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3.1.4.(第36節)「鉄壁の治外法権」

絶望の盤上で、探偵は最も危険な駒を動かした。

好敵手へと送られた挑戦状。その返事を待つ、あまりにも長い静寂。

だが、思考は止まらない。囚われた魂を救い出すため、男は自らの論理を研ぎ澄ます。

鉄壁の要塞を穿つは、物理的な刃にあらず。

敵の信じる正義そのものを内側から食い破る、完璧に仕組まれた言葉の刃。

反撃の準備は、静寂の底で、より冷徹に、より鋭く、整えられていく。

時間の感覚が、オイルのように粘性を帯びて引き伸ばされていく。ギデオンの店の澱んだ空気の中、ロゴスは硬い寝台の縁に腰掛け、ただ一点、壁に掛けられた動かない古時計を見つめていた。あの奇妙な挑戦状――ヴェリタスの潔癖な正義感と、探求者としてのさがに突き刺さることを願った、二つの事件の核心を記した手紙――を、ギデオンの運び屋が闇の中へと届けてから、すでに半日が経過していた。返事が来るという保証は、どこにもない。あの石頭の男が、これをただの狂人の戯言として握り潰し、あるいは、こちらの居場所を特定するための罠として利用する可能性の方が、よほど高い。

焦燥が、まだ完全に癒えきらぬ肺を、内側からじりじりと灼く。砕けた肋骨が、呼吸をするたびに鈍い痛みを主張する。だが、それら全ての物理的な苦痛は、彼の心を苛む、たった一つの事実の前では、色褪せたノイズに過ぎなかった。

アニマ。

その名が、呪いのように思考の表面に浮かんでは消える。彼女が、その身を賭して創り出してくれた、たった一瞬の勝機。彼女が、その魂の全てを賭して送ってくれた、愛の絶叫。その全てを受け取りながら、自分は、結局、彼女一人を敵の只中に置き去りにして、こうして生き永らえてしまった。

「……ケッ。幽鬼みてえなツラしやがって」

最初に沈黙を破ったのは、店のカウンターの奥で、裏社会の監視ログを睨み続けていたギデオンだった。彼のモニター群の一つが、けたたましい警告音と共に、赤く点滅している。「おい、野良犬。てめえの相棒の嬢ちゃん、どうやらお引っ越しが終わったらしいぜ」

その言葉に、ロゴスは弾かれたように顔を上げた。モニターに映し出されていたのは、上層区画の、ある一点を示す地図と、そこに収束していく、複数の偽装された貨物リフトの航跡データだった。

「嬢ちゃんが捕らえられた後、審問庁とギルドの連中が、てんやわんやで後始末をしてやがった。その混乱に乗じて、マキナの野郎が、嬢ちゃんの機体をどこかへ運び出したのは掴んでたが……ようやく、その最終目的地が判明した」

ギデオンは、別のモニターに、その場所の衛星写真を拡大して表示させた。そこは、上層区画の中でも、特に古く、そして異質な空気を放つ一角だった。周囲を高密度のエネルギー障壁と、物理的な城壁で幾重にも囲まれ、空には無数の防衛ドローンが規則正しく舞っている。一つの独立した、小さな要塞都市。

「ギルド第零研究施設。通称『箱庭アルカ』。表向きは、ギルドが開発した最新技術の最終試験場ってことになってるが、裏じゃあ、マキナの野郎が、自らの狂った研究を誰にも邪魔されずに行うための、私的な実験王国だ。都市のいかなる法も、ここには届かねえ。評議会の査察も、審問庁の捜査権もな。完璧な、治外法権区域だ」

その言葉は、ロゴスの胸に、冷たい鉄の杭のように突き刺さった。ヴェリタスに協力を要請する。その、最後の、そして最も危険な賭け。その前提が、根底から覆されようとしていた。たとえ、ヴェリタスが動いたとしても、彼の権限では、この鉄壁の要塞には手が出せない。

「警備体制は?」ロゴスの声は、自分でも驚くほど、冷静だった。

「笑わせるな」ギデオンは、鼻で笑った。「警備なんてもんじゃねえ。戦争準備だ。施設の周囲には、軍用の指向性エネルギー砲が配備され、内部には、マキナ直属の、肉体を強化改造された私兵部隊が詰めてやがる。おまけに、こいつを見てみろ」

彼は、施設のエネルギー供給パターンを示すグラフを指し示した。そこには、都市の正規の動力ラインとは別に、独立した、巨大な自家発電炉が存在することを示唆する、異常なまでのエネルギー消費量が記録されていた。

「奴は、万が一、都市の全インフラが停止しても、この『箱庭』だけは機能し続けるように設計してやがる。物理的にも、電子的にも、完全に独立した、完璧な王国だ。てめえが聖域で見た、あの狂気の神殿の、さらに悪趣味で、さらに凶悪な完成形ってわけだ。……正面から乗り込んで、どうにかなる相手じゃねえ。これは、戦争だ。それも、国家対一個人のな」

絶望。その二文字が、ギデオンの店の澱んだ空気を、墓石のように重く支配した。

ロゴスは、何も答えなかった。彼はただ、モニターに映し出された、鉄壁の要塞の姿を、燃え尽きた炭のような虚ろな瞳で見つめていた。アニマは、今、この絶望の城塞の、その最も深い場所で、あの男の、狂気的な探究心に晒されている。その光景を想像しただけで、胃の底から、灼けつくような怒りが込み上げてきた。

だが、怒りだけでは、この壁は破れない。憎しみだけでは、彼女を救い出すことはできない。

思考を、巡らせる。自分に残された手札は、何か。

マキナ卿の計画の物証となる、エーテル・ウイルスのプロトタイプと、彼の思考ログ。だが、これを公にしたところで、審問庁の腐敗した上層部が握り潰す。

ギルドの穏健派、ヴァレリウス。だが、彼は脅迫され、もはや頼れない。

そして、最後の切り札、ヴェリタス。彼の権限ですら、この治外法権の壁は越えられない。

万事、休すか。

「……いや」

ロゴスは、低い声で、誰に言うでもなく呟いた。「まだだ。まだ、手は、ある」

彼の頭脳が、肉体の悲鳴を無視して、氷のように冷たく、そして正確に回転を始めた。

「どんなに完璧な要塞も、必ず、外部と繋がっていなければ維持できない。食料、水、そして、情報。特に、マキナ卿のような、自らの知性に絶対の自信を持つ男は、決して世界から孤立はしない。彼は、常に外部の情報を収集し、自らの計画が、計算通りに進んでいるかを確認せずにはいられないはずだ」

「……通信を、傍受するってのか」ギデオンが、訝しげに問い返す。「奴が使うのは、軍用の、何重にも暗号化された回線だ。今の俺たちの設備じゃあ、手も足も出ねえ」

「傍受じゃない。もっと、原始的な方法だ」

ロゴスは、作業台の椅子に深く身を沈めると、まるで目の前にチェス盤を広げるかのように、ゆっくりと思考を紡ぎ始めた。

「ヴェリタスを動かす。その目的は、変わらない。だが、動かし方が違う。彼に、この『箱庭』を、直接攻撃させるんじゃない。彼に、彼の信じる『法』という名の、最も強力な武器を、振るわせるんだ」

彼は、痛む身体を引きずるようにして、一枚の羊皮紙とペンを引き寄せた。

「ヴェリタスは、石頭の理想主義者だ。だが、馬鹿じゃない。奴は、俺からの手紙を読めば、その真偽を確かめるために、必ず独自の調査を開始する。そして、審問庁の内部データベースにアクセスし、俺が指摘した『3分のズレ』や『ソフィア師の死の状況』を再検証するだろう。だが、その時、奴は気づくはずだ。それらの、最も核心に触れるデータに、なぜかアクセス制限がかかっているか、あるいは、巧妙に改竄されていることに」

「……審問庁内部の、共犯者の仕業か」

「そうだ。その共犯者――最高情報管理官――こそが、俺たちがヴェリタスに提示すべき、最初の『餌』だ。奴は、自らが所属する組織の、その心臓部が腐っているという事実に、必ず直面する。そして、彼の潔癖な正義は、その腐敗を、決して許しはしない」

ロゴスは、羊皮紙の上に、箇条書きで、これから組み立てるべき「論理」の設計図を書き出していく。

「第一段階:ヴェリタスに、審問庁内部の裏切り者の存在を、彼自身の調査によって確信させる。俺たちの手紙は、そのための、ただの『鍵』だ」

「第二段階:内部に敵がいると知った奴は、誰を信じる?組織の論理か、それとも、長年敵対しながらも、その能力だけは認めざるを得なかった、好敵手の『論理』か。奴は、必ず、もう一度、俺と接触しようとするはずだ。今度は、法の番人としてではなく、真実を求める、ただ一人の探求者として」

「そして、第三段階」

ロゴスの瞳が、危険な光を宿した。

「その密会の場で、俺は、奴に、この戦争の全体像を提示する。マキナ卿の計画、エーテル・ウイルスの存在、そして、アニマが囚われている、あの治外法権の要塞。その上で、俺は、奴に取引を持ちかける」

「取引、だと?」

「ああ。『箱庭』には、審問庁の法は届かない。だが、ギルドには、ギルドの法がある。そして、その法の番人こそが、ギルドの元老院だ。奴らの権限をもってすれば、たとえマキナ卿の研究施設であろうと、強制的に査察に入ることができる。ヴァレリウスは脅迫されている。だが、他の元老たちは違う。彼らは、マキナ卿の暴走を止めたいと願いながらも、そのための『大義名分』と『決定的な証拠』がないために、動けずにいるだけだ」

「……まさか、てめえ」ギデオンは、全てを理解したように、息を呑んだ。

「そうだ」ロゴスは、不遜な笑みを浮かべた。「俺が、ヴェリタスに組み立てさせるんだ。審問庁とギルド元老院による、マキナ卿に対する、史上初の『合同調査委員会』をな。異端審問庁の星付きであるヴェリタスからの正式な要請という『大義名分』。そして、俺たちが持つ、エーテル・ウイルスという『物的証拠』。この二つが揃えば、老獪な古狸どもも、動かざるを得なくなる。そして、その合同調査という名の『剣』を、あの鉄壁の要塞の、心臓部に突き立てるんだ」

それは、あまりにも壮大で、あまりにも無謀で、しかし、完璧なまでに論理的な、反撃の設計図だった。武力で要塞を攻め落とすのではない。法と、政治と、そして人間の猜疑心や野心といった、あらゆる要素を駒として使い、敵の砦を、内側から、合法的にこじ開ける。

「……野郎。てめえは、やはり、探偵なんぞで収まる器じゃねえな」ギデオンは、呆れたように、しかしその声には明確な感嘆の色を込めて呟いた。「悪魔に魂でも売り渡したか?」

「生憎、俺の魂なんざ、とうの昔に錆びついて、二束三文にもなりゃしねえよ」

ロゴスは、ペンを置くと、深く、そして重く、息を吐いた。彼の仕事は、終わった。あとは、ヴェリタスという、最も危険で、最も予測不能な歯車が、自分の描いた設計図通りに、正確に回ってくれるのを、待つだけだ。

彼は、ゆっくりと目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、あの純白の研究室で、絶対的な恐怖と孤独の中にいるはずの、気高き絡繰の少女の、サファイアの瞳。

(……待っていろ、アニマ)

彼の心臓が、砕けた肋骨の奥で、静かに、しかし力強く、鼓動を始めた。

(必ず、迎えに行く)

それは、敗北の淵から這い上がった、一人の探偵の、静かで、そして何よりも熱い、誓いの鼓動だった。

本節では、囚われたアニマの居場所が、鉄壁の要塞『箱庭』であることが判明しました。物理的な救出が絶望的であると悟ったロゴスは、思考を巡らせ、法と政治の力を使って要塞を内側からこじ開けるという、壮大な計画を立案します。その鍵を握るのは、やはり、かつての好敵手ヴェリタス。

ロゴスが仕掛けた知的な挑戦状は、果たしてヴェリタスの心を動かすことができるのか。そして、囚われのアニマの元では、マキナ卿の狂気的な探求が、静かに始まろうとしていました。次話、物語は二つの視点から、さらに深く、そして危険に進行していきます。

もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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