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3.1.2.(第34節)「好敵手への通信」

砕け散った魂が求めるは、最も憎み、そして最も理解する男の力。

プライドという名の最後の鎧を脱ぎ捨て、探偵は禁断の切り札に手を伸ばす。

それは、自らの過去を否定し、敵に塩を送るに等しい、あまりにも非論理的な一手。

だが、完璧な論理で構築された絶望の盤面を覆すのは、いつだって計算不能な狂気の一手だけだ。

これは、敗北の淵から始まる、真なる頭脳戦の序曲である。

静寂が、墓石のように重く、ギデオンの店の澱んだ空気の中に落ちた。

複数のモニターが放つ青白い光だけが、壁一面のガラクタの山に不気味な陰影を落とし、まるで巨大な機械の肋骨の内側にいるかのような錯覚を覚えさせる。その光の中心で、ロゴスが放った言葉は、あまりにも静かで、しかし、この店の全ての歯車の回転を止めるほどの、絶対的な質量を持っていた。

「異端審問庁の、ヴェリタスと、連絡を取りたい」 1

最初に反応したのは、店の主であるギデオンだった。彼は、作業台の椅子に深く腰掛けたまま、ゆっくりと、本当に、錆びついたネジが回転するかのように、ゆっくりと振り返った。ゴーグルの奥の、油と歳月で濁った瞳が、信じられないものを見るかのように、ロゴスの顔を射抜く。

「……おいおい、野良犬。てめえ、とうとう頭のネジまでイカれちまったか?」

ギデオンの嗄れた声には、いつもの皮肉の色はなかった。そこにあったのは、純粋な、そして底なしの困惑だった。「ヴェリタス、だと?てめえを社会のどん底に叩き落とした、張本人じゃねえか。てめえの事務所が燃えた時も、真っ先に駆けつけて、てめえを犯罪者扱いした、あの石頭の潔癖症野郎だ。そんな奴に、何を頼るってんだ?てめえの首に、もっと立派な枷をはめてもらう相談でもする気か?」

その言葉は、正論だった。あまりにも、完璧なまでに。ヴェリタスは、敵だ。自分を理解せず、その硬直した正義という名の棍棒で、過去も、現在も、殴りつけてきた男。彼に助けを請う。それは、プライドを捨てるという生易しいレベルの話ではない。自らの探偵としての存在意義、その全てを否定するに等しい、究極の屈辱だった。

ロゴスは、壁に背を預けたまま、痛む身体の軋みに顔を顰めた。だが、その瞳は、ギデオンの真っ当な非難から、決して逸らされなかった。

「……ああ、その通りだ」彼は、掠れた声で応じた。「奴は、俺の最大の敵だ。だがな、ギデオン。奴は同時に、この絶望的な盤面で、俺たちが唯一、動かすことのできる可能性のある、最後の駒でもあるんだ」

「駒、だと?奴は、審問庁の星付きだ。てめえみてえなテロリストの言葉に、耳を貸すはずがねえ」

「耳を貸す、貸さないじゃない」ロゴスは、ゆっくりと首を振った。彼の頭脳は、肉体の悲鳴とは裏腹に、氷のように冷たく、そして正確に回転を始めていた。「奴を、俺たちの土俵に引きずり出すんだ。奴が、決して無視することのできない『餌』を使ってな」

彼は、痛む身体を引きずるようにして、ギデオンの作業台へと、おぼつかない足取りで歩み寄った。そして、モニターに映し出された、審問庁の腐敗を示す取引記録の電子署名を、指先で、そっと撫でた。

「奴は、操られている。騙されている。だが、奴の根底にある、あの潔癖なまでの正義は、本物だ。奴は、法と秩序を、自らの命よりも重いものだと、心の底から信じている。そして、その法と秩序が、内側から腐り落ちているという『事実』を、奴はまだ知らない。もし、奴が、自らが信じる組織そのものが、マキナ卿という名の巨大な癌に侵されているという、動かしようのない『物的証拠』を目の前に突きつけられたとしたら……どうする?」

ロゴスの声は、熱を帯びていく。それは、絶望の淵から見出した、たった一つの、細く、か弱い、蜘蛛の糸だった。

「奴は、選択を迫られる。組織の論理に従い、腐敗に蓋をして、自らの正義を殺すか。あるいは、組織を裏切ってでも、自らが信じる法と秩序の『純粋性』を守るために、その癌を摘出しようとするか。俺は、後者に賭ける。あの男は、そういう、どうしようもなく不器用で、融通の利かない、石頭の理想主義者だ」

「……賭け、ねえ」ギデオンは、キセルに火をつけ、紫の煙を、ため息と共に吐き出した。「そいつは、あまりにも分の悪い博打だぜ、野良犬。もし、奴がお前さんの期待通りに動かなかったら、どうする?てめえは、みすみす敵の懐に、こちらの切り札を晒すことになる。その場で拘束されて、ジ・エンドだ」

「ああ、その通りだ。だからこそ、これは俺にしか打てない、最後の一手なんだ」

ロゴスの瞳の奥で、かつて聖域でヴェリタスと対峙した時の光景が、鮮烈に蘇っていた。ソフィア師の名を叫んだ時の、彼のレンズの奥で確かに揺らいだ、あの人間的な瞳。最後に聞こえた、友を止めようとする、悲痛な叫び。あれは、法の番人の声ではなかった。

「奴は、俺を憎んでいる。俺の才能を、俺のやり方を、心の底から軽蔑している。だが、同時に、奴は、俺の『論理』が、時に、奴の信じる規則の壁を越えることがあるということを、誰よりもよく知っている。俺は、奴にとって、最大の敵であると同時に、唯一、理解しうる好敵手でもあるんだ。俺からの、俺からの直接の通信であれば、たとえそれが罠であったとしても、奴は、その中身を確かめずにはいられない。それが、あの男の、唯一の、そして致命的な『人間的欠陥』だ」

それは、あまりにも傲慢で、あまりにも自分本位な、希望的観測に過ぎないのかもしれない。だが、今のロゴスには、それしか残されていなかった。

彼は、ギデオンの作業台に置かれていた、一枚の羊皮紙と、インク壺を、ゆっくりと引き寄せた。

「マキナ卿は、俺たちの全てを計算し、その掌の上で踊らせた。だが、奴の完璧な計算にも、一つだけ、予測不能な変数がある。それは、俺とヴェリタス、この二人の、歪みきった関係性そのものだ。敵対し、憎み合いながらも、心のどこかで、互いの能力を認め合っている。そんな非論理的で、人間的な感情の機微は、神になろうとしているあの男には、決して計算できない。俺は、その、奴の計算の外にある、最後の聖域に、この賭けの全てを懸ける」

その言葉は、もはやギデオンを説得するためのものではなかった。それは、彼自身が、この最も屈辱的で、最も危険な一手を取るための、最後の覚悟を固めるための、誓いの言葉だった。

ギデオンは、何も言わなかった。彼はただ、黙って、キセルの煙を燻らせながら、目の前の、満身創痍の男が、震える手でペンを握りしめるのを、じっと見つめていた。その瞳には、呆れと、そして、どうしようもない破滅へと向かう友を見送る、共犯者の、悲しい光が宿っていた。

ロゴスは、思考を巡らせた。ヴェリタスに、何を伝えるべきか。

マキナ卿の罪を、声高に告発するか?否。それでは、ただの狂人の戯言として、一蹴されるだけだ。

アニマを救うための、協力を請うか?否。奴にとって、一体の自動人形の命など、秩序の天秤にかける価値もない。

伝えるべきは、ただ一つ。

ヴェリタスが、彼の信じる『法』と『論理』の土俵の上で、決して無視することのできない、純粋な『謎』。

そして、その謎を解く鍵が、自分にしか提示できないという、揺るぎない事実。

彼は、震えるペンを、羊皮紙の上に走らせた。

そこには、ただ、二つのことだけが、簡潔に、そして、挑戦的に記されていた。

『第四区画の思考機関暴走事件。公式記録の時刻に、3分の偽りあり。

師ソフィアの死の現場に残されていた、片足を引きずる男の足跡。

――二つの事件を繋ぐ、最後の歯車が、私の手の中にある。

真実を求めるならば、法の番人としてではなく、ただ一人の探求者として、指定の場所へ来い』

それは、脅迫でも、懇願でもない。

かつて同じ道を歩んだ、好敵手だけに向けられた、知的な挑戦状だった。

「……ギデオン」ロゴスは、書き終えた羊皮紙を、ゆっくりと折り畳んだ。「あんたの情報網で、審問庁の監視網を潜り抜け、この通信を、ヴェリタス本人にだけ、直接届けるルートはあるか。絶対に、誰にも傍受されずにだ」

ギデオンは、大きく、そして重いため息をついた。

「……あるぜ、野良犬。審問庁の連中が、毎朝決まって仕入れにくる、極上の代用品じゃないコーヒー豆の納入業者。その中に、俺の息のかかったネズミが、一匹だけ混じってる。そいつに、この手紙を豆の袋に紛れ込ませりゃ、あの潔癖症の坊ちゃんのデスクに、明日の朝には届くだろうよ。……だが、本当に、本当にいいんだな?一度この賽を投げたら、もう、誰にも止められねえぜ」

「ああ」ロゴスは、力強く頷いた。「賽は、もう、とうの昔に投げられていたんだ。俺は、それに気づいていなかっただけだ」

彼は、折り畳んだ羊皮紙を、ギデオンに託した。それは、もはや単なる紙片ではない。この絶望的な戦争の、その全ての戦局を、天国か地獄か、どちらか一方へと、決定的に動かすことになる、運命の引き金そのものだった。

ギデオンは、その重みを理解しながらも、何も言わずにそれを受け取ると、店の奥の、闇の中へと消えていった。

残されたロゴスは、一人、作業台の椅子に深く身を沈めた。

彼の仕事は、終わった。あとは、天命を待つだけだ。

ヴェリタスという、最も危険で、最も予測不能な歯車が、果たして、自分の意図通りに回ってくれるのか。

彼は、ゆっくりと目を閉じた。脳裏に浮かぶのは、聖域で最後に見た、ヴェリタスの、あの悲痛な叫び。そして、自らの身を犠牲にして、その叫びを生む混沌を創り出してくれた、気高き絡繰の少女の、サファイアの瞳。

(……待っていろ、アニマ)

彼の心臓が、砕けた肋骨の奥で、静かに、しかし力強く、鼓動を始めた。

(必ず、迎えに行く)

それは、敗北の淵から這い上がった、一人の探偵の、静かで、そして何よりも熱い、誓いの鼓動だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第三十四話、いかがでしたでしょうか。

全てを失ったロゴスが、最後に選んだのは、最も危険な賭けでした。かつてのライバル、ヴェリタスの心を、彼にしか送れない挑戦状で動かそうと試みます。

果たして、この禁断の一手は、吉と出るのか、凶と出るのか。そして、この通信が、物語にどのような波紋を広げていくのか。

もし、この先の展開にご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

舞台は、囚われのアニマの元へ。どうぞ、お見逃しなく。

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