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2.3.3.(第31節)「反逆の警報」

神の計算は、一つの「心」によって狂わされた。

仕組まれた絶望の舞台に響き渡るは、物理的な距離を超えて届く、仲間が灯した反逆の狼煙。

それは、自らの身を賭した、あまりにも人間的な、絡繰の少女の魂の絶叫。

探偵は、その一瞬の勝機を掴むため、砕け散った身体で、再び旧時代の遺物を手に取る。

神の顎が閉じる前に、最後の反撃を。

『――警報!警報!始原の聖域に、未認証の強制介入を検知!繰り返す!始原の聖域に――』

けたたましい、耳をつんざくようなアラーム音が、絶対的な静寂を支配していた神の聖域を、暴力的に蹂躙した。床も、壁も、天井も、全てが血のように禍々しい赤色の非常灯に照らされ、狂ったように明滅を繰り返す。それは、この完璧な論理空間にあってはならない、絶対的なエラー。世界のバグ。不協和音の絶叫だった。

床に叩きつけられ、闇の底へと沈みかけていたロゴスの意識が、その轟音によって、まるで冷水を浴びせられたかのように、強引に現実へと引き戻された。骨の軋む痛み、肺を焼く灼熱感、口内に広がる鉄の味。その全てが、彼がまだ生きているという、紛れもない事実を叩きつけていた。

そして、彼の目の前で、信じられない光景が繰り広げられていた。

神となるための、荘厳な儀式の只中にあったマキナ卿。その穏やかで、絶対的な支配者の仮面が、初めて、明確な驚愕と、そして純粋な怒りの色に歪んでいた。彼の身体と、祭壇の上の『時空間結晶』とを結んでいた、無数の、ほとんど視認できないほどの微細な機械のフィラメントが、まるでショートを起こしたかのように激しく明滅し、神との接続が致命的に不安定になっていることを示していた。

「……何だ……?この警報は……!私の許可なく、聖域のシステムに、誰が……!」

彼の声は、もはや神の威厳を失い、自らが完璧に支配しているはずの盤上で、予期せぬ一手に全てを覆されたチェスプレイヤーの、狼狽そのものだった。完璧な計算が、完璧な論理が、初めて、狂ったのだ。

ロゴスは、朦朧とする意識の中、そのけたたましい警報の響きが、ただのノイズではないことを、悟っていた。

それは、物理的な距離を超えて、絶望の深淵にまで届いた、仲間からの返答。

それは、遠きガラクタ屋敷で、自らの敗北を、そして死を、確信したであろう仲間たちが、それでも諦めずに灯してくれた、最後の、そして最も美しい、反逆の狼煙。

それは、心を託した絡繰の少女が、その身を、その魂の全てを賭して、自分という名の不完全な人間に送ってくれた、愛の絶叫だった。

(……アニマ……!)

声にならない叫びが、胸の奥で迸る。彼女の自己犠牲を、無駄にはできない。彼女が創り出してくれた、この神の計算を狂わせた、ほんの一瞬の勝機。それを、逃すわけにはいかない。

マキナ卿の意識は、完全に外部からの予期せぬ介入へと向けられていた。彼は、宙に浮いたまま、聖域の壁面に無数の解析ウィンドウを展開させ、この警報の発信源を、そして侵入者の正体を、猛烈な速度で特定しようとしていた。彼の完璧な思考回路は、自らの計画を脅かすノイズの排除を、最優先事項として処理していた。その結果、ロゴスという名の、床に転がる旧時代の遺物に対する警戒が、ほんの僅かに、しかし致命的に、緩んでいた。

ロゴスは、最後の、本当に、最後の力を振り絞った。折れた肋骨が肺に突き刺さるかのような激痛に顔を歪めながら、血塗られた手を、床の上を這うように伸ばす。指先が、数メートル先で冷たい光を放つ、旧時代の遺物に触れた。師ソフィアの形見。年季の入った、黒光りするリボルバー。そのひんやりとした鋼鉄の感触が、彼の焼け付くような意識に、最後の闘志を注ぎ込んだ。

彼は、銃を掴むと、床に腹這いになったまま、震える腕で、それを構えた。狙うは、もはやマキナ卿本人ではない。あの男を覆う不可視の防御フィールドは、この旧式の銃弾では決して貫けない。

狙うは、ただ一つ。

彼が、自らの魂そのものとして接続しようとしている、祭壇の上の、あの冒涜的なまでに美しい結晶体。

『時空間結晶』。

マキナ卿の野望の核心。この都市の、新しい神の心臓。あれを破壊すれば、たとえ相打ちになったとしても、奴の計画を、完全に葬り去ることができる。

ロゴスは、朦朧とする視界の中で、祭壇の上に輝く蒼光に、照準を合わせた。だが、その殺意にも似た明確な意志を、神が見逃すはずもなかった。

「……まだ、足掻くか。旧時代の、遺物が……!」

マキナ卿の意識が、再びロゴスへと向けられる。その瞳には、もはや穏やかな嘲笑の色はなく、自らの神聖な儀式を邪魔する、ただの害虫に対する、冷たい殺意だけが宿っていた。

だが、彼が再び重力操作でロゴスを圧殺しようとする、そのコンマ数秒前。

ロゴスの指が、引き金を引いた。

銃声。

二発目が、聖域の絶対的な静寂を再び切り裂く。放たれた弾丸は、螺旋を描きながら、一直線に、神の心臓へと向かって飛翔した。

「……無駄だと」

マキナ卿が侮蔑の言葉を紡ぎ終える前に、弾丸は、彼の身体を覆う不可視の防御フィールドに阻まれ、空中でぴたりと静止した。先程と、全く同じ光景。絶対的な力の差。

だが、ロゴスの狙いは、そこではなかった。

静止した弾丸は、次の瞬間、熱で溶解し、蒸発して消える。しかし、その溶解した鉛の蒸気が、ほんの一瞬、マキナ卿の防御フィールドの「輪郭」を、空気の揺らぎとして、可視化した。

そして、ロゴスの指は、間髪入れずに、三発目の、最後の引き金を引いていた。

今度の狙いは、結晶体そのものではない。

防御フィールドの、僅かに上。

結晶体を吊り下げている、天井の基部。

その、ほんの一点。

三発目の弾丸は、マキナ卿の予測を僅かに裏切り、防御フィールドの縁を掠めるようにして、一直線に天井へと突き刺さった。

ガキンッ、という甲高い金属音。

旧時代の、ただの鉛の塊が、最新鋭の神殿の、その構造材の一点に、確かな物理的衝撃を与えた。

それは、巨大な絡繰機械に対する、あまりにも微細な、砂粒ほどのダメージに過ぎなかった。マキナ卿ですら、その意図を測りかね、一瞬だけ眉をひそめた。

だが、その一撃こそが、ロゴスが、この絶望的な状況下で見出した、唯一の、そして最後の勝機だった。

彼は、創設者たちの謎かけを解くために、この聖域の論理構造を、その骨格の隅々まで、彼の呪われた才能で「視て」いた。そして、彼は気づいていたのだ。この完璧なはずの神殿に、たった一つだけ、設計上の、人間的な矛盾が存在することに。

創設者たちは、時空間結晶が、万が一にも落下し、その物理的構造が損なわれることを、極度に恐れていた。そのため、結晶体を吊り下げる基部には、過剰なまでの、しかし旧式の、物理的な衝撃吸収機構が組み込まれていた。そして、その機構は、外部からの衝撃を検知した場合、結晶体を守るため、基部そのものを、瞬時に天井内部へと「退避」させるように、プログラムされていたのだ。

マキナ卿の防御フィールドは、完璧だった。だが、それは、彼自身の身体を守るためのものであり、聖域の天井までを覆うものではなかった。そして、彼は、自らが神となるためのこの神殿の、その隅々にまで組み込まれた、百年以上も前の、旧い、旧い設計思想の全てを、完全には把握していなかった。

ロゴスの最後の一弾は、その、神の計算の外にあった、旧時代の遺物という名の、最後の引き金を、正確に引いたのだ。

天井の基部が、けたたましい警告音と共に、赤い光を放つ。そして、次の瞬間、時空間結晶を吊り下げていたアームが、緊急プロトコルに従って、瞬時に基部へと収納された。

それは、マキナ卿の身体と、結晶体を結んでいた、無数のフィラメントが、物理的に、強制的に、引きちぎられることを意味していた。

「ぐ……あああああああああっっ!!!!」

神の、最初の、そして最後の絶叫が、聖域全体を揺るがした。

彼の身体から、切断されたフィラメントの断端が、まるで生き物のようにのたうち回り、青白い火花を散らす。時空間結晶との接続を無理やり断たれたことで、彼の思考回路そのものに、回復不能なほどの、巨大なフィードバックエラーが発生したのだ。

宙に浮いていた彼の身体は、力なく床へと落下し、その全身を、激しい痙攣が襲う。穏やかだった支配者の顔は、苦痛に歪み、その口からは、意味をなさない、壊れた機械のようなノイズが溢れ出す。

静寂が、戻る。

残されたのは、けたたましい警報音と、床の上で痙攣を続ける、神になり損ねた男の、哀れな残骸だけだった。

ロゴスは、床に這いつくばったまま、その光景を、朦朧とする意識の中で、ただ、見つめていた。勝ったのか?いや、違う。生き延びた。ただ、それだけだ。

彼は、最後の力を振り絞り、震える手で、耳元の通信機に触れた。

「……アニマ……聞こえるか……。約束の……コーヒー……頼む……」

その言葉を最後に、彼の意識は、今度こそ、本当に、深い、深い闇の中へと、沈んでいった。

だが、その闇は、もはや絶望の色をしていなかった。それは、長い、長い戦いの果てに、ようやく訪れた、安らかな眠りの色をしていた。

その時だった。

ゴウッ、という、聞き覚えのある地響き。

ロゴスが通り抜けてきた、あの荘厳な扉が、再び、ゆっくりと、その門を開き始めた。

そして、その光の中、無数の、武装した人影が、逆光となって、聖域の中へと、なだれ込んでくる。

彼らが着ていたのは、純白の制服。

異端審問庁の、機動部隊だった。

そして、その先頭に立つ、一人の男。

銀縁の眼鏡の奥の瞳が、この惨状と、床に倒れる二人の男を、冷徹なまでの正確さで、捉えていた。

「……確保しろ」

ヴェリタスの、低く、そして感情のない声だけが、混沌の聖域に、響き渡った。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第三十一話、いかがでしたでしょうか。

絶望の淵に突き落とされたロゴス。しかし、その彼を救ったのは、物理的な距離を超えて届いた、アニマの、あまりにも人間的で、あまりにも無謀な、自己犠牲の決断でした。そして、ロゴスは最後の最後で、神の計算を上回る一撃を放ちます。

物語は、ここで第2巻のクライマックスを迎えます。全てを弄ばれた探偵は、仲間が創り出した、たった一瞬の勝機を活かし、辛くも生き延びました。しかし、彼の前に現れたのは、かつてのライバル、ヴェリタス。果たして、彼の意図は。そして、自己犠牲の果てに、アニマの運命は。

もし、この先の展開に、息を呑んでいただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、探偵が再び立ち上がるための、唯一の力となります。

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