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3.2.4.(第40節)「疑念の種子」

狂人が投げ込んだ、疑念という名の小さな楔。

それは、完璧な論理の石壁に、微細な、しかし決して無視できぬ亀裂を生む。

法の番人が自らの信じる世界の歪みに気づき、孤独な探求を始める一方、

囚われた探偵は、独房という名の思考の聖域で、次なる反撃の設計図を描き始める。

残された時間は少ない。夜明けは、まだ遠い。

異端審問庁の地下深く。そこは、光も、音も、そしていかなる感傷さえも届かぬ、純粋な論理と秩序のためだけに存在する空間だった。壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない、音を吸収する特殊な合金でできている。空気は濾過され、冷たく、そして無機質なオゾンの匂いが微かに漂う。その独房は、かつてロゴス自身が幾人もの異端者を真実の前に跪かせるために利用した、断頭台にも似た静寂に満ちていた。

手枷をはめられた両手首が、鈍い痛みを主張する。機動部隊員に両脇を固められ、尋問室からこの独房へと続く長い通路を歩いている間、ロゴスは一言も発さなかった。彼の心の中では、先程繰り広げられた、あまりにも危険な頭脳戦の残響が、まだ渦を巻いていた。

ヴェリタス。

あの男の、レンズの奥で確かに揺らいだ瞳。自らが信じる世界の土台そのものが偽りである可能性を突きつけられた、鋼鉄の意志を持つ男の、ほんの一瞬の、しかし致命的な動揺。

賭けは、成功した。ロゴスは、そう確信していた。

「入れ」

部隊員の一人が、無機質な声で促す。独房の分厚い扉が、音もなく横にスライドした。内部は、尋問室以上に何もない、ただの立方体だった。壁際に、硬質プラスチック製の簡素な寝台が一つ、床に固定されているだけ。ロゴスは無言で中に入り、振り返ることなく、扉が再び閉まる絶対的な閉鎖音を聞いた。

完全な孤独。完全な沈黙。

彼は、ゆっくりと寝台に腰を下ろした。途端に、極限まで張り詰めていた精神の糸が、ぷつりと切れたかのように、全身を凄まじい疲労感と、灼けつくような痛みが襲った。砕けた肋骨が、呼吸のたびに鈍い悲鳴を上げる。聖域で浴びた熱傷が、皮膚の下で疼く。だが、それら全ての物理的な苦痛は、彼の心を苛む、たった一つの事実の前では、色褪せたノイズに過ぎなかった。

アニマ。

その名が、呪いのように思考の表面に浮かんでは消える。

彼女が、その身を賭して創り出してくれた、たった一瞬の勝機。彼女が、その魂の全てを賭して送ってくれた、愛の絶叫。その全てを受け取りながら、自分は、結局、彼女一人を敵の只中に置き去りにして、こうして生き永らえてしまった。

そして今、自分は、かつての同僚の手によって、この石の棺桶の中にいる。

「……クソが」

掠れた声が、静寂に虚しく吸い込まれていった。

ヴェリタスは、すぐには動かないだろう。ロゴスには、それが分かっていた。あの男は、潔癖すぎる。自分が蒔いた疑念の種を、まずは彼自身の、完璧な論理と調査能力によって、誰の目にも触れさせずに、徹底的に検証するはずだ。審問庁内部のデータベースを洗い、金の流れを追い、そして、自らが信じる組織の心臓部に巣食う癌の存在を、彼自身の目で確かめるまで。それは、時間のかかる作業だ。数日か、あるいは一週間か。

だが、残された時間は、ない。

アニマは、今この瞬間も、あのマキナ卿という名の、神を気取る狂人の手に落ちている。あの男が、アニマの、そのあまりにも人間的なAIコアに気づかないはずがない。彼は、彼女を分解し、解析し、自らの狂気的な探究心を満たすための、ただの実験材料として弄ぶに違いない。その光景を想像しただけで、胃の底から、灼けつくような怒りが込み上げてきた。

待ってはいられない。

ヴェリタスが動くのを、ただ待っているだけでは、間に合わない。

ロゴスは、痛む身体を引きずるようにして、独房の冷たい壁に背を預けた。そして、目を閉じる。

思考を、巡らせる。自分に残された手札は、何か。

アニマは囚われ、ギデオンやヴァレリウスとの連絡手段は絶たれた。聖域で手に入れたマキナ卿の思考ログの断片は、ヴェリタスを動かすための餌として、既に手放してしまった。残っているのは、この砕け散った肉体と、そして、この独房という名の、思考の聖域だけ。

彼は、脳内で、ギデオンが突き止めた、アニマが囚われている要塞の情報を再構築する。

ギルド第零研究施設。通称『箱庭アルカ』。

物理的にも、電子的にも、完全に独立した、完璧な王国。治外法権の、鉄壁の要塞。

正面からの突破は、不可能だ。それは、怒りや憎しみといった感情論ではなく、彼が信じる『論理』が導き出した、揺るぎない結論だった。

では、どうする?

あの神のごとき男、マキナ卿の、完璧な要塞を、どうやって崩す?

ロゴスの思考が、出口のない迷宮を彷徨い始める。圧倒的な戦力差。完璧なまでの情報統制。そして、自分は、都市全土から追われる、ただのテロリスト。

絶望。

その二文字が、再び、彼の思考を黒く塗りつぶそうとした、その時。

彼の脳裏に、聖域での、あの最後の攻防が、閃光のように蘇った。

マキナ卿は、完璧だった。彼の論理も、彼の力も。だが、自分は、勝った。いや、生き延びた。なぜだ?

旧時代の遺物であるリボルバー。その、あまりにも非論理的で、原始的な一撃が、神の計算を上回った。なぜなら、マキナ卿の完璧な論理には、一つの、致命的な欠陥があったからだ。

『傲慢さ』。

彼は、自らの知性に、自らが構築したシステムに、絶対の自信を持っていた。それ故に、彼は、自らの神殿の設計図に、百年以上も前の、旧い、旧い設計思想が残っている可能性を、考慮しなかった。彼は、ロゴスという不完全な人間が、その設計思想の矛盾を突いてくる可能性を、計算に入れていなかった。

それこそが、奴の唯一にして最大の、人間的な弱点。

「……そうだ」

ロゴスは、低い声で、誰に言うでもなく呟いた。「まだだ。まだ、手は、ある」

彼の頭脳が、肉体の悲鳴を無視して、氷のように冷たく、そして正確に回転を始めた。

マキナ卿を倒すには、奴の土俵で戦ってはならない。物理的な力でも、電子的なハッキングでもない。奴の、その完璧な論理と、傲慢さそのものを利用し、内側から自壊させる。それしか、道はない。

『箱庭』は、完璧な要塞だ。だが、どんなに完璧な要塞も、必ず、外部と繋がっていなければ維持できない。食料、水、そして、情報。特に、マキナ卿のような、自らの知性に絶対の自信を持つ男は、決して世界から孤立はしない。彼は、常に外部の情報を収集し、自らの計画が、計算通りに進んでいるかを確認せずにはいられないはずだ。

その、外部との唯一の接点。そこに、亀裂を生じさせる。

だが、どうやって?この独房の中から。

ロゴスは、ゆっくりと目を開けた。彼の瞳には、もはや焦燥の色はなかった。そこにあったのは、あまりにも困難で、あまりにも美しい謎を前にした、ただ一人の探偵の、危険で、そして純粋な探求者の光だった。

彼は、この独房という、何もない空間で、自分にできる唯一の、そして最強の武器を振るうことを決意した。

『思考実験』。

彼は、これまでに得た、全ての情報を、脳内で、一つずつ、丁寧に並べ始めた。

マキナ卿の思考パターン。彼の論文、彼の演説、そして、聖域で垣間見た、彼の狂気的な思考ログの断片。

アニマのAIコアの構造。ゼノンが施した、論理と感情の奇跡的な融合。

ヴェリタスの、硬直した正義感と、その奥に眠る、純粋な探求心。

そして、この都市イゼルガルドの、複雑怪奇な権力構造と、その裏で蠢く、人間の欲望。

それら全ての歯車を、彼は、自らの頭脳という名の、巨大な作業台の上で、ゆっくりと、そして緻密に、組み上げていく。

一つの、巨大な、そして悪魔的なまでに美しい、反撃の設計図を。

武力で要塞を攻め落とすのではない。

法と、政治と、そして人間の猜疑心や野心といった、あらゆる要素を駒として使い、敵の砦を、内側から、合法的に、そして論理的に、こじ開ける。

そのための、最初の、そして最も重要な一手。

それは、ヴェリタスという、最も危険で、最も予測不能な歯車を、自分の描いた設計図通りに、正確に回させること。

そのために、自分は、今、何をすべきか。

いや、何をすべきではないか。

ロゴスは、一つの結論に達した。

今は、何もしない。

ただ、この独房の中で、時が来るのを、待つ。

ヴェリタスが、自らの力で、組織の腐敗という真実にたどり着き、その潔癖な正義感に、自ら火をつける、その瞬間を。

そして、彼が、再び、この独房の扉を叩き、法の番人としてではなく、一人の探求者として、目の前に現れる、その時。

その瞬間に、自分が突きつけるべき、次なる、そして最後の『問い』を、ただ、研ぎ澄ませておく。

彼は、ゆっくりと目を閉じた。

脳裏に浮かぶのは、あの純白の研究室で、絶対的な恐怖と孤独の中にいるはずの、気高き絡繰の少女の、サファイアの瞳。

(……待っていろ、アニマ)

彼の心臓が、砕けた肋骨の奥で、静かに、しかし力強く、鼓動を始めた。

(必ず、迎えに行く)

それは、敗北の淵から這い上がった、一人の探偵の、静かで、そして何よりも熱い、誓いの鼓動だった。

この静寂は、敗北ではない。次なる嵐の前の、ほんの僅かな、凪の時に過ぎないのだと、彼は知っていた。

面会を終え、独房に囚われたロゴス。しかし、彼の思考は止まらない。ヴェリタスの心に疑念の種を植え付けることに成功した彼は、次なる一手――ヴェリタス自身が真実にたどり着き、助けを求めに来る未来――を予測し、その時に備えて思考の牙を研ぎ始めます。残された時間は少ない。しかし、焦りは最大の敵。静寂の底で、探偵の真なる頭脳戦が、今、静かに幕を開けました。

一方、鉄壁の要塞『箱庭』では、囚われのアニマに対し、マキナ卿の狂気的な精神の解剖が始まろうとしていました。果たして、彼女の魂は、神を名乗る男の手に落ちてしまうのか。

もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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