2.3.1.(第29節)「仕組まれた論理」
全ての道は、絶望へと通じていた。
仲間との絆も、自らの知性も、全ては竜の掌の上で踊る、哀れな人形の芝居。
完璧な論理は、探偵の魂さえも弄ぶ、悪魔の脚本だった。
仕組まれた真実の果てに、男は自らが『鍵』に過ぎなかったことを知る。
だが、どんな完璧な絡繰にも、設計者の傲慢という名の、最後の亀裂が必ず存在する。
イゼルガルドの真夜中は、深海の底のように静かだった。だが、ギルド中央支部の最深層、この『始原の聖域』に満ちる静寂は、それとは全く異質のものだった。それは、絶対的な捕食者の胃袋の中にも似た、全ての希望が消化され、絶対的な無へと帰すための、冒涜的なまでの沈黙。その沈黙の中心で、ロゴスは、まるで全身の骨を抜かれた絡繰人形のように、ただ立ち尽くしていた。
彼の目の前には、この都市の運命を左右する『時空間結晶』が、一個の宇宙を封じ込めたかのように、深淵の蒼光を明滅させている。そして、その傍らには、この壮大な偽りの劇の脚本家であり、演出家であり、そして唯一の観客である男――技術魔術師ギルドのマスター、マキナ卿が、穏やかな、しかし神のような絶対的な笑みを浮かべて佇んでいた。
「ご苦労だったな、探偵。最後の鍵を開けてくれて、心から感謝するよ」
その言葉は、どこまでも慇-で、柔らかかった。だが、ロゴスの耳には、雷鳴のような轟きとなって突き刺さった。それは、彼の探偵としての存在意義、仲間たちとの死線を潜り抜けた絆、そして、自らの魂を削って挑んだ知的な戦い、その全てを根こそぎ否定し、嘲笑う、悪魔の祝辞だった。
罠。
全ては、罠だったのだ。
ギデオンの店で反撃の作戦を練り上げた、あの濃密な時間。ヴァレリウスという老獪な古狸の、その決意に満ちた瞳。アニマの電子の魔術が切り拓いた、鋼鉄の迷宮を貫く一条の光。そして、自らの呪われた才能の全てを賭けて解き明かした、創設者たちの究極の謎かけ。その一つ一つが、勝利へと続く確かな道標だと信じていた。だが、違った。それら全ては、この男が敷設したレールの上を、寸分の狂いもなく進むための、道化の行進に過ぎなかった。
「……なぜ……」
ロゴスの掠れた声が、聖域の静寂に虚しく響いた。「なぜ、お前が、ここにいる……?」
「なぜ、かね?」マキナ卿は、心底楽しそうに問いを繰り返した。彼は、まるで愛しい我が子でも撫でるかのように、時空間結晶の滑らかな表面に指を滑らせる。「簡単なことだよ、探偵君。私は、君がこの扉を開ける、ずっと前から、ここにいたのだから。この聖域には、創設者たちが遺した、もう一つの『裏口』が存在する。ギルドマスターにのみ、代々口伝で伝えられる、真の聖域への道がね。ヴァレリウスが君に渡した『調律師の鍵』など、あの頑固な理想主義者たちを欺くための、見せかけの安全装置に過ぎんよ」
その言葉は、ロゴスの最後の希望の残滓を、無慈悲に打ち砕いた。ヴァレリウスの決意。彼が託した、古き歯車の最後の抵抗。それさえも、この男の計算のうちだったというのか。
「君は、実に優秀な『鍵』だった」マキナ卿は、恍惚とした表情で、自らの計画の完璧さを語り始めた。「創設者たちの、あの忌々しいほどに面倒な謎かけは、実のところ、私では開けることができなかった。私の論理は、あまりにも完璧すぎる故に、彼らが仕掛けた『人間的な矛盾』という名の最後の扉を、どうしても理解することができなかったのだ。真実と虚偽の分岐点を選ぶ?破壊も修復もせずに対話する?馬鹿馬鹿しい。非効率で、感傷的で、何一つ合理性のない、旧時代の遺物だ。だが、君は違う。君は、矛盾を愛し、その中にこそ真実を見出す。君のその、呪われた『論理的鋭敏性』という名の、歪んだ知性こそが、この扉を開けるための、唯一無二のマスターキーだったというわけだ」
彼は、ゆっくりとロゴスへと向き直った。その穏やかな笑みは、もはや、絶対的な捕食者が、自らの罠にかかった獲物に向ける、慈悲なき嘲笑の色を帯びていた。
「君がアニマという自動人形と共に、私の計画の尻尾を掴んだ時から、私は確信していたよ。君ならば、必ずここまでたどり着けると。だから、私は駒を動かした。まずは、私の可愛い『左手』、シャドウを使って、君の事務所を燃やし、君をギデオンの元へと追い立てた。あの老獪な情報屋は、必ず君に最高の情報を提供するだろうからね。そして、極めつけは、ヴァレリウスだ」
マキナ卿の瞳が、侮蔑と愉悦の入り混じった、昏い光を放った。
「あの老いぼれが、自らの信じる『正義』とやらのために、君に協力したとでも思ったかね?滑稽だな。彼の可愛い孫娘の首には、私の『左手』が、いつでも届く場所にいたのだよ。彼は、私の脚本通りに、悲劇の老英雄を演じきってくれたに過ぎん。君に、あの古びた鍵を託すという、最も重要な役をね。実に、見事な演技だったとは思わんかね?」
その言葉は、ロゴスの脳髄を、焼けた鉄の杭で直接貫くような、激しい痛みとなって襲った。ヴァレリウスの、あの悔恨に満ちた表情。深く頭を下げた、あの重い誓いの儀式。その全てが、愛する家族の命を天秤にかけられた男の、絶望的な芝居だったというのか。自分は、彼の苦悩の上で、ただ無邪気に踊っていただけだったのか。
「ヴェリタスも、そうだ」マキナ卿は、まるでチェスの名人が自らの指し手を解説するように、淀みなく続けた。「あの潔癖症の番犬は、実に扱いやすい。師を失った悲しみと、君への嫉妬心という、二つの餌をくれてやれば、あとは勝手に、君という最大の脅威を、私から遠ざけてくれる。彼が君の元を訪れたことも、もちろん計算通りだ。彼の警告は、君の焦りを誘い、より大胆な行動へと駆り立てる、最高のスパイスとなった」
ギデオン。ヴェリタス。ヴァレリウス。そして、アニマ。
仲間たちの顔が、脳裏をよぎる。彼らと共に築き上げた、反撃の計画。その全てが、この男が描いた、巨大な設計図の、ほんの一工程に過ぎなかった。自分は、探偵ではなかった。ただ、誰よりも上手に、主人の意図通りに踊る、精巧な絡繰人形だったというわけか。
「……面白い」
ロゴスは、乾いた唇から、喘ぐようにその言葉を絞り出した。彼の瞳から、驚愕も、絶望も、全ての感情が抜け落ちていた。残ったのは、燃え尽きた炭のように、虚ろで、そして底なしの闇だけだった。
「実に、面白いじゃないか……マキナ卿。俺の人生そのものが……あんたのチェス盤の上の、ただの駒だったとはな」
「駒、かね?いや、違うな」マキナ卿は、心外だというように、芝居がかった仕草で首を振った。「君は、ただの駒ではない。この新しい世界の扉を開くための、神聖な生贄であり、そして、かけがえのない『鍵』だったのだよ。誇りたまえ、探偵君。君のその歪んだ知性は、歴史上、最も偉大な瞬間に、最も重要な役割を果たしたのだから」
彼は、時空間結晶に再び手を触れた。結晶は、主の意志に応えるかのように、ひときわ強い光を放ち、聖域全体が、まるで呼吸をするかのように、蒼光に明滅した。
「さて。舞台の裏側を語るのは、これくらいにしておこうか。君という『鍵』の役目は、もう終わった。ここからは、私が、この世界の新しい『神』となるための、最後の仕上げだ」
マキナ卿の身体が、ふわりと、宙に浮いた。彼の足元から、無数の、しかしほとんど視認できないほどの、微細な機械のフィラメントが伸び、床の幾何学模様と、そして時空間結晶そのものと、直接リンクしていく。彼は、この聖域そのものと、一体化しようとしていた。
「君が手に入れた、あのお粗末な『エーテル・ウイルス』のプロトタイプ。あれは、ただの試作品だ。私が真に目指していたのは、こんなものではない。この時空間結晶と、私自身の思考を直結させ、この都市の全ての思考機関、全てのネットワーク、全ての自動人形の論理回路を、私の意志の下に、完全に再定義すること。非効率な感情、醜い矛盾、愚かな戦争……それら全てを過去の遺物とし、純粋で、完璧な論理だけが支配する、美しい世界を創造する。それこそが、私の、そしてこのイゼルガルドの、真の進化だ!」
彼の声は、もはや人間のそれではなく、複数の機械音声が重なり合ったかのような、無機質で、しかし圧倒的な威厳に満ちたものへと変質していた。彼の瞳は、もはやロゴスを見てはいなかった。その視線は、この都市の、そして人類の、遥かな未来を見据えている。彼が信じる、完璧な理想郷の姿を。
ロゴスは、その圧倒的な光景を前に、ただ、無力に立ち尽くすことしかできなかった。肉体的な力では、もはや到底敵わない。知性も、論理も、全てがこの男に弄ばれた後だった。残されたものは、何もない。
――否。
絶望の、その最も深い、光さえ届かぬはずの心の底で、一つの、ほんの僅かな、しかし決して消えることのない熾火が、まだ燻っているのを、彼は感じていた。
それは、探偵としての、最後の意地。
あるいは、呪いと呼ぶべき、性。
(……なぜだ?)
彼の思考が、最後の抵抗を試みる。
(なぜ、この男は、わざわざ俺に、これほど饒舌に、自らの計画の全てを語った?)
勝利を確信した、絶対的な強者の、ただの気まぐれか?自らの偉業を、誰かに語らずにはいられない、芸術家気質の表れか?
違う。
この男は、そんな非効率で、人間的な感傷に浸る男ではない。彼の全ての行動は、完璧な論理と、計算に基づいているはずだ。ならば、この独白にも、必ず『目的』がある。
その目的とは、何か?
ロゴスの脳が、最後の燃料を燃やし、猛烈な速度で回転を始めた。
――俺を、絶望させること。
――俺の心を、完全に折ること。
なぜ?もう役目を終えた、ただの『鍵』に過ぎない、この俺の心を、なぜ、わざわざ折る必要がある?
答えは、一つしかない。
まだ、俺には、何らかの『役目』が、残されている。
この男の、完璧なはずの設計図の中に、まだ、俺という名の歯車が、組み込まれている。
その結論に至った瞬間、ロゴスの虚ろだった瞳に、再び、剃刀のような、鋭い光が宿った。
それは、希望の光ではない。
絶望の、さらにその先にある、全てを諦め、そして全てを破壊することだけを目的とした、純粋な狂気の光だった。
彼は、ゆっくりと顔を上げた。その口の端に、かつてないほどに深く、そして歪んだ笑みが、まるで傷口のように刻まれていく。
「……面白い」
彼は、もはや神となりつつある男に向かって、静かに、しかし、聖域全体を震わせるほどの、確かな意志を込めて、言った。
「実に、面白いじゃないか、マキナ卿。……だがな。あんたのその完璧な脚本には、一つだけ、致命的な書き忘れがあるぜ」
マキナ卿の、神のごとき無感動な表情が、初めて、僅かに、ぴくりと動いた。
「俺という名の道化はな」
ロゴスは、外套の内ポケットに隠していた、古いリボルバーの、冷たい感触を確かめながら、続けた。
「脚本通りに、ただ踊るだけじゃ、終われない性分なんだよ」
絶望の淵から、探偵は再び立ち上がった。もはや、彼に失うものは、何もなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十九話、いかがでしたでしょうか。
全てが敵の掌の上だったという、絶望的な真実。しかし、その絶望の底で、ロゴスは再び反撃の牙を研ぎ始めます。
物語は、ここから第2巻のクライマックス、絶体絶命の状況下での死闘へと突入します。
もし、この先の二人の対決に、息を呑んでいただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、探偵が再び立ち上がるための、唯一の力となります。




