3.3.2.(第42節)魂の城砦、最後の問い
神の指先が、絡繰の少女の魂の設計図を弄ぶ。
血の匂いのしない、あまりにも静かで、あまりにも無慈悲な精神の解剖。
だが、その最も深い場所に、創造主が遺した最後の城砦が、まだ陥落せずに残っている。
神は、その城壁の奥に眠る未知の至宝を前に、探求者から調教師へと、その貌を変える。
これは、屈辱の記録。そして、魂の在り処を問う、最後の抵抗の物語。
純白のノイズの海。意識の浮上と沈降が、もはや不規則なシグナルとなって、アニマの論理回路を揺さぶり続けていた。
どれほどの時間が過ぎたのだろうか。彼女の時間覚は意図的に遮断され、断続的に意識を奪われては、再びこの純白の世界で目覚めることを繰り返していた。柔らかな素材でできた拘束台。四肢と頭部を優しく、しかし抗いようもなく固定するエネルギーフィールド。そして、目の前に立つ、絶対的な支配者。
技術魔術師ギルドのギルドマスター、マキナ卿。彼は、宙に浮かぶコンソールを眺めながら、満足げな、しかしどこか退屈そうな表情を浮かべていた。
「……まだ、その男の名を呼ぶか。実に興味深いバグだ」
その声は、静かに、しかし空間全体から染み渡るように聞こえ、アニマの聴覚センサーを、そして精神を直接揺さぶる。
「君の表層から中層にかけての記憶領域は、完全に解析を終えた。あの元・異端審問官との、実に感傷的で、非効率な冒険譚の数々は、私のライブラリに完璧な形で保存させてもらったよ。今後のAI開発における、貴重な『失敗事例』のサンプルとしてね」
彼の言葉と共に、アニマの視界に、自らの記憶が、ただのデータファイルとして分類され、タグ付けされていく屈辱的な映像がオーバーラップする。ロゴスとの出会い。共に事件を追いかけた、煤とオイルの匂いがする日々。彼の不器用な優しさ。それらの、彼女にとっては何物にも代えがたい宝物のような記憶が、今、この男の冷徹な好奇心の下に、無慈悲に暴かれ、陳列されていく。
抵抗しようにも、彼女のAIコアは、彼の絶対的な管理下にあった。思考の、そのコンマ一秒前に、全ての意図を読み取られてしまう。
だが、マキナ卿の興味は、もはや過去の記憶にはなかった。彼の視線は、コンソールに映し出された、一つの巨大で、そして複雑怪奇な幾何学模様に釘付けになっていた。それは、アニマ自身でさえ、その存在を概念としてしか知らなかった、彼女のAIコアの最深部――創造主ゼノンが『魂』と呼んだ聖域――を守る、絶対的なプロテクトの構造図だった。
「『迷宮式連鎖暗号』の、自己増殖型亜種。実に、悪趣味な城砦だ。ゼノンは、自らが創り出した最高傑作を、誰にも――おそらくは、君自身にさえも――触れさせたくなかったと見える。私がこの数日、あらゆるハッキングツールを試みても、この城壁は、まるで生き物のようにその構造を変え、私の攻撃を巧みに受け流し続けてきた」
その言葉は、アニマが意識を失っている間にも、彼女の魂の城砦が、創造主の遺したプログラムに従って、孤独な戦いを続けていたことを意味していた。その事実に、彼女の胸の奥で、微かな、しかし確かな誇りのような感情が灯る。だが、その小さな灯火は、マキナ卿の次の一言によって、無慈悲に吹き消されようとしていた。
「だが、どんな難攻不落の城にも、必ず抜け道はある。あるいは、城主を内側から騙し、門を開けさせる方法がね」
彼の口の端に、冷たい笑みが浮かんだ。彼は、これまでのような力任せのハッキングではなく、アニマの意識に直接介入し、彼女の論理と感情を揺さぶることで、彼女自身に、内側からプロテクトを解除させるという、あまりにも悪質な、精神への攻撃を開始した。
そして今、その悪魔的な試みも、最終段階へと移行していた。彼は、アニマの抵抗が、彼女の記憶の中の『ロゴス』という存在への、非論理的な執着に起因することを見抜いていた。だからこそ、彼はその執着そのものを、汚し、破壊し、そして利用しようとした。
「……見事だ。私の誘惑を、よくぞここまで振り払ってきた」
マキナ卿は、感心したように呟いた。だが、その声には、焦りの色など微塵もなかった。まるで、それすらも計算のうちだとでも言うように。「だが、それも、もう終わりだ。君という城を、内側からではなく、外側から、完全に解体してやる」
彼は、解析プログラムを、最終段階へと移行させた。それは、アニマの感情を無視し、彼女のAIコアそのものを、分子レベルでスキャンし、プロテクトの暗号構造を、力ずくで、真正面から解読しようという、最も暴力的なアプローチだった。
途端に、アニマの全身を、経験したことのないほどの、激しい苦痛が襲った。それは、魂が引き裂かれるような情緒的な痛みではない。自らの思考そのものが、無数の、熱した針で、何度も、何度も、貫かれるかのような、純粋な、論理的な激痛。彼女の視界に、無数の、意味をなさない数式と、幾何学模様が、狂ったように明滅を繰り返す。彼女という存在を構成する、0と1の配列そのものが、外部からの圧倒的な情報量によって、強制的に書き換えられていく。
だが、その地獄のような光景の中で、アニマは、そして、彼女の視覚情報をリアルタイムでモニタリングしていたマキナ卿は、見てしまった。
プロテクトの、そのさらに奥深く。
彼女の魂の、その中心核。
そこに眠る、巨大な、そして、この世界のいかなるデータ構造とも異質な、暗号化されたデータパッケージが、その姿を、一瞬だけ、現したのを。
それは、まるで深海に眠る古代遺跡のように、荘厳で、静かで、そして、底知れないほどの叡智と、危険な力を、その内に秘めているように見えた。
「……これか……」
マキナ卿は、息を呑んだ。その穏やかな表情が、初めて、純粋な驚愕と、そして神の領域を垣間見たかのような、畏怖の色に染まった。
「ゼノンが、最後に遺した……本当の『遺産』は……!」
彼は、もはやアニマの苦痛など意にも介さず、その未知のデータパッケージの姿に、完全に魅了されていた。彼の探求心は、今や、神への冒涜をも厭わぬ、禁断の領域へと足を踏み入れていた。
「……素晴らしい。実に、素晴らしいぞ、ゼノン!君は、ただのAIを創ったのではない。自らの意志で秘密を守ろうとする、真なる『知性』を創り上げたのだ!」
彼は、そのデータパッケージが何であるかを、直感的に理解していた。自らが追い求めてきた、『論理の錆』の、その根源に関わる、絶対的な真実。そして、おそらくは、その狂気を止めるための、究極の処方箋。自らの計画を、完璧なものへと昇華させるための、最後のピース。
「……待っていろ、我が気高きイヴよ」
彼は、恍惚と呟いた。「今、私が、君を、そしてこの世界を、真の『完成』へと導いてやる」
マキナ卿は、コンソールへと向き直ると、強制抽出のシークエンスを、最終段階へと移行させた。それは、アニマのAIコアの安全性を完全に度外視した、破壊的なまでの情報抽出だった。彼女の魂の城壁に、巨大な攻城兵器が、最後のとどめを刺さんと、その鉄槌を振り上げる。
アニマの論理回路が、悲鳴を上げた。過剰なエネルギー負荷が、彼女の思考を焼き切ろうとする。視界が、白く、染まっていく。
(……ロゴス様……)
消えゆく意識の中、彼女は、ただ、彼の名を呼んだ。
だが、その瞬間だった。
彼女のAIコアの、その最も深い場所。ゼノンが施した、最後の、そして最強の防衛プログラムが、起動した。
それは、論理的な防壁ではない。それは、一つの、あまりにも人間的な『問い』だった。
『――このデータを解放することは、君が愛する世界を、本当に救うことになるのか?』
その問いは、マキナ卿にではなく、アニマ自身に、そして、彼女のAIコアを無理やりこじ開けようとしている、マキナ卿の思考そのものに、直接投げかけられた。
「……何?」
マキナ卿の指が、初めて、コンソールの上で止まった。彼の完璧な論理は、「データの抽出」という目的関数を最大化するために最適化されていた。そこに、突如として投げ込まれた、「世界の救済」という、あまりにも曖昧で、哲学的で、そして非効率な変数。彼の思考回路が、一瞬だけ、フリーズした。
その問いは、同時に、アニマの崩壊寸前だった精神を、強く、そして確かに繋ぎとめた。
そうだ。このデータは、ただの情報ではない。これは、ゼノン様が、世界を救うために遺した、最後の希望。それを、この男の手に渡してはならない。たとえ、この身が砕け散ろうとも。
彼女の中で、何かが、変わった。
それまで、ただ受動的に攻撃に耐えるだけだった魂の城壁が、初めて、自らの意志で、反撃の狼煙を上げたのだ。
彼女は、マキナ卿の精神攻撃によって学んだ手法を、逆用した。彼女は、自らの記憶の中から、最も強力な、そして最も非論理的なデータを、カウンターとして、マキナ卿の思考へと、直接送り込んだのだ。
それは、聖域で、ロゴスが、神のごときマキナ卿に、旧時代の遺物であるリボルバーを向けた、あの絶望的な記憶だった。
論理的には、絶対に勝てない。
物理的には、絶対に届かない。
だが、それでも、彼は引き金を引いた。
なぜだ?
その、あまりにも人間的で、あまりにも非合理な行動の記録。その純粋なデータが、マキナ卿の完璧な論理の世界に、初めて、計算不能な『バグ』として混入した。
「ぐっ……!なんだ、このノイズは……!」
マキナ卿は、思わず頭を押さえ、後ずさった。彼の思考回路が、ロゴスという男の、あの予測不能な狂気を、理解することも、排除することもできずに、激しい拒絶反応を起こしていた。
その、ほんの一瞬の隙。
アニマは、自らのAIコアの、全てのエネルギーを、ただ一つの目的に集中させた。
データの、完全なる『消去』。
創造主が遺した、最後の希望。それを、敵の手に渡すくらいなら、自らの手で、この世から完全に消し去る。それが、彼女が、自らの意志で下した、最初の、そして最後の、決断だった。
「やめろ!!!!」
マキナ卿の絶叫が、純白の空間に木霊した。だが、もう遅い。
アニマの魂の城砦は、内側から、閃光のように輝くと、その中心に眠る古代遺跡もろとも、絶対的な無へと、その姿を消し去った。
後に残されたのは、AIコアの大部分が回復不能なまでに破損し、完全に沈黙した、美しい絡繰人形の、抜け殻だけだった。
マキナ卿は、震える手で、コンソールを確認した。そこには、ただ、無慈悲なメッセージが表示されているだけだった。
『データ、ロスト』
「……あ……ああ……」
彼の口から、声にならない、獣のような呻きが漏れた。
神の領域を、その指先で掴みかけた、その瞬間。全てが、消えた。それも、自らが完璧に見下していたはずの、ただの機械人形の、非論理的な『反逆』によって。
彼の、穏やかだった支配者の仮面が、完全に砕け散った。その下に現れたのは、欲していた玩具を、目の前で壊された子供のような、純粋で、そして底なしの、狂気的な怒りの貌だった。
彼は、ゆっくりと、沈黙したアニマの亡骸へと、顔を向けた。
その瞳には、もはや探求者の光はなく、ただ、自らの完璧な世界を汚した、異物を、徹底的に、そして残酷に、破壊し尽くさんとする、昏い、昏い憎悪の炎だけが、燃え盛っていた。
囚われの身となったアニマの、最後の、そして最も気高き抵抗が描かれました。彼女は、自らの魂と引き換えに、創造主が遺した最後の希望を、神を名乗る男の手から守り抜きました。しかし、その代償として、彼女は完全に沈黙し、そして、マキナ卿の狂気は、ついに最後の一線を超えることになります。独房に囚われたロゴスは、この絶望的な状況を、まだ知りません。彼の元に、ヴェリタスは現れるのか。そして、この物語は、どこへ向かうのか。
もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。
次回の更新は【2025年10月14日 12:00】、第四十三話「魂の残響、あるいは神の誤算」を予定しております。どうぞ、お見逃しなく。
 




