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2.2.4.(第28節)「竜の顎、探偵の墓標」

最後の扉は、開かれた。

だが、それは栄光への道か、それとも墓標への入り口か。

安堵は絶望の序曲。信じた光は、最も深い闇を呼び寄せる。

仕組まれた罠の中で、探偵は自らの知性が弄ばれたことを知る。

竜の顎は、静かに、そして確実に、その獲物を飲み干さんとしていた。

イゼルガルドの真夜中は、深海の底のように静かだった。だが、ギルド中央支部の最深層、この巨大な円形のホールに満ちる静寂は、それとは全く異質のものだった。それは、あらゆる音も、光も、そして思考さえも飲み込まんとする、絶対的な無。その絶対的な無が、今、破られようとしていた。

『……歓迎する、我らが、後継者よ』

創設者たちの、幾重にも重なった荘厳な声が、ホールの空間全体から祝福のように響き渡る。それは、究極の論理パズルを解き明かした者だけに与えられる、最大の賛辞。ロゴスが叩きつけた『調律師の鍵』は、最後の問いに対する彼の魂の答えが、創設者たちが意図した真の解答であったことを証明する、最後の認証キーだったのだ。

彼の目の前で、数世紀もの間、誰一人として開けることのできなかった絶対の扉が、ゴウ、という地響きのような、荘厳な音を立てて、ゆっくりと、内側へとその門を開いていく。黒曜石のように滑らかだった壁面に、一条の光の亀裂が走り、それが徐々に広がっていく様は、まるで世界の夜明けそのもののようだった。

ロゴスは、荒い息をつきながら、壁に背を預けて膝に手をついた。全身が、鉛のように重い。最後の問いは、彼の思考だけでなく、魂そのものを削り取るような、あまりにも根源的な問いだった。極度の精神的消耗が、脳髄を直接掴んで揺さぶるような、激しい眩暈となって彼を襲う。だが、彼の心は、これまでにないほどの達成感と、そして、これから目の当たりにするであろう真実への、純粋な探求心に満たされていた。

『ロゴス様……!やりましたね!』

耳元の通信機から、ノイズ混じりではあったが、アニマの歓喜に満ちた声が届いた。彼女の向こう側で、ギデオンの安堵したような悪態や、ヴァレリウスの静かな息遣いも聞こえる。彼らは、この絶望的な賭けの、唯一の目撃者であり、共犯者だった。

「……ああ」ロゴスは、掠れた声で、それだけを答えるのが精一杯だった。「最高の……眺めだ」

扉は、今や完全に開かれていた。その向こう側から溢れ出す光は、エーテルランプの青白い光でも、非常灯の禍々しい赤色でもない。それは、まるで液体のように濃密で、そして夜空の星々そのものを溶かし込んだかのような、深淵の蒼光だった。その光が、ロゴスの煤と埃に汚れた顔を、神々しく照らし出す。

彼は、最後の力を振り絞って立ち上がると、震える足で、その光の中へと、最初の一歩を踏み出した。

そこは、彼の想像を、そしてこの世界のあらゆる物理法則をも超越した、異質な空間だった。

広さは、先程のホールと同じくらいだろうか。だが、壁も、床も、天井も、全てが緩やかに湾曲した、継ぎ目のない水晶のような素材でできており、その内部には、銀河の星雲を思わせる無数の光の粒子が、ゆっくりと明滅を繰り返している。空気そのものが、濃密な情報で満たされているかのように、肌をぴりぴりと刺激した。ここは、もはや建築物ではない。都市の創設者たちが、自らの叡智の全てを結集して造り上げた、巨大な思考機械の、その心臓の内部そのものだった。

そして、その空間の中央。

黒曜石でできた、円形の祭壇が、まるで虚空に浮かぶ島のように鎮座していた。

祭壇の上には、ただ一つだけ、物が置かれている。

時空間結晶クロノ・クリスタル

ロゴスは、息を呑んだ。

それは、彼がカレルの部屋で発見した欠片や、ゼノンの遺品であった破片とは、比較にすらならない。それは、人間の頭ほどの大きさを持つ、完璧な二十面体の結晶だった。その表面は鏡のように滑らかでありながら、内部には、まるで一個の宇宙が封じ込められているかのように、無数の光の点が、生まれ、そして消えていくのを繰り返していた。それは、ただの物質ではない。生きている。呼吸をしている。そして、思考している。ロゴスは、その結晶を視た瞬間、彼の『論理的鋭敏性』が、これまで経験したことのないほどの悲鳴を上げるのを感じていた。

世界の骨格を成す、青白い論理の格子。彼の呪われた才能が映し出すその光景が、この結晶の前では、意味をなさなかった。なぜなら、この結晶そのものが、世界の論理そのものを記述し、そして書き換えるための、究極の『筆』であり『紙』であったからだ。彼の視界には、黄金色の『論理の亀裂』などという、生易しいものではない。過去、現在、未来、ありとあらゆる可能性の奔流が、絶対的な情報量をもって、彼の網膜に、そして脳髄に、直接叩きつけられていた。

「……ぐっ……!」

彼は、思わず頭を抱えて後ずさった。情報量が、多すぎる。常人であれば、この結晶を直視しただけで、その精神は情報の奔流に飲み込まれ、一瞬で崩壊してしまうだろう。彼でさえ、立っているのがやっとだった。

これが、マキナ卿が求めた力。

これが、都市の魂を掌握し、歴史さえも意のままに書き換えんとする、神の叡智。

ロゴスは、荒い息をつきながらも、その結晶から目を逸らすことができなかった。恐怖と、同時に、探偵としての、純粋で、そして冒涜的なまでの好奇心が、彼の魂を焼き尽くさんとしていた。彼は、この結晶を手に取り、その深淵を、この手で解き明かしたいと、心の底から願ってしまっていた。

彼は、ゆっくりと、一歩、また一歩と、祭壇へと近づいていく。

もはや、罠などどうでもよかった。たとえこの先に、死が待っていたとしても、この究極の謎を前にして、引き返すことなど、彼にはできなかった。

あと、数歩。

手を伸ばせば、神の心臓に触れられる。

その時だった。

ゴウッ!!!!

彼の背後で、地響きのような、絶対的な終端を告げる轟音が響き渡った。

ロゴスは、驚愕に目を見開き、振り返った。

彼が通り抜けてきた、あの荘厳な扉が、絶対的な質量をもって、今、急速に閉じようとしていた。

「……何!?」

『ロゴス様!罠です!何者かが、外部から聖域のシステムに強制介入!隔壁が!』

耳元の通信機から、アニマの絶叫に近い声が届く。だが、その声も、扉が閉じていくにつれて、急速にノイズの奔流に掻き消されていく。

彼は、最後の力を振り絞って、開かれた光の出口へと駆け戻ろうとした。だが、間に合わない。

彼の目の前で、最後の光の亀裂が、一条の線となり、そして完全に消え失せた。

ゴンッ!!!!!!

分厚い隔壁が閉じる、絶対的な金属音が、聖域全体を揺るがした。

それは、墓標の蓋が閉まる音。

あるいは、巨大な竜が、その顎を閉じる音に、酷似していた。

静寂が、戻る。

だが、それは、先程までの神聖な静謐ではない。全ての希望が断ち切られた、墓場の中の、絶対的な沈黙だった。

通信は、完全に途絶えた。アニマの声も、ギデオンの声も、もはや聞こえない。

ロゴスは、完全に、たった独りで、この鋼鉄の聖域に閉じ込められたのだ。

「……クソが……!」

彼は、閉ざされた扉に拳を叩きつけたが、黒曜石の壁は、微かな振動さえ返してはこなかった。

罠だ。創設者たちの謎かけは、真の罠ではなかった。あれは、ただの時間稼ぎ。真の罠は、この最後の最後に、最も無防備になった瞬間を狙って、発動した。

誰が?

マキナ卿か?

いや、あの男なら、もっとスマートなやり方をする。こんな、絶望を味わわせるような、悪趣味なやり方はしない。だとしたら、一体……。

その時だった。

コツ……。

静寂の中で、一つの音が響いた。

それは、ロゴスの心臓の音ではない。彼の足音でもない。

彼の背後。

祭壇のある、空間の最も深い闇の中から、誰かが、ゆっくりと、石畳を打つような、規則正しい足音が、一つ、また一つと、響いてきた。

ロゴスは、全身の血が凍り付くのを感じながら、ゆっくりと、本当に、錆びついた歯車が回転するかのように、ゆっくりと、振り返った。

聖域の闇は、絶対的だった。時空間結晶が放つ、深淵の蒼光だけが、その闇の中に、一つの人影を、ぼんやりと浮かび上がらせていた。

その人影は、ゆっくりと、闇の中から光の中へと、その姿を現した。

年の頃は四十代半ばだろうか。

高価そうな、しかし華美ではない、仕立ての良い黒いローブを身にまとっている。

白髪交じりの髪はきれいに整えられ、その顔には、深い知性と、人を安心させるような包容力に満ちた、穏やかな笑みが浮かんでいた。

彼こそが、この巨大な知識の牙城を束ねる頂点。

技術魔術師ギルドのギルドマスター。

マキナ卿、その人だった。

「……マキナ……卿……!」

ロゴスは、喘ぐように、その男の名を呼んだ。なぜ、ここにいる?ホログラムではない。生身の彼が、なぜ、誰にも開けられぬはずの、この聖域の内部に。

マキナ卿は、まるで旧知の友人に再会したかのように、その穏やかな笑みを、さらに深くした。その瞳は、ロゴスの驚愕と絶望を、まるで極上の芸術品でも鑑賞するかのように、楽しげに細められている。

「やあ、探偵君。素晴らしい推理と、そして見事なまでの行動力だった。君が、あの老いぼれたヴァレリウスを言いくるめ、この場所までたどり着くであろうことは、私の計算の中でも、最も美しい数式の一つだったよ」

彼の声は、どこまでも慇懃で、柔らかかった。だが、その言葉の一つ一つが、ロゴスのこれまでの戦い、仲間との絆、そして、自らの知性への最後の誇りを、根こそぎ踏み躙る、悪魔の囁きだった。

全て、計算通りだった、と。

この男は、そう言っているのだ。

マキナ卿は、ゆっくりとロゴスの前を通り過ぎ、まるで自らの所有物であるかのように、祭壇の上の時空間結晶に、そっと指先で触れた。結晶は、主の帰りを喜ぶかのように、ひときわ強い光を放った。

「君は、実に優秀な『鍵』だった。創設者たちの、あの忌々しいほどに面倒な謎かけは、私では開けることができなかった。私の論理は、あまりにも完璧すぎる故に、彼らが仕掛けた『人間的な矛盾』という名の最後の扉を、どうしても理解することができなかったのだ。だが、君は違う。君は、矛盾を愛し、その中にこそ真実を見出す。君のような、不完全で、歪んだ知性こそが、この扉を開けるための、唯一無二のマスターキーだったというわけだ」

彼は、ゆっくりと振り返った。その穏やかな笑みは、もはや、絶対的な捕食者が、自らの罠にかかった獲物に向ける、慈悲なき嘲笑の色を帯びていた。

「ご苦労だったな、探偵。最後の鍵を開けてくれて、心から感謝するよ」

その言葉は、ロゴスの脳髄に、焼印のように突き刺さった。

ヴァレリウスとの密会も。

アニマとの決死の潜入計画も。

そして、自らの魂を削って挑んだ、創設者たちとの論理戦さえも。

その全てが、この男が描いた、巨大な設計図の、ほんの一工程に過ぎなかった。

自分は、探偵ではなかった。

ただ、竜の顎を開けるためだけに、使い捨てられる、哀れな道化に過ぎなかったのだ。

ロゴスは、言葉を失い、ただ、目の前に立つ、絶対的な悪意の化身を、燃え尽きた炭のような瞳で見つめることしか、できなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十八話、いかがでしたでしょうか。

ついに開かれた、鋼鉄の聖域の扉。しかし、それは栄光への道ではなく、探偵を絶望のどん底に突き落とす、完璧に仕組まれた罠の入り口でした。

物語は、ここで第2巻のクライマックスを迎えます。全てを弄ばれたロゴスは、この絶体絶命の状況から、いかにして立ち向かうのか。

もし、この先の二人の対決に、息を呑んでいただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、探偵が再び立ち上がるための、唯一の力となります。

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