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2.3.4.(第32節)「絡繰の代償」

神の計算は、一つの「心」によって狂わされた。

だが、その代償は、あまりにも大きい。

仕組まれた絶望の舞台から、探偵はただ独り、傷だらけで逃げ延びる。

その背後で閉ざされるのは、聖域の扉か、それとも仲間へと続く最後の絆か。

無力感という名の冷たい雨に打たれ、男は誓う。この怒りを、決して忘れないと。

これは、敗北の記録。そして、真なる反撃の序曲である。

『――確保しろ』

ヴェリタスの、低く、そして一切の感情を排した声が、けたたましい警報音の不協和音を切り裂いて、絶対的な命令として響き渡った。その声は、もはやかつてのライバルでも、同じ師を仰いだ同僚でもない。ただ、法という名の巨大な絡繰機械の、最も冷徹で、最も正確な歯車として機能する男の声だった。

その号令に応え、純白の制服に身を包んだ異端審問庁の機動部隊員たちが、逆光の中から姿を現した。彼らの動きには、一切の迷いがない。手にした最新鋭のエーテルガンを構え、まるで害虫でも駆除するかのように、床に倒れる二つの人影――意識を失ったロゴスと、痙攣を続けるマキナ卿――へと、その包囲網をゆっくりと、しかし確実に狭めていく。

ここまで、か。

闇の底へと沈みかけていたロゴスの意識が、その無慈悲な足音によって、強引に現実へと引き戻された。身体が、動かない。マキナ卿の重力操作によって砕かれた骨が、全身に灼けつくような痛みを走らせる。肺は、師の形見であるリボルバーの硝煙と、自らの血の味で満たされていた。指一本、動かすことすら億劫だった。

アニマが、その身を賭して創り出してくれた、たった一瞬の勝機。旧時代の遺物であるリボルバーが、神の計算を上回った、奇跡の一撃。その全てが、今、水の泡と帰そうとしていた。マキナ卿の野望は、確かに打ち砕いた。だが、その結果として待っていたのは、法の番人による、あまりにも正当で、あまりにも理不尽な拘束。そして、その先にあるのは、社会的な、あるいは物理的な抹殺。結局、自分は、マキナ卿の巨大なチェス盤の上で、役割を終えた駒として、盤上から掃き清められる運命だったというのか。

(……すまない、アニマ……)

声にならない謝罪が、胸の奥で虚しく響く。彼女が託してくれた、最高の豆で淹れたコーヒー。その約束を、守れそうにもない。

部隊員の一人が、ロゴスの前に膝をつき、その手に冷たい金属の感触――拘束具――をかけようとした、その瞬間だった。

『――警告!警告!ギルド中央支部、全域に最高レベルのセキュリティ警報!所属不明のゴーストが、基幹ネットワークに侵入!繰り返す!全域に最高レベルの――』

聖域全体を揺るがしていた警報とは、明らかに異質の、さらに甲高く、さらに切迫したアラーム音が、どこからともなく鳴り響いた。それは、この聖域だけの問題ではない。ギルド中央支部、この鋼鉄の竜そのものの、全ての神経網が、未知の脅威に晒されていることを告げる、断末魔の悲鳴だった。

ヴェリタスの眉が、僅かに、しかし確かに動いた。彼の銀縁の眼鏡の奥の瞳が、驚愕の色に染まる。彼の部隊員たちも、予期せぬ事態に動きを止め、互いに顔を見合わせている。

「何事だ!?司令室、応答しろ!」

ヴェリタスが耳元の通信機に怒鳴るが、返ってくるのは砂嵐のようなノイズだけ。ネットワークそのものが、何者かによって掌握されかけているのだ。

そして、その混沌は、電子の世界だけには留まらなかった。

ゴウッ、という地響きと共に、聖域の壁面の一部が、何の前触れもなくスライドし、その下から、無数の防衛ドローンが、赤い戦闘モードの光を明滅させながら姿を現した。それらは、本来、聖域の最深部を守るための、最後の番人。だが、そのレンズは、もはや侵入者であるロゴスやマキナ卿ではなく、この場にいる全ての人間――異端審問庁の部隊員たち――を、明確な『敵』としてロックオンしていた。

「馬鹿な!ギルドの防衛システムが、なぜ我々を!?」

部隊員の一人が絶叫する。その声は、放たれたプラズマ弾の炸裂音によって、無慈悲に掻き消された。聖域は、一瞬にして、阿鼻叫喚の戦場と化した。純白の制服が、レーザーに焼かれ、あるいはプラズマに溶解していく。ヴェリタスは、卓越した戦闘能力でドローンの攻撃を回避しながら、部隊に撤退と応戦を指示するが、統制は完全に崩壊していた。

ロゴスは、床に這いつくばったまま、その悪夢のような光景を、朦朧とする意識の中で見つめていた。

(……アニマ……!)

これが、彼女が仕掛けた、最後の、そして最大の陽動。自らのAIコアを犠牲にして、ギルドのネットワーク全体を狂わせ、敵味方の識別信号さえも書き換えて、この場に絶対的な混沌を創り出す。それは、ロゴスを救うためだけの、あまりにも無謀で、あまりにも人間的な、自己犠牲のプログラム。

(……馬鹿野郎……!)

感謝よりも先に、やり場のない怒りが、胸の奥から突き上げてきた。自らを、ただの機械だと、道具だと言い続けた、あの気高き絡繰の少女が、人間の、それも自分のようなろくでなしのために、その全てを投げ打った。その事実が、彼の砕け散った魂を、内側から激しく揺さぶった。

死んで、たまるか。

彼女が遺してくれた、この地獄を、無駄にして、たまるか。

ロゴスは、床に罅の入った肋骨が、肺に突き刺さるかのような激痛に耐えながら、最後の、本当に、最後の力を振り絞った。彼は、まるで傷ついた獣のように、床を這い、銃弾とレーザーが飛び交う混沌の中を、ただ一つの出口へと向かう。ヴァレリウスがその存在を示唆した、旧時代のメンテナンス用地下道へと続く、隠し通路。その入り口は、この聖域の、祭壇のすぐ裏手にあるはずだった。

彼の動きに、ヴェリタスが気づいた。彼は、ドローンの集中砲火を浴びながらも、そのレンズの奥の瞳で、確かに、床を這う旧き友の姿を捉えていた。

「ロゴス!待て!」

その声は、もはや法の番人のものではなかった。それは、友を止めようとする、一人の人間の、悲痛な叫びだった。

だが、ロゴスは振り返らなかった。彼は、歯を食いしばり、自らの血で濡れた床に、一本の赤い線を描きながら、祭壇の裏側へとたどり着いた。そこには、ヴァレリウスが言った通り、周囲の壁とは僅かに材質の違う、一枚のパネルが嵌め込まれていた。

開け方が、分からない。ヴァレリウスから、そこまでは聞いていなかった。

その時だった。彼の脳裏に、創設者たちとの最後の論理戦が、閃光のように蘇った。

『我らが子である思考体が、致命的なエラーを犯したとするならば。汝は、それを『破壊』するか、それとも、『修復』を試みるか』

そして、自らが叩きつけた、魂の答え。

『俺は、選ばない。ただ、対話する』

対話。

ロゴスは、震える手で、そのパネルに、そっと触れた。そして、そこにいるはずのない、しかし確かに存在する、この聖域の意思に向かって、心の中で、静かに語りかけた。

(……俺は、破壊者じゃない。だが、修復者でもない。俺は、ただの探偵だ。そして、まだ、解き明かさなければならない謎が、残っている)

その意志が、通じたのか。

あるいは、アニマが引き起こしたシステム全体のバグが、奇跡を呼んだのか。

カチリ、という小さな音と共に、パネルが、音もなく内側へとスライドした。その向こう側には、人一人がやっと通れるほどの、深い、深い闇が、口を開けていた。

彼は、最後の力を振り絞って、その闇の中へと、身を転がした。背後で、ヴェリタスの絶叫に近い声と、プラズマの炸裂音が、急速に遠のいていく。

どれくらいの時間、闇の中を滑り落ちただろうか。やがて、彼の身体は、硬い衝撃と共に、何か柔らかいものの山の上に叩きつけられた。鼻をつく、腐臭。廃棄物の山だ。シュートの出口は、下層街の、さらに奥深くにある、巨大なゴミ処理場へと繋がっていた。

彼は、全身の痛みと、ガスによって焼かれた喉の激痛に耐えながら、ゆっくりと身を起こした。錆色の雨が、彼の煤と埃にまみれた顔を、静かに洗い流していく。

彼は、生き延びた。

だが、その心に満ちていたのは、安堵ではなかった。

アニマ。彼女は、どうなった?自らの身を餌に、ギルドと審問庁の全ての注意を引きつけた彼女が、無事であるはずがない。おそらく、今頃は……。

ロゴスは、よろめきながら立ち上がった。そして、遠く、上層区画の方角から、無数のサイレンの音が、雨音に混じって、微かに、しかし確かに聞こえてくることに気づいた。その音は、まるで彼女の魂が引き裂かれる、断末魔の悲鳴のように、彼の鼓膜を、そして心を、無慈悲に掻きむしった。

「……う……ぁ……」

声にならない、獣のような呻きが、彼の喉から漏れた。

彼は、震える手で、近くの壁に寄りかかった。雨に濡れた壁の、冷たい感触だけが、ここが現実であることを、かろうじて教えてくれる。

救えなかった。

また、何も。

師ソフィアの時と同じだ。いや、それ以上だ。彼女は、自分を信じ、心を託し、そして、自分のために、その命を投げ出した。自分は、その全てを受け取りながら、結局、彼女一人を、敵の只中に置き去りにして、こうして生き延びてしまった。

無力感。

それは、彼の身体を苛むどの物理的な痛みよりも、遥かに深く、そして鋭く、彼の魂を切り刻んでいた。

そして、その無力感は、やがて、一つの、純粋で、そして灼けつくように熱い感情へと、ゆっくりと変質していく。

怒り。

自らの無力さに対する。ヴェリタスの、あの硬直した正義に対する。そして、この悲劇の全てを、チェス盤の上から、穏やかな笑みを浮かべて見下ろしていた、あの男に対する。

マキナ卿。

ロゴスは、ゆっくりと顔を上げた。雨に濡れた彼の顔を、涙か雨か、見分けのつかない雫が、絶え間なく伝い落ちていた。だが、その瞳に宿っていたのは、もはや悲しみではなかった。

そこにあったのは、地獄の底から這い上がってきた亡霊だけが宿す、決して消えることのない、復讐の焔だった。

彼は、壁から身体を離すと、おぼつかない足取りで、しかし、確かな目的地に向かって、一歩、また一歩と、歩き始めた。

帰るべき場所へ。

そして、再び、戦いを始める場所へ。

彼の孤独な逃走は、今、始まったばかり。そして、それは、かつてないほどに長く、そして血塗られた道となることを、彼は、まだ知らなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギ-ト・エルゴ・モルテム』第三十二話、いかがでしたでしょうか。

アニマの決死の陽動により、ロゴスは絶体絶命の窮地を脱しました。しかし、その代償として、彼女は敵の手に落ちてしまいます。生き延びた探偵の心に宿るのは、深い無力感と、底知れぬ怒りの炎でした。

物語は、ここで第2巻の幕を閉じ、次巻、第3巻へと続いていきます。捕らえられたアニマの運命は。そして、全てを失ったロゴスの、孤独な反撃の行方は。

もし、この先の二人の運命を見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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