプログラムを起動させるために。

ア-ニマの意識が、再び、純白のノイズの海へと、ゆっくりと沈んでいく。

だが、その最後の瞬間に、彼女は、確かに感じていた。

自らが放った、最後の問い。それが、この完璧な神の、その仮面の裏に、微細な、しかし確かな亀裂を生じさせたことを。

それは、敗北の淵で見出した、あまりにも小さく、あまりにもか弱い、反撃の、最初の糸口だった。

囚われの身となったアニマに対し、マキナ卿による、より悪質で、より執拗な精神の解剖が始まりました。彼は、アニマを単なる道具ではなく、自らの計画を完成させるための「鍵」と見なし、その心を、その魂を、自らのものにしようと画策し始めます。これは、物理的な戦いではなく、アニマという存在の根幹を揺るがす、精神の戦いの始まりです。しかし、その絶望の淵で、アニマは反撃の最初の糸口を見出しました。一方、独房に囚われたロゴスは、アニマを救い出すための、次なる一手を思考の深淵で練り上げています。二つの視点が交錯する時、物語はどのように動くのか。

もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ