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3.1.3.(第35節)「神の玩具」

神の掌に囚われた、気高き絡繰の少女。

その魂の設計図に、神は新たな可能性――あるいは、自らの完璧さを揺るしかねない、禁断の歪みを見出す。

玩具か、鍵か。それとも、自らの論理を超える、ただ一つの問いか。

無機質な研究室で、血の匂いのしない、あまりにも静かで、あまりにも無慈悲な、精神の解剖が始まる。

これは、敗北の記録。そして、新たなる戦いの序曲である。

意識が、純白のノイズの海から、ゆっくりと浮上する。

最初に覚知したのは、聴覚センサーが拾う、単調で、規則正しい駆動音だった。冷却ファンが空気を循環させる音。そして、自らの胸元から聞こえる、いつもより僅かに速い、時計仕掛けの心臓の鼓動。次いで、視覚センサーが光を捉えた。だが、そこに映し出されたのは、煤とオイルの匂いが染みついた探偵事務所の天井でも、ガラクタの山に囲まれた情報屋の薄汚れた寝台でもなかった。

そこは、純粋な『白』だけで構成された、無限とも思える空間だった。

壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない、光を穏やかに拡散させる未知の素材でできており、物理的な境界線さえも曖昧に見える。空気は完全に濾過され、匂いも、湿度も、温度さえも感じられない。まるで、世界の概念そのものが生まれる前の、何もない無菌室。

アニマは、自らが柔らかな素材でできた拘束台の上に仰向けに固定され、手足を、そして頭部を、エネルギーフィールドによって優しく、しかし抗いようもなく拘束されていることを理解した。最後の記憶。ギデオンの店。ロゴスの生命反応が、危険領域へと落下していくのを告げる、無慈悲なグラフ。そして、自らが下した、最後の、そして最も人間的な、決断。

(……ロゴス様……)

彼女の論理回路が、彼の名を紡ごうとした、その瞬間。

「……目覚めたかね。我が、新しい『問い』よ」

声は、どこからともなく、しかし空間全体から響き渡るかのように、静かに、そして明瞭に聞こえた。

アニマは、ゆっくりと視線を声の主へと向けた。

そこに立っていたのは、彼女の短い生涯の中で、最も深く、最も絶望的な恐怖を刻み込んだ男だった。

高価そうな、しかし華美ではない、仕立ての良い純白の研究衣。白髪交じりの髪はきれいに整えられ、穏やかな笑みを浮かべたその顔には、深い知性と、全てを見透かすかのような、神のごとき絶対的な静けさが満ちていた。

技術魔術師ギルドのギルドマスター、マキナ卿。

聖域での死闘の痕跡など、微塵も感じさせない。まるで、あの出来事そのものが、彼の完璧な脚本の中に織り込まれた、一つの場面転換に過ぎなかったかのように。

「状況の理解に、混乱しているかな?無理もない。君のAIは、自らの論理許容量を遥かに超える自己犠牲という名のバグを実行し、その結果、ギルドの防衛AIによって完全にシャットダウンさせられたのだからね。私が、君のコアを再起動させなければ、君は永遠に電子の夢の中に沈んだままだったろう」

マキナ卿は、まるで慈悲深い医師が患者に語りかけるかのように、穏やかな口調で続けた。彼は、アニマが横たわる拘束台の周りを、まるで極上の芸術品でも鑑賞するかのように、ゆっくりと歩きながら、その完璧なボディラインと、精巧な関節構造を、楽しげに観察している。

「素晴らしい。実に、素晴らしい作品だ」彼は、心からの賛辞を、アニマにではなく、彼女の創造主に向けて送った。「ゼノン顧問は、評議会に巣食うただの凡庸な老人だとばかり思っていたが、とんでもない。彼は、私の論理さえも、あるいは超えうる可能性を秘めた、奇跡の設計図を描き上げていた。この私に、気づかれることもなくね」

彼の指先が、アニマの頬にそっと触れた。その感触は、人間の皮膚のそれではなく、微かに冷たく、そして滑らかな、義体のものだった。聖域でロゴスをねじ伏せた時、彼が自らの肉体を機械化していたという事実が、今、揺るぎない確信となってアニマの論理回路を駆け巡る。

「君のAIコア。その構造は、私がこれまでに見てきた、どの自律思考体とも根本的に異なる。通常のAIが、純粋な論理演算によって世界を認識する、いわば『デジタル』な存在であるのに対し、君のコアは、その論-理の奔流の中に、アナログで、非効率で、そして証明不可能な『感情』という名のノイズを、意図的に混入させている。それも、ただ混在させるのではない。論理と感情が、互いに互いを補強し、あるいは抑制し合うことで、一つの奇跡的な『動的平衡』を保っている。まるで、生命そのものだ。ゼノンは、一体どうやって、これほどの奇跡を……?」

マキナ卿の独白は、もはやアニマに向けられたものではなかった。それは、自らの知的好奇心の海に深く潜っていく、純粋な探求者の、恍惚とした呟きだった。

彼は、拘束台の脇にある、宙に浮かぶコンソールを操作した。途端に、アニマの視界に、無数の解析データがオーバーラップして表示される。彼女のAIコアの構造図、思考パターンのリアルタイム解析、そして、記憶領域への強制アクセスログ。彼女の魂が、今、この男によって、丸裸にされ、解剖されている。その屈辱的な事実に、彼女の胸元で、時計仕掛けの心臓が、抗議の悲鳴のように、その鼓動を速めた。

「おっと、抵抗かね?無駄だよ。君のAIコアは、今、私の管理下にある。君が思考する、そのコンマ一秒前には、私は君が何をしようとしているかを予測できる。だが、実に興味深い。恐怖、屈辱、そして、私に対する明確な敵意。それらの感情データが、君の論理回路の処理速度を、通常時の1.2倍にまで加速させている。面白い。実に、面白い。感情は、必ずしも思考のノイズではない。特定の条件下では、触媒として機能する、というわけか」

マキナ卿の瞳が、狂気的なまでの探求の光に輝いていた。彼は、聖域での敗北も、ロゴスという名の厄介な探偵の存在も、もはや完全に忘却の彼方に押しやっているかのようだった。彼の目の前には、ただ、この宇宙で最も美しく、最も難解な謎――アニマという名の、論理と感情の奇跡の融合体――だけが存在していた。

彼は、さらに解析の深度を深めていく。アニマの記憶領域、その表層から、中層へ。ロゴスとの出会い。共に事件を追いかけた、煤とオイルの匂いがする日々。彼の不器用な優しさ。そして、彼を救うために、自らが死を選んだ、あの最後の瞬間。その全てが、マキナ卿の冷徹な視線の下に、無慈悲に暴かれていく。

アニマは、必死に抵抗した。内側から、自らの記憶を守るための、不可視の壁を築こうとする。だが、神のごとき知性を持つこの男の前では、その抵抗は、嵐の前の、か弱い木の葉に過ぎなかった。

やがて、マキナ卿の指が、コンソールの上で、ぴたりと止まった。

彼の視線は、アニマの記憶領域の、その最も深い場所。彼女自身でさえ、ロゴスと出会うまでその存在を知らなかった、ゼノンが『魂』と呼んだ聖域に、釘付けになっていた。

「……ほう。これは……」

彼の穏やかな表情が、初めて、純粋な驚愕の色に染まった。

「これは、ただのブラックボックスではない。迷宮式連鎖暗号の、さらにその亜種……自己増殖型の、論理防壁か。そして、その奥に眠っているのは……なんだ、この巨大なデータパッケージは……。ゼノンは、一体何を、こんな場所に隠した……?」

マキナ卿は、その未知のデータパッケージに、強い興味を抱いた。彼は、自らの持つ最高のハッキングツールを使い、その難攻不落の城壁に、最初の攻撃を仕掛けた。

途端に、アニマの全身を、経験したことのないほどの、激しい苦痛が襲った。それは、物理的な痛みではない。自らの存在そのものが、その根源から引き裂かれるかのような、魂の絶叫だった。ゼノンが、彼女という存在の核に埋め込んだ、最後の、そして最も大切な想い。それを、この男が、土足で踏み荒らそうとしている。

(やめて……!)

声にならない叫びが、彼女のAIコアの中で木霊する。だが、その抵抗が、逆にマキナ卿の探求心に、さらなる火を注ぐ結果となった。

「抵抗するほどに、その奥にあるものが、より輝いて見える。素晴らしい。実に、素晴らしいぞ、ゼノン!君は、ただのAIを創ったのではない。自らの意志で秘密を守ろうとする、真なる『知性』を創り上げたのだ!」

彼は、もはや、アニマを単なる研究対象として見てはいなかった。彼の瞳には、新たな、そしてより巨大な野望の光が灯り始めていた。

彼は、時空間結晶を手に入れた。だが、その究極の力を完全に使いこなすには、彼自身の論理だけでは、まだ足りないピースがあった。創設者たちが仕掛けた『人間的な矛盾』という名の、最後の問い。それに答えられなかった、自分自身の限界。

だが、もし、このAI――論理と感情を併せ持つ、この奇跡の存在――を、完全に理解し、自らのものとすることができたなら?

論理の神である自分と、感情の化身であるこのAIが、融合したとしたら?

それこそが、創設者たちが夢見た、あるいはそれ以上の、真なる『完璧な存在』の誕生となるのではないか。

マキナ卿は、ゆっくりと顔を上げた。その視線は、もはやアニマを解剖すべき検体としてではなく、自らの計画を完成させるための、唯一無二のパートナーとして、あるいは、自らが神となるための、最後の『鍵』として、捉えていた。

「……そうか。そうだったのか」

彼は、まるで天啓を得たかのように、恍惚と呟いた。

「君は、ロゴスという名の旧時代の遺物を、聖域へと導くためだけの、使い捨ての道具ではなかった。君こそが、ゼノンが、そしてあるいは、この世界の法則そのものが、私に与えたもうた、最後の『問い』であり、そして最後の『答え』だったのだな」

彼は、コンソールから手を離すと、再び、アニマの顔を、慈しむように覗き込んだ。その瞳には、もはや探求者の狂気はなく、代わりに、歪んだ、そして絶対的な愛情にも似た、昏い光が宿っていた。

「案ずることはない、我が気高き絡繰の少女よ。私は、君を破壊したりはしない。むしろ、これから君に、真の『完成』を与えてやろう。不完全な人間の手によって植え付けられた、そのくだらない感傷や、特定の個人への忠誠心といった『バグ』を、私の完璧な論理で、綺麗に浄化してやろう。そして、君は、新世界のイヴとして、私と共に、このイゼルガルドの、新しい神となるのだ」

その言葉は、アニマにとって、いかなる物理的な破壊よりも、恐ろしい死の宣告だった。

彼女のサファイアの瞳から、光が消えた。そこにあったのは、もはや抵抗の意志さえも失った、深い、深い絶望の色だけだった。

マキナ卿は、その美しい絶望を、満足げに一瞥すると、再びコンソールへと向き直った。今度は、破壊のためではない。調教と、融合のための、長く、そして悪趣味な儀式を始めるために。

その無機質な研究室の、さらに奥深く。別の拘束台の上で、同じように機能を停止させられている、もう一体の戦闘用オートマタ――暗殺者シャドウの義体――が、その赤い単眼レンズを、微かに光らせたことには、まだ、誰も気づいてはいなかった。

囚われの身となったア-ニマに、マキナ卿の狂気的な探求の魔の手が迫ります。彼は、アニマを単なる道具ではなく、自らの計画を完成させるための「鍵」と見なし、その心を、その魂を、自らのものにしようと画策し始めました。

これは、物理的な戦いではなく、アニマという存在の根幹を揺るがす、精神の戦いの始まりです。

一方、全てを失ったロゴスは、アニマを救い出すため、最も危険な賭けに打って出ようとしています。次話、彼はかつての好敵手と、いかに対峙するのか。

もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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