3.2.1.(第37節)「法の番人、探求の始まり」
法の番人が信じるは、揺るぎなき秩序の天秤。
だが、その天秤に、友を名乗るテロリストから、一枚の挑戦状が投げ込まれる。
それは、狂人の戯言か、それとも、自らが守る世界の土台そのものを揺るがす、真実の亀裂か。
無視できない過去の残響を前に、法の番人は初めて、自らが守るべき法の庭に植えられた、見えざる毒の存在を疑い始める。
これは、鋼鉄の意志を持つ男が、その正義の原点を問い直す、孤独な探求の物語の序曲である。
異端審問庁の最上階。星付き異端審問官ヴェリタスの執務室は、彼自身の精神を具現化したかのような、絶対的な秩序の空間だった。床に塵一つなく、机の上に置かれた書類は角度まで完璧に揃えられている。壁一面を埋め尽くす法典や過去の事件記録もまた、背表紙の色と高さによって寸分の狂いもなく分類されていた。窓の外に広がるイゼルガルドの雑然とした街並みさえも、この部屋の防音ガラスを通せば、ただの無音のジオラマのように見える。ここだけが、混沌とした世界から切り離された、純粋な論理と思考のための聖域だった。
だが、この数日、その聖域は静かな嵐に見舞われていた。
ギルド中央支部で発生した、前代未聞の騒乱。公式見解は、簡潔で、そして明瞭だった。最重要指名手配犯である元審問官ロゴスが、ギルドの心臓部である『始原の聖域』に不法侵入。その結果、ギルドの最新鋭防衛AIが暴走し、駆けつけた審問庁の部隊にも多大な被害が出た。マキナ卿は、その身を挺してテロリストの計画を阻止しようとした、都市の英雄。そしてロゴスは、混乱に乗じて逃亡した、都市史上最悪のテロリスト。完璧な報告書。完璧な物語。ヴェリタスは、その公式見解を自ら承認し、部下たちにロゴスの追跡を厳命しながらも、心の奥底で、どうしても消し去ることのできない、微細なノイズに苛まれていた。
『ソフィア師を二度殺すことになるんだぞ、ヴェリタス!』
聖域が血とプラズマの混沌に染まる中、最後に聞いた、あの男の悲痛な叫び。それは、単なるテロリストの捨て台詞ではなかった。そこには、ヴェリタス自身の、最も深く、そして最も触れられたくない過去の傷に直接響く、奇妙なまでの真実味があった。彼はそれを、師を失った悲しみと、かつての友を断罪しなければならない自らの職務の重圧が見せる、精神的な幻聴として処理しようと努めていた。秩序を守るため。それが、彼の全てだったからだ。
「失礼します、ヴェリタス様」
秘書のノックが、彼の思考を中断させた。入室した秘書は、毎朝の習慣である、銀のトレイに乗せられた一杯のコーヒーを、彼の机に静かに置いた。特定の納入業者から、毎朝決まった時刻に届けられる、最高級のコーヒー豆。その完璧な香りと味わいだけが、この数日、彼の張り詰めた神経を唯一弛緩させてくれる、ささやかな儀式だった。
「ご苦労」
ヴェリタスは短く応じると、カップを手に取り、その完璧な香りを吸い込んだ。その時、彼の視線が、秘書が同時に置いていった、郵便物の山の中に、一つの異質な存在を捉えた。他の整然とした封筒とは明らかに違う、下層街の再生紙を使った、粗末で、そしてどこか煤けた羊皮紙の封筒。宛名も、差出人もない。ただ、彼の名前だけが、見慣れた、しかし思い出したくもない、無骨な筆跡で記されていた。
(……ロゴス……!)
彼は、即座にその筆跡の主を理解した。都市全土から追われるテロリストが、一体どうやって、この審問庁の心臓部にまで、私信を届かせたのか。侮辱か、脅迫か、あるいは、狂人の戯言か。彼は、他の誰にも見られる前に、その手紙を掴むと、机の隅に置かれた小型の焼却炉へと、躊躇なく捨て去ろうとした。
だが、その指先が、羊皮紙のざらついた感触に触れた瞬間、彼の脳裏に、遠い過去の記憶が蘇った。候補生時代、同じ教室で、同じ法典を学び、そして、同じ師の言葉に耳を傾けた日々。あの頃のロゴスは、規則を無視し、常に自分の直感だけを信じる、組織の異分子だった。だが、その瞳には、誰よりも純粋な、真実への渇望が宿っていた。その瞳を、師ソフィアは、誰よりも愛し、そして危惧していた。
ヴェリタスは、焼却炉へと伸ばした手を、ゆっくりと下ろした。
これは、狂人の戯言を確かめるためではない。これは、テロリストの脅迫に屈するのでもない。これは、自らが信じる完璧な秩序の中に、ほんの僅かでも、見過ごしたノイズが存在しないかを、最終的に確認するための、ただの業務だ。彼は、自らにそう言い聞かせると、鋭い切れ味のペーパーナイフで、その無骨な封筒を、静かに切り裂いた。
中から現れたのは、一枚の、折り畳まれた羊皮紙だけだった。そこに記されていた言葉は、あまりにも少なく、しかし、ヴェリタスの完璧な論理の世界を、その根底から揺るがすには、十分すぎるほどの破壊力を持っていた。
『第四区画の思考機関暴走事件。公式記録の時刻に、3分の偽りあり。』
(……馬鹿馬鹿しい。あの事件の報告書は、私が自ら検証し、承認したものだ。物理法則に基づいた、完璧な結論だったはずだ)
彼の思考が、即座にその言葉を否定する。だが、手紙は、さらに彼の心の深淵を抉る、次の一文を突きつけてきた。
『師ソフィアの死の現場に残されていた、片足を引きずる男の足跡。』
その言葉を目にした瞬間、ヴェリタスの心臓が、まるで氷の手に掴まれたかのように、冷たく収縮した。
その情報。その、あまりにも特異で、説明不能な、たった一つの物的証拠。それは、ソフィア師の事件の捜査資料の中でも、あまりの異質さ故に、最終的な公式報告書からは意図的に削除され、最高機密のアーカイブの奥深くに封印された、彼と、当時の最高幹部の、ほんの数人しか知らないはずの、呪われた事実だった。なぜ、社会から完全に追放され、いかなる公式なデータベースにもアクセス権を持たないはずのロゴスが、それを知っている?
彼の呼吸が、僅かに乱れる。手紙は、まるで彼の動揺を見透かしたかのように、最後の、そして最も傲慢な一撃を放ってきた。
『二つの事件を繋ぐ、最後の歯車が、私の手の中にある。』
『真実を求めるならば、法の番人としてではなく、ただ一人の探求者として、指定の場所へ来い』
罠だ。これは、間違いなく、罠だ。自分をおびき出し、人質にするか、あるいは殺害するための、あまりにも稚拙で、見え透いた罠。彼は、衝動的に、その手紙を強く握り潰した。羊皮紙が、彼の汗ばんだ手の中で、悲鳴のような音を立てた。これは、狂人の戯言だ。無視しろ。焼却しろ。そして、全部隊に、ロゴスという名のノイズを、この世界から完全に消し去るよう、改めて厳命しろ。それが、法の番人としての、唯一の正しい選択だ。
だが。
だが、彼の魂の、最も深い場所にある『探求心』という名の、呪われた歯車が、軋みを上げて回転を始めてしまっていた。
『片足を引きずる男の足跡』。
なぜ、ロゴスがそれを知っている?
ヴェリタスは、自らの疑念を、自らの手で、完璧に、そして論理的に殺すために、行動を開始した。彼は、執務室の扉に、内側から最高レベルのロックをかけた。外部との全ての通信回線を物理的に遮断する。そして、自らの執務机の、隠されたコンソールから、異端審問庁の、全ての記録が眠る、最も深層にあるオリジナル・データアーカイブへと、自らの星付きの権限を使って、直接アクセスした。
まずは、第四区画の事件。ロゴスが指摘した『3分の偽り』を、完璧に論破してやる。彼は、思考機関の、一切の改竄が加えられていないはずの、オリジナルのオペレーションログを要求した。
だが、彼の目の前のスクリーンに表示されたのは、無機質な、そしてありえないはずのメッセージだった。
『アクセス拒否。当該データへのアクセスは、最高情報管理官の特別許可が必要です』
「……何?」
ヴェリタスの声が、静まり返った執務室に虚しく響いた。なぜだ?ただの事故記録の、オリジナルデータに、なぜ、自分ですら閲覧できないほどの、最高レベルのセキュリティロックがかけられている?不審に思いながらも、彼は思考を切り替えた。
ならば、次は、ソフィア師の事件だ。あの忌まわしい記憶を、自ら掘り起こすのは、胸を抉られるような苦痛を伴う。だが、確かめなければならない。彼は、記憶を頼りに、あの『片足を引きずる男の足跡』に関する、現場鑑識班が提出した、初期報告のオリジナルデータを、検索した。
ファイルは、存在した。彼の心臓が、わずかに高鳴る。彼は、ファイルを開くためのコマンドを入力した。
だが、スクリーンに表示されたのは、鑑識班が撮影したはずの、鮮明な現場写真ではなかった。そこに表示されていたのは、ただ、一行だけの、冷たいメッセージ。
『エラー:指定されたデータは破損しています』
ヴェリタスは、椅子に深く、そして力なく、身を沈めた。
背筋を、氷のような、絶対的な悪寒が走り抜けた。
ロゴスの言葉は、戯言ではなかった。
偶然ではない。二つの、全く別の事件の、最も核心に触れる、最も不都合なデータ。その両方に、完璧なまでに、手が加えられている。それも、この異端審問庁の、内部の人間によって。
彼は、ゆっくりと、握り潰していたロゴスの手紙を、机の上に広げた。その皺だらけの羊皮紙は、もはや狂人の戯言などではなかった。それは、自らが命を懸けて守ってきた、完璧なはずの世界の、その土台そのものに、巨大な亀裂が走っていることを告げる、唯一の、そして絶対的な預言書と化していた。
手紙の最後には、密会の場所を示す、簡単な、しかし彼にしか解けない、かつて二人が師から教わった、古い暗号が記されていた。
ヴェリタスは、ゆっくりと立ち上がった。そして、窓の外に広がる、無音のジオラマのようなイゼルガルドの街並みを、初めて、全く違う目で見た。あの雑然とした混沌の中に、真実があるのかもしれない。そして、自らがいる、この完璧な秩序の聖域こそが、巨大な嘘で塗り固められた、壮麗な偽りの城だったのかもしれない。
彼の瞳から、法の番人としての、揺るぎない確信の光が、静かに消えていた。
代わりに宿ったのは、自らが信じる世界の骨格そのものが、偽りであった可能性に直面した、ただ一人の孤独な『探求者』の、暗く、そして何よりも熱い、決意の光だった。
彼は、壁に掛けられた純白の制服ではなく、クローゼットの奥に仕舞い込んでいた、街に溶け込むための、地味な黒の外套を、その手に取った。
法の番人の一日は、終わった。
そして、一人の探求者の、長い、長い夜が、今、始まろうとしていた。
法の番人ヴェリタスの心に、ついに疑念の種が蒔かれました。ロゴスが仕掛けた知的な挑戦状は、彼の潔癖な正義感を揺さぶり、自らが所属する組織の闇へと、その目を向けさせ始めます。二人の好敵手の関係は、ここから新たな局面へと突入します。
一方、鉄壁の要塞『箱庭』では、囚われのアニマに対し、マキナ卿の狂気的な精神の解剖が始まろうとしていました。果たして、彼女の魂は、神を名乗る男の手に落ちてしまうのか。
もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




