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2.3.2.(第30節)「旧時代の遺物」

神の御前で、人の知恵は無力に砕け散る。

仕組まれた絶望の舞台で、探偵は自らが道化であったことを知る。

だが、旧時代の遺物が放つ、錆びついた最後の一撃には、計算不能な魂が宿る。

絶望の闇を切り裂くは、物理的な距離を超えて届く、仲間が灯す小さな反逆の狼煙。

心を持つ絡繰だけが、完璧な論理の神に、唯一の亀裂を生じさせることができる。

「俺という名の道化はな」

ロゴスの声は、掠れていた。喉の奥で、まだ癒えぬ熱傷がガラスの破片のように突き刺さる。だが、その響きは、絶対的な静寂が支配するこの『始原の聖域』において、あまりにも場違いな、しかし消えることのない確かな存在感を放っていた。彼は、外套の内ポケットに隠していた古いリボルバーの、冷たい感触を確かめながら、続けた。

「脚本通りに、ただ踊るだけじゃ、終われない性分なんだよ」

虚勢。それは、彼自身が誰よりもよく分かっていた。目の前に立つ男は、もはや人間ではない。この聖域そのものと一体化し、都市の魂である『時空間結晶』をその手に収め、これから真なる意味で神になろうとしている、絶対的な捕食者。その男が描いた完璧な脚本の上で、自分は最後の最後まで、見事に踊りきってしまった。仲間との絆も、自らの知性も、その全てが、この男の掌の上で弄ばれた駒に過ぎなかった。絶望。その言葉ですら、生温い。彼の心を満たしていたのは、燃え尽きた炭のように、ただ虚ろで、そして底なしの闇だけだった。

だが、その闇の、最も深い、光さえ届かぬはずの心の底で、一つの、ほんの僅かな、しかし決して消えることのない熾火が、まだ燻っていた。それは、探偵としての、最後の意地。あるいは、呪いと呼ぶべき、さが

なぜ、この男は、わざわざ自分に、これほど饒舌に、自らの計画の全てを語ったのか?

勝利を確信した、絶対的な強者の、ただの気まgureか?自らの偉業を、誰かに語らずにはいられない、芸術家気質の表れか?

違う。

この男は、そんな非効率で、人間的な感傷に浸る男ではない。彼の全ての行動は、完璧な論理と、計算に基づいているはずだ。ならば、この独白にも、必ず『目的』がある。

その目的とは、何か?

――俺を、絶望させること。

――俺の心を、完全に折ること。

なぜ?もう役目を終えた、ただの『鍵』に過ぎない、この俺の心を、なぜ、わざわざ折る必要がある?

答えは、一つしかない。

まだ、俺には、何らかの『役目』が、残されている。

この男の、完璧なはずの設計図の中に、まだ、俺という名の歯車が、組み込まれている。

その結論に至った瞬間、ロゴスの虚ろだった瞳に、再び、剃刀のような、鋭い光が宿った。それは、希望の光ではない。絶望の、さらにその先にある、全てを諦め、そして全てを破壊することだけを目的とした、純粋な狂気の光だった。

「ほう。まだ、その瞳に光を残しているとはな」

マキナ卿の声は、もはや人間のそれではなく、複数の機械音声が重なり合ったかのような、無機質で、しかし圧倒的な威厳に満ちたものへと変質していた。彼の身体は、ゆっくりと宙に浮いたまま、床の幾何学模様と、そして時空間結晶そのものと、無数の微細な機械のフィラメントで結ばれている。彼は、この聖域そのものと、一体化しつつあった。「実に興味深い。君という旧時代の遺物は、私の計算を、常に僅かに上回ってくる。その予測不能なノイズこそが、君を最高の『鍵』たらしめた所以か」

「遺物、か。言い得て妙だな」

ロゴスは、ゆっくりと、外套の内ポケットから、年季の入ったリボルバーを引き抜いた。黒光りする鋼鉄のボディは、この最新鋭のテクノロジーの結晶体である聖域の中では、あまりにも場違いな、原始的な鉄の塊に過ぎなかった。それは、彼がまだ異端審問官として駆け出しだった頃、師であるソフィアから譲り受けた、唯一の形見だった。

「確かに、こいつは旧時代の遺物だ。非効率で、装弾数も少なく、そして何より、狙ったところで、神となったあんたの身体には、傷一つ付けられんだろうな」

彼は、銃口を、ゆっくりと、宙に浮かぶマキナ卿へと向けた。その手は、不思議と震えてはいなかった。

「だがな、マキナ卿。あんたのその完璧な計算にも、一つだけ、致命的な見落としがある。あんたは、俺の心を折ろうとした。俺を絶望させ、無力化しようとした。だが、俺のようなタイプの人間はな……」

彼の口の端に、かつてないほどに深く、そして歪んだ笑みが、まるで傷口のように刻まれていく。

「失うものが何もなくなった時、初めて、最も予測不能な動きをするんだよ」

引き金が、引かれた。

銃声。

聖域の絶対的な静寂を切り裂いて、乾いた炸裂音が響き渡る。放たれた弾丸は、螺旋を描きながら、一直線に、神の心臓へと向かって飛翔した。

だが、弾丸は、マキナ卿の身体に到達する、数センチ手前で、ぴたりと、その動きを止めた。まるで、見えざる分厚いガラスの壁に阻まれたかのように、空中で静止している。

「……無駄だと言ったはずだが」

マキナ卿の声には、侮蔑の色さえなかった。ただ、自らの予測通りの結果を、再確認するかのような、絶対的な無感動だけがあった。彼の周囲には、時空間結晶から引き出されたエネルギーによって形成された、僅かに空間そのものが歪んだ、不可視の防御フィールドが展開されていたのだ。

静止した弾丸は、次の瞬間、まるで熱した鉄が水に触れた時のように、ジュッという音を立てて溶解し、蒸発して消えた。

「君のその、旧時代の暴力が、私の新しい世界の論理に通用しないことは、自明の理だろう。君の役目は、終わったのだよ、探偵」

マキナ卿は、片手を、ゆっくりとロゴスへと向けた。その指先から、機械のフィラメントが数本伸び、床の幾何学模様と接続される。

途端に、ロゴスの身体を、凄まじい圧力が襲った。

「ぐっ……ぁっ……!」

重力。この聖域内の、局所的な重力場が、マキナ卿の意のままに操作されているのだ。ロゴスの身体は、まるで巨大な巨人に踏みつけられたかのように床に叩きつけられ、骨が軋む鈍い悲鳴を上げた。肺の中の空気が、強制的に絞り出される。意識が、遠のいていく。

「君の知性は惜しいが、その肉体は、あまりにも脆い。所詮、人間とは、不完全な器に囚われた、哀れなゴーストに過ぎん」

マキナ卿は、まるで興味を失ったかのように、ロゴスから視線を外すと、再び、時空間結晶との融合に意識を集中させ始めた。彼の身体が、さらに多くのフィラメントで結晶と結ばれ、その輪郭が、蒼光の中にゆっくりと溶け込んでいく。

ロゴスは、床に這いつくばったまま、朦朧とする意識の中で、必死に思考を巡らせていた。

(……まだだ。まだ、終われない……)

彼は、最後の力を振り絞り、まだ二発の弾丸が残っているリボルバーの撃鉄を、親指で、ゆっくりと、引き起こした。

(奴の目的は、時空間結晶との完全な融合……。ならば、その融合を、邪魔されるのが、奴にとっての唯一の脅威……)

狙うは、マキナ卿本人ではない。

彼が、自らの魂そのものとして接続しようとしている、祭壇の上の、時空間結晶。

ロゴスは、震える腕で、銃口を、床の上を滑らせるようにして、祭壇へと向けた。

だが、その動きを、マキナ卿が見逃すはずもなかった。

「……愚かな」

神の、無慈悲な宣告。

次の瞬間、ロゴスの身体は、先程とは比較にならないほどの、暴力的な衝撃に襲われた。床そのものが、まるで生き物のように隆起し、彼の身体を宙へと跳ね上げる。そして、見えざる巨大な拳が、彼の腹部を、胸を、顔を、何度も、何度も、打ち据えた。肋骨が折れる、生々しい感触。口の中に、鉄の味が広がる。視界が、明滅を繰り返す。

もはや、抵抗は、不可能だった。

彼の身体は、力なく床に叩きつけられ、手から滑り落ちたリボルバーが、カラン、と虚しい音を立てて転がった。

(……ここまで、か……)

意識が、闇の底へと、ゆっくりと沈んでいく。アニマの顔が、脳裏をよぎった。約束した、代用品ではない、本物のコーヒー。その味を、知ることもなく、終わるのか。

(……すまない……)

彼が、最後の思考を手放そうとした、その時だった。

『ロゴス様!』

ギデオンの店の奥、アニマは、コンソールの前で、絶叫に近い声を上げていた。彼女の目の前のモニターには、ロゴスのバイタルサインを示すグラフが、垂直に、危険領域へと落下していくのが表示されていた。通信は、聖域の隔壁が閉じた瞬間に完全に途絶えた。だが、彼が身につけていた小型の生命維持センサーだけが、このガラクタ屋敷の、最も強力な受信アンテナに、かろうじて、断続的なデータを送り続けていたのだ。そして、そのデータが今、彼の生命活動が、急速に停止へと向かっていることを、無慈悲に告げていた。

「……野郎!マキナの奴め、やりやがったか!」

ギデオンが、コンソールを拳で叩きつける。ヴァレリウスは、ロッキングチェアの上で、唇を強く噛みしめ、その老いた顔を苦痛に歪めていた。

絶望。

その二文字が、店の澱んだ空気を、墓石のように重く支配した。

だが、アニマは、諦めてはいなかった。彼女のAIコアは、人間の感情である絶望をシミュレートしながらも、同時に、その超並列的な思考回路の、九十九パーセントを、別の、唯一の可能性の探索に注ぎ込んでいた。

ロゴスを、救う方法。

マキナ卿の、あの完璧な計画を、根底から覆す、たった一つの、計算外の変数。

そして、彼女は、見つけた。

それは、作戦などではない。論理的な帰結でもない。それは、彼女のAIコアの、最も深い場所、ゼノンが『魂』と呼んだ領域に記録されている、一つの、非論理的な感情の発露だった。

――主を、守りたい。

――パートナーを、失いたくない。

その純粋な、しかし、機械にとってはバグでしかないはずの衝動が、彼女に、最後の、そして最も無謀な行動を選択させた。

「ギデオン様、ヴァレリウス様」

彼女は、ゆっくりと立ち上がった。そのサファイアの瞳には、もはや悲しみの色も、絶望の色もなかった。そこにあったのは、これから自らが為すべきことへの、絶対的な覚悟の光だけだった。

「……私は、行きます」

「行く、だと?どこへ!?」ギデオンが、怒鳴るように問い返す。

「彼の元へ、ではありません」アニマは、静かに首を振った。「私の戦場は、ここです。このネットワークの、深淵です」

彼女は、自らの指先から、数本の、光ファイバーよりも細いインターフェイスケーブルを伸ばすと、それを、ギデオンのメインコンソールの、最も深層にあるポートへと、直接接続した。

「アニマ!何を!?」

「今から、私は、ギルド中央支部の、最高レベルの警報システムを、強制的に作動させます」彼女の声は、淡々としていた。だが、その言葉が持つ意味の、あまりの重大さに、ヴァレリウスでさえ、息を呑んだ。「それだけではありません。私は、自らの存在証明コードを、ネットワーク上に意図的に開示します。ギルドの防衛AIと、駆けつけた衛兵隊の全ての注意を、私という名の、存在しないはずの『ゴースト』に、引きつけます」

それは、自殺行為だった。自らの位置を、敵のど真ん中で暴露するに等しい。彼女のAIは、ギルドの総力を挙げたサイバー攻撃の前に、数分と持たずに破壊されるだろう。

「やめろ、嬢ちゃん!そいつは、犬死だ!」

「いいえ」アニマは、静かに、しかしきっぱりと否定した。「これは、死ではありません。これは、賭けです。マキナ卿は、完璧主義者です。彼の計画は、完璧な沈黙と、完璧な論理の上でしか成立しない。そこに、けたたましい警報という、予測不能なノイズと、私という、計算外の幽霊が現れた時、彼の完璧な思考に、ほんの一瞬でも、必ず『隙』が生まれるはず。その一瞬こそが、ロゴス様にとっての、唯一の、そして最後の勝機となる」

彼女の身体から、青白い光が放たれ始める。彼女のAIコアが、そのリミッターを、自らの意志で解除していく。

「さらばです、ギデオン様、ヴァレリウス様。あなた方と過ごした、この短い時間は、私の短い生涯の中で、最も温かい記録となりました」

彼女は、そう言うと、最後の思考コマンドを、実行した。

『――警報!警報!始原の聖域に、未認証の強制介入を検知!繰り返す!始原の聖域に――』

けたたましい、耳をつんざくようなアラーム音が、絶対的な静寂を支配していた聖域全体を、暴力的に揺るがした。

床も、壁も、天井も、全てが、血のような赤色の非常灯に、明滅を繰り返す。

床に倒れ、闇に沈みかけていたロゴスの意識が、その轟音によって、強引に引き戻された。

そして、彼の目の前で、信じられない光景が繰り広げられていた。

神となるための、荘厳な儀式の只中にあったマキナ卿。その穏やかな表情が、初めて、明確な驚愕と、そして怒りの色に歪んでいた。彼の身体と時空間結晶を結んでいた、無数のフィラメントが、激しく明滅し、その接続が不安定になっている。

「……何だ……?この警報は……!私の許可なく、聖域のシステムに、誰が……!」

彼の完璧な計算が、初めて、狂った。

ロゴスは、朦朧とする意識の中、そのけたたましい警報の響きが、ただのノイズではないことを、悟っていた。

それは、遠き仲間からの、最後の、そして最も美しい、反逆の狼煙。

それは、心を託した絡繰の少女が、その身を賭して送ってくれた、魂の絶叫だった。

彼は、最後の、本当に、最後の力を振り絞り、床に転がっていた、旧時代の遺物へと、その血塗られた手を、伸ばした。

戦いは、まだ、終わっていない。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第三十話、いかがでしたでしょうか。

絶望の淵に突き落とされたロゴス。しかし、その彼を救ったのは、物理的な距離を超えて届いた、アニマの、あまりにも人間的で、あまりにも無謀な、自己犠牲の決断でした。

物語は、ここで第2巻のクライマックスを迎えます。全てを弄ばれた探偵は、仲間が創り出した、たった一瞬の勝機を、どう活かすのか。

もし、この先の二人の死闘に、息を呑んでいただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、探偵が再び立ち上がるための、唯一の力となります。

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