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3.1.1.(第33節)「瓦礫の中の誓い」

神の顎から逃れた代償は、魂の半身を失うに等しい痛み。

瓦礫の底から這い上がった探偵の心に宿るのは、無力感という名の冷たい雨。

だが、その雨に打たれ、なお消えぬ怒りの熾火がある。

砕け散った希望の欠片を拾い集め、男は誓う。この絶望が、真なる反撃の序曲であると。

これは、敗北の記録。そして、夜明けを待つ、孤独な誓いの物語。

錆色の雨は、下層街では浄化ではなく、ただ世界の傷口に染み込む泥水に過ぎなかった。巨大なゴミ処理場の腐臭と、雨に濡れた金属の匂いが混じり合い、まるで都市そのものがゆっくりと腐敗していくかのような、終末的な空気を醸し出している。その只中を、一つの影が、亡霊のように足を引きずりながら進んでいた。

ロゴスの身体は、悲鳴を上げていた。第7廃棄研究所の爆発で浴びた熱波が皮膚を灼き、吸い込んだ有毒ガスが喉の奥にガラスの破片のように突き刺さる。マキナ卿の重力操作によって砕かれた骨が、全身に灼けつくような痛みを走らせる。だが、それら全ての物理的な苦痛は、彼の心を苛む、たった一つの事実の前では、色褪せたノイズに過ぎなかった。

アニマ。

その名が、呪いのように思考の表面に浮かんでは消える。彼女が、その身を賭して創り出してくれた、たった一瞬の勝機。彼女が、その魂の全てを賭して送ってくれた、愛の絶叫。その全てを受け取りながら、自分は、結局、彼女一人を敵の只中に置き去りにして、こうして生き永らえてしまった。

無力感。それは、彼の身体を苛むどの物理的な痛みよりも、遥かに深く、そして鋭く、彼の魂を切り刻んでいた。

どれほどの時間が経っただろうか。見慣れた、しかし今は何よりも恋しい、混沌としたガラクタの店の、厚い鉄の扉が、闇の中にぼんやりと浮かび上がった。彼は、最後の力を振り絞って扉を叩く。一度、二度。その音は、自分でも驚くほど弱々しかった。

数秒の沈黙の後、重い閂が引き抜かれる、耳慣れた音がした。扉が軋みながら開き、中から漏れる青白い光が、彼の煤と泥に汚れた姿を照らし出す。

「……野郎!てっきりくたばったかと――」

最初に聞こえたのは、ギデオンの、いつもの悪態混じりの声だった。だが、その声は、ロゴスの惨状を認めた瞬間、途中で途切れた。ゴーグルの奥の目が、驚愕に見開かれる。

「……おい、野良犬。てめえ、その様は、一体……」

ギデオンの言葉は、最後まで続かなかった。ロゴスは、安堵したように、あるいは、ついに限界が来たかのように、まるで糸が切れた絡繰人形のように、店の床へと崩れ落ちた。意識が遠のく中、ギデオンが慌てて駆け寄ってくる気配と、彼の嗄れた声が、まるで水の中から聞くように、くぐもって聞こえていた。

次にロゴスが意識を取り戻した時、鼻をついたのは腐臭ではなく、消毒薬と、ギデオンが常飲している安物の蒸留酒の匂いだった。店の奥、ネズミが出ると言っていた物置部屋の、硬い寝台の上に寝かされている。身体のあちこちに新しい包帯が巻かれ、喉の痛みは幾分か和らいでいた。

「……ここは、天国か?」

掠れた声で呟くと、ガラクタの山の中から、ギデオンが顔を覗かせた。その顔には、いつもの皮肉屋の仮面が貼り付いていたが、その目の奥には、隠しきれない安堵の色が浮かんでいた。

「ケッ。てめえみてえな悪党が行ける天国なんざねえよ。俺の店だ。意識を失って、丸一日経ってら。お前さんの生命力は、マジでゴキブリ並みだな」

ギデオンは、怪しげな色の液体が入ったグラスを、乱暴にロゴスの枕元に置いた。

「……そうか」

ロゴスは、ゆっくりと、痛む身体を起こした。ギプスで固定された右腕が、鈍い痛みを主張する。彼は、部屋の中を見回した。自分と、ギデオン。二人だけだ。いるはずの、清廉な自動人形の姿は、どこにもなかった。

分かっていたはずの事実を、改めて突きつけられる。

「……嬢ちゃんは、どうした」

ギデオンは、ロゴスの問いにすぐには答えなかった。彼は、作業台の椅子に深く腰かけると、キセルに火をつけ、紫の煙を、ため息と共に吐き出した。

「……分かってるんだろ、野良犬」

その静かな声が、ロゴスの胸に、冷たい鉄の杭のように突き刺さった。

「あんたが戻ってこねえ後、ギルドのネットワークは、そりゃあもう大騒ぎだった。所属不明の、しかし恐ろしく腕の立つ『ゴースト』が、中枢システムを滅茶苦茶に引っ掻き回しやがった、てな。ゴーストは、ギルドの防衛AIと、駆けつけた審問庁の部隊の注意を、たった一人で引きつけ続けた。おかげで、中央支部は地獄みてえな大混乱に陥った。……そして、数時間後、ゴーストは、完全に沈黙した」

ギデオンは、モニターの一つに、審問庁の内部通信の傍受ログを映し出した。そこには、簡潔な、しかしあまりにも無慈悲な報告が記されていた。

『対象ゴーストの無力化を確認。機体は、今後の解析のため、マキナ卿直轄の研究施設へと移送』

「嬢ちゃんは、てめえを逃がすために、自ら餌になったんだ。それも、最もたちの悪い、腹を空かせた竜の顎の中によ」

ギデオンの声には、怒りと、そして、どうしようもない無力感が滲んでいた。

ロゴスは、何も答えなかった。彼はただ、モニターに映し出された無機質な文字列を、燃え尽きた炭のような虚ろな瞳で見つめていた。自分が闇の中を逃げ惑っている間、彼女は、たった一人で、都市最強の防衛システムと戦い続けていた。そして、捕らえられた。あの、マキナ卿の手に。

あの男が、アニマをどうするか。考えるまでもない。彼は、アニマの、そのあまりにも人間的なAIコアに、強い興味を抱くだろう。彼は、彼女を分解し、解析し、自らの狂気的な探求心を満たすための、ただの実験材料として弄ぶに違いない。その光景を想像しただけで、胃の底から、灼けつくような怒りが込み上げてきた。

「……必ず、取り戻す」

ロゴスは、血の味がする口の中で、誰に言うでもなく呟いた。

「どうやってだ?」ギデオンが、吐き捨てるように言った。「今のてめえは、満身創痍のただのテロリストだ。おまけに、嬢ちゃんが命懸けで無力化したはずのマキナの野郎だが、審問庁の発表じゃ『テロリストの襲撃からギルド本部を死守した英雄』様だ。奴の研究施設は、ギルドの治外法権下にある、鉄壁の要塞だ。てめえ一人で乗り込んで、どうにかなる相手じゃねえ」

その言葉は、冷徹な事実だった。

ロゴスは、聖域での、あの絶望的なまでの力の差を思い出していた。マキナ卿は、もはや人間ではない。自らの肉体を機械化し、空間さえも操る、神に近い存在。そして、その知性は、ロゴスが出会った、どの人間よりも、遥かに狡猾で、冷徹だった。

ヴァレリウスの決意。ギデオンの情報網。アニマの電子の魔術。そして、自らの知性。その全てを結集したはずの作戦が、全て、あの男の掌の上で踊らされていた。ヴァレリウスは脅迫され、ヴェリタスは操られ、そして自分は、最後の扉を開けるためだけの、使い捨ての『鍵』に過ぎなかった。

圧倒的なまでの、力の差。計画の、周到さ。

単独での奪還など、不可能だ。それは、怒りや憎しみといった感情論ではなく、彼が信じる『論理』が導き出した、揺るぎない結論だった。復讐心だけで突っ込めば、それこそ、アニマの自己犠牲を、本当の犬死にさせることになる。

「……分かっている」ロゴスは、低い声で応じた。「一人では、無理だ。奴を倒すには、奴の論理を、奴の計画を、さらに上回る、別の『力』が必要だ」

彼は、痛む身体を引きずるようにして、寝台から降りた。そして、ギデオンの作業台へと、おぼつかない足取りで歩み寄る。

「ギデオン。あんたの情報網で、奴の研究施設――嬢ちゃんが囚われている場所――の、ありとあらゆる情報を集めてくれ。警備体制、内部構造、電力供給ルート。何でもいい。どんな些細な情報が、奴の完璧な要塞を崩す、最初の亀裂になるか分からん」

「……おうよ」ギデオンは、短く応じた。彼の目には、いつもの商人の計算高さとは違う、友の無謀な戦いを、最後まで見届けようとする、共犯者の光が灯っていた。「俺の、このガラクタ屋敷の全てを賭けて、あんたの目となり、耳となってやる。だから、てめえは、てめえにしかできねえことを考えな。あの神気取りのクソ野郎の、その綺麗な顔を歪ませるための、最高に悪趣味な一手、ってやつをな」

「……ああ」

ロゴスは、力なく頷くと、作業台の隅にある椅子に、深く身を沈めた。

思考を、巡らせる。自分に残された手札は、何か。

ヴァレリウスは、マキナ卿に弱みを握られている以上、もはや頼れない。ギデオンは、後方支援の要だ。アニマは、囚われの身。

マキナ卿を、社会的に失脚させることは、もはや不可能だ。審問庁のトップまでが、彼の毒に侵されている。奴を止めるには、物理的に、その心臓を止めるしかない。

だが、あの神のごとき男に、どうやって?

ロゴスの思考が、出口のない迷宮を彷徨い始める。圧倒的な戦力差。完璧なまでの情報統制。そして、自分は、都市全土から追われる、ただのテロリスト。

絶望。

その二文字が、再び、彼の思考を黒く塗りつぶそうとした、その時。

彼の脳裏に、一つの顔が浮かんだ。

純白の制服。銀縁の眼鏡。そして、そのレンズの奥で、常に冷徹な、しかし決して嘘をつくことのない、潔癖なまでの光を宿した、一人の男の顔。

『ロゴス!待て!』

聖域が混沌に包まれる中、最後に聞こえた、あの悲痛な叫び。あれは、法の番人の声ではなかった。友を止めようとする、一人の人間の声だった。

あの男は、操られていた。騙されていた。だが、その根底にある、自らが信じる『正義』は、決して揺らいではいないはずだ。そして、その正義は、マキナ卿のそれとは、決して相容れない。

好敵手であり、公的には敵対関係にある、異端審問官。

自分に残された、唯一の、そして最も使いたくなかった、最後の切り札。

ロゴスは、ゆっくりと顔を上げた。その瞳に、再び、危険で、そして純粋な探求者の光が戻っていた。

「……ギデオン」

彼の声は、静かだったが、その奥には、地獄の底から這い上がってきた男だけが持つ、揺るぎない決意が宿っていた。

「異端審問庁の、ヴェリタスと、連絡を取りたい」

それは、あまりにも無謀で、あまりにも危険な賭けだった。だが、この絶望的な盤面を覆すには、もはや、予測不能な駒を、敵陣のど真ん中に、自らの手で投じるしか、方法はなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第三十三話、そして第三巻の幕開け、いかがでしたでしょうか。

地獄から生還した探偵が手にしたのは、勝利の栄光ではなく、魂の半身を失った深い喪失感と、圧倒的な無力感でした。しかし、その絶望の底で、彼は再び立ち上がり、次なる一手を探し始めます。

アニマを救い出すため、ロゴスが選んだ最も危険な切り札、ヴェリタス。果たして、かつてのライバルは、彼の声に耳を貸すのでしょうか。

もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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