2.2.3.(第27節)「創設者の謎かけ」
鋼鉄の聖域、その最奥。探偵の前に立ちはだかるは、物理的な鍵では決して開かぬ、最後の扉。
それは、この都市を創り上げた者たちの、思考そのもので構築された、究極の論理の城壁。
無慈悲なカウントダウンが破滅を告げる中、知性そのものが試される、孤独な戦いが始まる。
探偵の呪われた才能だけが、完璧な論理に潜む、人間的な矛盾という名の亀裂を見抜く。
創設者たちの思考の深淵で、最後の謎かけが、今、静かに口を開く。
イゼルガルドの真夜中は、深海の底のように静かだった。だが、ギルド中央支部の最深層、この巨大な円形のホールに満ちる静寂は、それとは全く異質のものだった。それは、あらゆる音も、光も、そして思考さえも飲み込まんとする、絶対的な無。まるで巨大な機械の心臓の内部に迷い込んだかのような、圧倒的なまでの非人間的な静謐が、ロゴスの強靭な精神を内側からじりじりと蝕んでいく。
彼の目の前には、一つの扉が、荘厳なまでの威圧感を放って静かに佇んでいた。鍵穴も、コンソールも、物理的な継ぎ目さえも存在しない、完璧な一枚岩。壁も、床も、天井も、全てが同じ、光を吸い込む黒曜石のような滑らかな素材でできており、この空間そのものが、外部の世界から完全に切り離された、一つの聖域であることを物語っていた。扉の中央にだけ、都市の創設者たちの紋章――三つの歯車が複雑に絡み合った意匠――が、まるで自ら発光しているかのように、淡い青白い光を放っている。
『始原の聖域』。
ヴァレリウスの知識も、ギデオンの情報網も、そしてアニマのハッキング能力でさえも、ここから先は通用しない。この扉を開ける鍵は、物理的な世界には存在しない。
『ロゴス様……!』
耳元の通信機から、かろうじて届くアニマの、ノイズ混じりの声が聞こえた。分厚い隔壁と、この区画全体に仕掛けられた強力な情報遮断フィールドが、彼女との繋がりを、蜘蛛の糸のように細く、か弱くしていた。『……あなた様のバイタルサインに、異常な精神的負荷を検知します。内部の状況は?』
「……ああ、無事だ。最高の眺めだよ」ロゴスは、掠れた声で答えた。強がりだった。この場所に足を踏み入れた瞬間から、彼の脳に、直接語りかけてくるような、無数の思考の断片が流れ込んできている。それは、この聖域を守るために設計された、超高次の思考AIの囁き。侵入者の論理構造を分析し、その最も弱い部分を突くための、静かなる問いかけだった。「だが、ここからは、俺一人だ。通信は、最低限にしろ。奴に、こちらの思考を読まれる」
『……了解しました。ご武運を』
アニマの声を最後に、通信は沈黙した。絶対的な孤独。ロゴスは、ゆっくりと息を吐き、目の前の、絶対的な沈黙を守る扉へと、一歩、踏み出した。
彼が、扉まで数メートルの距離に近づいた、その瞬間。
何の前触れもなく、ホールの空間そのものが、光の粒子となって揺らめいた。黒曜石の壁面が、巨大なスクリーンのように変質し、そこに、無数の、そして膨大な量の、数式と幾何学模様が、滝のように流れ始める。そして、創設者たちの紋章が、眩い光を放った。
『――我らが叡智の深淵に至らんとする者よ。汝に、その資格はあるか』
声は、壮年、老年、そして女性のものまで、複数の声が重なり合った、合成音声のようだった。それは、都市の創設者たちの、記録された思考パターンそのもの。彼らが遺した、最後の番人だった。
『第一の問いを、ここに提示する』
ホールの中心に、光でできた巨大な天秤のホログラムが浮かび上がった。一方の皿には、完璧な球体。もう一方の皿には、無数の、複雑に絡み合った歯車が乗っている。
『完璧なる一つの真理と、無限に続く無数の問い。どちらが、より世界を『正しく』描写するか。答えよ』
それは、哲学の問いだった。だが、ロゴスは、これが単なる言葉遊びではないことを知っていた。この問いそのものが、侵入者の思考パターンを分析し、解答に至るまでの論理の道筋をスキャンするための、巧妙なスキャニングプログラムなのだ。
「……面白い」
ロゴスは呟き、思考を巡らせた。完璧な球体は、絶対的な真理、揺るぎない秩序の象徴。ヴェリタスが信じる正義そのものだ。対して、無数の歯車は、複雑に絡み合う因果、終わりなき探求の象徴。それは、自分自身の生き方に近かった。
だが、この問いは、どちらかを選ばせることを目的としている。そして、どちらを選んでも、それは罠だ。一つの価値観に与したと判断された瞬間、この思考AIは、侵入者を「偏った思考を持つ、不適格者」として排除するだろう。
彼は、答える代わりに、天秤そのものへと近づいた。そして、何もない空間に向かって、静かに語りかける。
「どちらも、正しくない。あるいは、どちらも、等しく正しい」
彼の声が、静寂に響く。
「真理とは、球体のように閉じたものではない。そして、問いとは、歯車のようにただ無秩序に存在するものでもない。真の理とは、問い続ける意志が、無秩序な歯車の中から、より完璧な球体を生み出そうとする、その『運動』そのものの中にこそ存在する。答えは、二つの皿の上にはない。この天秤が、揺れ動いている、その状態そのものだ」
数秒の、永遠にも感じられる沈黙。
やがて、創設者たちの声が響いた。
『……解答を、受理。論理の多角的視点を、確認。第一の扉を、開く』
ロゴスの目の前で、天秤のホログラムが掻き消え、紋章の三つの歯車の一つが、さらに強く輝きを増した。だが、扉そのものは、開かない。これは、三重のロック機構になっているのだ。
その時だった。
けたたましい警告音が、ホール全体に鳴り響いた。壁面が、血のような赤色に染まる。
『警告。未認証の論理介入を検知。聖域の自己浄化シークエンスを起動する。当区画は、十分後に、高密度のエーテル・プラズマによって完全に浄化される。繰り返す。浄化まで、残り十分』
「……ちっ、やはりな」
ロゴスは悪態をついた。最初の問いに答えたこと、それ自体が、侵入の事実を確定させるトリガーだったのだ。ここからは、時間との戦いになる。
『第二の問いを、提示する』
今度は、ホールの床に、巨大な円形の迷路が光で描き出された。入り口は一つ。そして、出口は二つ。
『一方の出口は、真実へと至る。もう一方の出口は、虚偽へと至る。二人の門番がいる。一人は、常に真実を語る。もう一人は、常に嘘しか語らない。汝には、ただ一度だけ、どちらかの門番に、ただ一つの問いを発することだけが許される。真実の扉を見つけ出せ』
古典的な論理パズル。だが、あまりにも有名すぎる。これには、何か裏がある。
ロゴスは、迷路には目もくれず、思考を加速させる。もし、自分が設計者なら、この古典的なパズルに、どんな罠を仕掛ける?
カウントダウンの数字が、壁面で無慈悲に時を刻んでいく。残り、八分。
「……そうだ。問いが、古典的すぎるんだ」
彼は、膝をつき、床に描かれた光の迷路を、指でなぞった。そして、気づいた。迷路の構造そのものが、答えなのだと。二つの出口は、物理的には同じ場所へと繋がっているように描かれている。だが、光の線の明滅のパターンが、僅かに違う。
彼は、目を閉じた。意識を、深く、深く沈めていく。
世界の表層が剥がれ落ち、彼の精神の前には、このホールの、そしてこのパズルの、青白い光で構成された論理の骨格が浮かび上がる。そして、彼は視た。
ピシリ。
迷路を構成する、完璧なはずの論理の格子。その、二つの出口へと続く道の、ちょうど分岐点。そこに、髪の毛よりも細く、しかし、決して見過ごすことのできない、黄金色の光を放つ一本の亀裂が、明確に視えていた。
それは、設計者が残した、人間的な矛盾の光だった。
「真実」と「虚偽」。二元論で世界を割り切ろうとする、その思考そのものが持つ、傲慢さという名の亀裂。
このパズルは、どちらが真実の扉かを見つけ出すことを求めているのではない。真実と虚偽が、同じ一つの場所から生まれ、そして、観測者の視点によってのみ意味を持つという、世界の根源的な構造を理解できるかを、試しているのだ。
『……残り、五分』
ロゴスは、ゆっくりと目を開けた。彼は、迷路の入り口に立つと、そこにいるはずのない、仮想の門番たちに向かって、静かに告げた。
「俺は、どちらの門番にも、問いは発しない」
彼は、真実の扉でも、虚偽の扉でもない、第三の道。二つの道が分かれる、その分岐点そのものを、まっすぐに指さした。
「俺が進むべき道は、そこだ。なぜなら、真実と虚偽を分かつのは、扉そのものではなく、どちらの扉を選ぶかという、俺自身の『選択』だからだ。お前たちの問いは、その前提を隠している。よって、この問いそのものが、最大の『嘘』だ」
再びの、絶対的な沈黙。
そして、創設者たちの声が、今度は明確な感嘆の色を滲ませて、響き渡った。
『……解答を、受理。二元論的思考の超越を、確認。第二の扉を、開く』
紋章の二つ目の歯車が、眩い光を放つ。だが、まだ扉は開かない。残るは、最後の問い。
そして、カウントダウンは、すでに残り三分を切っていた。
ホールの壁面から、隔壁が、絶対的な質量をもって、ゆっくりと迫り出してくる。このままでは、プラズマで焼かれる前に、圧殺される。
『最後の問いを、提示する』
声は、今までで最も重く、厳かだった。
『我らは、この都市に、完璧な論理と、永遠の秩序を与えようとした。だが、我らが創り出した思考体は、時に、我らの理解を超え、過ちを犯すかもしれぬ。未来の調律者よ。もし、汝の目の前で、我らが子である思考体が、都市そのものを破壊しようとするほどの、致命的なエラーを犯したとするならば。汝は、それを『破壊』するか、それとも、再び過ちを犯すリスクを冒してでも、『修復』を試みるか。答えよ』
その問いは、ロゴスの心の、最も深い場所を抉った。
それは、彼が、この長い戦いの果てに、必ず直面するであろう、究極の選択そのものだったからだ。
師ソフィア。彼女は、きっと『修復』を選ぶだろう。人間の、そして機械の、不完全さそのものを愛した彼女ならば。
ヴェリタス。彼は、迷わず『破壊』を選ぶだろう。秩序を乱すものは、たとえそれが何であれ、排除する。それが、彼の正義だからだ。
では、自分は?
『残り、一分』
隔壁が、彼の背中に、冷たい感触を伝えていた。
ロゴスは、脳裏に、一人の少女の姿を思い浮かべていた。サファイアの瞳を持つ、気高き自動人形。心を語り、主のために涙を流した、唯一無二の相棒。
もし、彼女が、致命的なエラーを犯したとしたら。自分は、どうする?
答えは、もう、出ていた。
彼は、紋章に向かって、もはや何の迷いもない、静かな、しかし鋼のような意志を込めて、告げた。
「俺は、選ばない」
その言葉に、創設者たちの思考AIが、初めて、明確な動揺のノイズを発した。
「破壊も、修復も、どちらも傲慢だ。それは、対象を、自らよりも下等な『モノ』として扱う、支配者の論理だ。俺は、ただ、対話する。なぜ、そのようなエラーを犯したのかを、問い続ける。理解しようと、努め続ける。たとえ、その果てに、共に滅びることになったとしても。なぜなら、それが、対等な存在に対する、唯一の『誠意』だからだ」
それは、論理の答えではなかった。それは、ロゴスという、一人の不完全な人間が、アニマという、一人の不完全な機械と出会い、共に戦い、そして絆を育む中で、ようやくたどり着いた、魂の答えだった。
『……解答……不能。論理的……整合性……エラー……』
創設者たちの声が、乱れる。彼らの完璧な論理は、ロゴスが提示した、あまりにも人間的で、あまりにも非効率な『愛』とも呼べる概念を、理解することも、否定することも、できなかった。
ピシッ。
ロゴスの瞳にだけ、視えていた。
紋章の中心、三つの歯車が絡み合う、その心臓部。そこに走る、最後の、そして最も美しい、黄金色の亀裂。
『残り、十秒』
ロゴスは、その亀裂に向かって、最後の賭けに出た。彼は、懐から、ヴァレリウスに託された、あの古びたカードキー――『調律師の鍵』――を、取り出した。
そして、それを、扉そのものに、強く叩きつけた。
「お前たちが遺した、最後の矛盾!その答えは、これだろうが!」
カードキーが紋章に触れた瞬間、聖域全体が、白い光に包まれた。
カウントダウンの音が、止まる。迫り出していた隔壁が、音もなく、壁の中へと収納されていく。
そして、目の前で、数世紀もの間、誰一人として開けることのできなかった絶対の扉が、ゴウ、という地響きのような、荘厳な音を立てて、ゆっくりと、内側へと、その門を開いた。
静寂が、戻る。
ロゴスは、荒い息をつきながら、膝に手をついた。
彼の目の前には、扉の向こう側、深い闇の中に、一つの祭壇がぼんやりと浮かび上がり、その上に安置された、一つの結晶体が、まるで呼吸をするかのように、妖しい光を明滅させているのが、見えていた。
『……歓迎する、我らが、後継者よ』
創設者たちの声が、今度は、穏やかな祝福の響きをもって、彼を迎え入れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十七話、いかがでしたでしょうか。
ついに、ロゴスは鋼鉄の聖域の、その心臓部の扉を開きました。彼の前に立ちはだかったのは、物理的な罠ではなく、都市の創設者たちが遺した、究極の論理パズルでした。
しかし、安堵したのも束の間、扉の向こうには、さらなる罠が待ち構えています。物語は、ここから第1巻のクライマックスへと、一気に加速していきます。
もし、この先のロゴスの知的な戦いにご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




