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2.2.2.(第26節)「三分間の賭け」

真夜中の鐘が、反逆の始まりを告げる。

電子の魔術が都市の目を欺き、忘れられた道が鋼鉄の聖域へと続く。

探偵は、ただ独り、光の届かぬ深淵へとその身を沈める。

全ては、未来をその手に掴むための、たった三分間の賭けのために。

孤独な潜行の先に待つは、神の叡智か、それとも竜の顎か。

イゼルガルドの鐘が、真夜中を告げた。

重く、厳かな響きが、上層から下層まで、この巨大な絡繰都市の隅々にまで染み渡っていく。それは、一日の終わりと始まりを告げる、規則正しい時報。だが、今夜、この下層街のさらに奥深く、ギデオンのガラクタ屋敷に潜む四人の共犯者たちにとって、その鐘の音は、戦争の始まりを告げる号砲の響きを持っていた。

店の奥、複数のモニターが放つ青白い光の中心で、ロゴスはゆっくりと立ち上がった。八時間前の、死線を彷徨った男とは思えぬほど、その動きには一切の淀みがなかった。肺の奥で疼く鈍い痛みも、全身を苛む打撲の熱も、極限まで研ぎ澄まされた精神の前では、遠い世界のノイズに過ぎなかった。彼の瞳は、羊皮紙の上に広げられたギルド中央支部の設計図――これから挑むべき戦場の地図――を、最後の確認とばかりに焼き付けていた。

「時間だ」

ロゴスの低い声が、張り詰めた空気を震わせた。その言葉を合図に、それぞれが持ち場に着く。

ギデオンは、キセルの火を揉み消すと、まるで老練なピアニストのように、指先でコンソールを撫でた。彼のモニター群の一つが、第十五区画『忘れられた歯車亭』周辺の、全ての裏社会の監視ログを統合した画面に切り替わる。巣穴に潜む毒蜘蛛、『シャドウ』の一挙手一投足が、今やこの老情報屋の掌の上にあった。

「いつでもいけるぜ、野良犬。奴が便所に立つ回数まで、きっちり数えててやる」

ヴァレリウスは、古びたロッキングチェアに深く腰掛けたまま、静かに目を閉じていた。だが、その穏やかな表情とは裏腹に、彼の老いた頭脳は、ギルド創設期から受け継がれる、あらゆる論理パズルのパターンと、その脆弱性を反芻していた。彼は、ロゴスが遭遇しうる、知的な罠に対する、最後の保険だった。

「……若いの。決して、驕るな。マキナの知性は、我々の想像を常に超えてくる。だが、奴の傲慢さもまた、我々の想像を超える。突くべきは、そこだ」

そして、アニマは、予備のコンソールの前に、まるで祈りを捧げる乙女のように、静かに座していた。彼女のサファイアの瞳には、これから始まる電子の戦争の、無数の戦術とシミュレーション結果が、光の奔流となって渦巻いていた。彼女の戦場は、物理的な通路ではない。この都市の神経網そのものである、広大無辺なネットワークの深淵だった。

「陽動プログラム、スタンバイ。ギルド内部監視システムへの介入準備、完了しました。いつでも、あなた様の影を消し去れます」

その言葉に、ロゴスは静かに頷いた。彼は、燃え残った外套を力強く羽織ると、ヴァレリウスが示した、店の奥にある隠し通路へと向かった。

「アニマ」

通路の闇に消える直前、彼は振り返り、ただ一言、相棒の名を呼んだ。

「はい、ロゴス様」

「……戻ったら、美味いコーヒーを淹れてくれ。代用品じゃないやつをだ」

その言葉は、あまりにも場違いで、あまりにも人間的だった。アニマの論理回路は、その命令の意図を処理しきれず、一瞬だけ思考を停止させた。だが、彼女の共感コアは、その言葉の奥に隠された、不器用で、しかし絶対的な信頼の響きを、正確に受信していた。

「……承知いたしました。最高の豆を、用意しておきます」

彼女がそう答えた時、ロゴスの姿は、もう闇の中へと完全に消えていた。

ヴァレリウスの工房へと繋がる、旧時代のメンテナンス用地下道。そこは、忘れられた都市の血管だった。空気は、湿った土の匂いと、何世紀にもわたって蓄積された金属の錆の匂いが混じり合い、まるで古代の墓所の中に足を踏み入れたかのようだった。光源は一切ない。ロゴスは、ポケットから取り出したペンライトの、細く鋭い光だけを頼りに、迷路のような通路を進んでいく。壁からは、正体不明の液体が絶えず染み出し、足元には、粘ついた泥が纏わりついた。

『ロゴス様。現在位置、ギルド中央支部基底層、セクターガンマの直下です。ここから先、設計図によれば、旧式の音響センサーと熱感知センサーが、網の目のように張り巡らされているはずです』

耳元の通信機から、アニマのクリアな合成音声が届く。彼女は、もはやこの闇の中の、ロゴスの第二の目となっていた。

「分かっている。ヴァレリウス殿の教え通り、動力パイプの影を辿る」

ロゴスは、頭上を走る、今はもう使われていない巨大な動力パイプを見上げた。ヴァレリウスによれば、これらのパイプは、建設当時に発生する微弱な熱と振動を隠蔽するために、意図的にセンサー網の死角となるように配置されているのだという。彼は、まるで猿のように、パイプにぶら下がり、その影だけを伝って、闇の中を音もなく進んでいく。元・異端審問官として叩き込まれた身体能力が、この絶望的な潜行を可能にしていた。

数十分が、まるで数時間のように感じられた。やがて、彼は地下道の終点、ギルド中央支部の、最も古い基底部へと繋がる、錆びついたメンテナンスハッチの前にたどり着いた。ここから先が、本当の敵地だ。

『陽動を開始します』

アニマの静かな宣言と共に、ロゴスは息を殺した。彼女の指先が、今、遠く離れた下層街のガラクタ屋敷で、都市の運命を左右する、最初の引き金を引いたのだ。

第十二区画と第十三区画を繋ぐ、中央大環状線の動力制御システム。その旧式のAIの心臓部に、アニマは、幽霊のように忍び寄った。彼女が放ったのは、物理的な破壊を伴うウイルスではない。それは、あまりにも微弱で、あまりにも繊細な、偽りの信号。あたかも『論理の錆』が、その最初の産声を上げたかのように見せかける、完璧に偽装された、電子の囁きだった。

システムは、即座に反応した。未知の、しかしデータベースが警告する最も危険な汚染パターンを検知した制御AIは、パニックに陥り、思考をループさせ、自らが管理する区画の全ての動力供給を、緊急プロトコルに従って遮断した。そして、異端審問庁の司令室に、最高レベルの、都市インフラの崩壊を意味する警報を、けたたましく鳴り響かせた。

ギデオンの店のモニターの一つが、審問庁内部の通信を傍受し、その慌ただしいやり取りをテキストとして表示していく。

『第十二区画で大規模なシステムダウン!原因不明!『論理の錆』の可能性、極めて高し!』

『ヴェリタス様にご報告!直ちに現場へ!』

『全機動部隊、第十二区画へ急行せよ!これは、訓練ではない!』

「……食いついたぜ、野良犬」ギデオンが、満足げに呟いた。「潔癖症の坊ちゃんが、すっ飛んで行ったわ」

陽動は、成功した。ロゴスは、錆びついたハッチを、音を立てないように慎重にこじ開けると、ついに、鋼鉄の竜の体内へと、その身を滑り込ませた。

そこは、旧時代の遺物と、最新鋭のテクノロジーが、悪夢のように混在する空間だった。頭上を、青白い光を放つ最新の警備ドローンが、規則正しいルートで巡回している。だが、その足元には、ヴァレリウスが警告した通り、旧式の、しかし今なお有効な物理的トラップが、無数に仕掛けられていた。

『ロゴス様。前方三メートル、床下に赤外線グリッド。その先、通路の天井に、指向性の音響センサーが設置されています。ドローンの巡回ルートとのタイミングを計算します。同期まで、あと12秒』

アニマの声が、彼の網膜に、進むべきルートを青い光の線として描き出す。ロゴスは、彼女が算出した完璧なタイミングで、影から影へと、まるで幽霊のように飛び移る。ドローンが頭上を通過する、ほんのコンマ数秒の死角を突き、赤外線グリッドの上を跳び越え、音響センサーが反応しない特殊な素材でできた壁の凹みに、その身を滑り込ませた。

『内部監視システムへ介入。セクターデルタの監視カメラ映像を、三十秒前のものとループさせます。あなた様がこの区画を通過する、二十秒間は、監視室のモニターには、何も映りません』

アニマの電子の魔術が、竜の視覚を完璧に奪い去る。ロゴスは、その僅かな時間で、開けた通路を駆け抜けた。彼の進む先々で、ヴァレリウスがその記憶の底から掘り起こした、旧時代の抜け道が、まるで彼を導くかのように、次々と姿を現した。今はもう使われていないはずの、換気ダクト。設計図から意図的に消された、壁の裏の隠し通路。百年前の技術者たちが、自らのサボタージュのために遺した、ささやかな反逆の痕跡が、今、百年後の反逆者の、命綱となっていた。

だが、敵もまた、無能ではなかった。

『警告!ギルドの防衛AIが、ネットワーク内の不自然なデータフローを検知!監視システムの自己診断プロトコルを起動させようとしています!ループを維持できるのは、あと五秒!』

アニマの切羽詰まった声と同時に、ロゴスの目の前で、それまで開いていたはずの隔壁が、けたたましい警告音と共に、閉鎖を始めた。防衛AIが、アニマの介入に気づき、この区画そのものを物理的に封鎖しようとしているのだ。

「……ちっ!」

ロゴスは舌打ちすると、最後の賭けに出た。彼は、閉じゆく隔壁の、僅かな隙間へと、銃弾のようにその身を投じた。鋼鉄の扉が閉まる、コンマ数秒前。彼の身体は、衝撃と共に、向こう側の通路へと転がり込んだ。分厚い隔壁が、彼の背後で、絶対的な終端を告げる、重い金属音を響かせる。右肩に、隔壁に擦った熱い痛みが走ったが、今は構っていられなかった。

彼は、ついにたどり着いたのだ。

ゆっくりと身を起こすと、目の前には、それまでの無機質な通路とは、全く異質な光景が広がっていた。

そこは、巨大な円形のホールだった。壁も、床も、天井も、全てが継ぎ目のない、黒曜石のような滑らかな素材でできており、まるで巨大な機械の心臓の内部にいるかのようだった。そして、その中央。ホールの最も奥に、一つの扉が、荘厳なまでの威圧感を放って、静かに佇んでいた。扉には、鍵穴も、コンソールもない。ただ、都市の創設者たちの紋章だけが、青白い光を放って、静かに刻まれている。

『始原の聖域』

ヴァレリウスの知識も、ギデオンの情報網も、そしてアニマのハッキング能力でさえも、ここから先は通用しない。

『ロゴス様……!』

通信機の向こうで、アニマが安堵の声を上げる。

「……ああ、無事だ。だが、ここからは、俺一人だ」

ロゴスは、静かに告げた。彼の瞳は、目の前の、絶対的な沈黙を守る扉を、ただじっと見据えていた。

この扉の向こうに、マキナ卿の野望の核心、『時空間結晶』が眠っている。そして、この扉を開けるための手段は、もはや、物理的な鍵でも、電子的なパスワードでもない。

彼の『論 legales的鋭敏性』だけが、この扉に隠された、創設者たちの思考そのものを読み解く、唯一の鍵となる。

反撃の夜は、まだ始まったばかり。そして、本当の賭けは、ここからだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十六話、いかがでしたでしょうか。

ついに始まった、ギルド中央支部への決死の潜入作戦。仲間たちの支援を受け、ロゴスは鋼鉄の聖域の、その心臓部の目前までたどり着きました。

しかし、彼の前に立ちはだかるのは、物理的な鍵では開かぬ、最後の扉。それは、都市の創設者たちが遺した、究極の論理パズルです。

もし、この先のロゴスの知的な戦いにご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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