2.2.1.(第25節)「鋼鉄の聖域」
古き歯車が託した、最後の鍵。
それは、絶望の闇を切り裂く一筋の光か、それとも、竜の顎へと誘う甘い罠か。
狩るべき獲物の姿は、二つ。血塗られた暗殺者と、都市の魂を掌握する禁断の秘宝。
探偵は、仲間と共に、知略の全てを賭けた、あまりにも無謀な設計図を描き始める。
鋼鉄の聖域を穿つ、たった三分間の戦争。その緻密な序曲が、今、静かに奏でられる。
第九区画の心臓部、第三蒸気管理塔の内部は、外の轟音が嘘のように静まり返っていた。壁一面の絡繰時計が刻む、無数の、しかし調和のとれた秒針の音だけが、まるで巨大な機械生命体の呼吸のように、この秘密の書斎の空気を震わせている。その中心で、一つの時代を終えようとする老技術者と、新しい時代をこじ開けようとする若き探偵は、言葉もなく、ただ互いの瞳の奥にある、同じ色の決意を見つめ合っていた。
ロゴスの手の中には、確かな重みと、象牙のようなひんやりとした感触があった。『調律師の鍵』。都市の創設者たちが遺した、最後の、そして最大の禁忌。ギルド中央支部の最深層『始原の聖域』へと至るための、唯一無二のマスターキー。ヴァレリウスという名の、古く、しかし決して錆びることのなかった歯車が、自らの信じた正義の過ちを認め、未来を託すために差し出した、魂の欠片そのものだった。
「……感謝します、ヴァレリウス殿」
ロゴスの声には、もはや激情も、焦燥もなかった。ただ、これから為すべきことの、そのあまりの巨大さと、そして、それを託されたことへの、静かな覚悟だけが宿っていた。「あなた様の、そして、ゼノン顧問の、そして、私の師であったソフィアの、その無念。私が、必ず晴らしてみせます」
「……頼んだぞ、若いの」
ヴァレリウスは、深く、深く、頭を下げた。それは、元老院の重鎮が、追われる身の元・審問官に示す敬意ではなかった。それは、一つの時代を終えようとする者が、次代を担う者に、自らの魂の全てを託す、静かで、そして何よりも重い、誓いの儀式だった。
蒸気管の轟音が、遠くで、まるで新しい時代の産声のように、低く、長く、響き渡っていた。
◇
下層街の混沌へと戻った時、ギデオンの店の厚い鉄の扉は、外界の喧騒と危険から彼らを守る、唯一無二の要塞のように思えた。ヴァレリウスは密会場所である工房には戻らず、ロゴスたちと共にこのガラクタ屋敷へと身を寄せることを選んだ。彼の持つギルド創設期からの知識は、これからの作戦において、何物にも代えがたい武器となるからだ。
店の奥、複数のモニターが放つ青白い光に照らされた作業台に、ロゴスは『調律師の鍵』を静かに置いた。その隣には、エーテル・ウイルスのプロトタイプが封入されたクリスタルの小瓶と、マキナ卿の思考ログが収められたデータチップが並べられている。この小さなテーブルの上が、今や、この都市イゼルガルドの運命を左右する、戦争の司令部そのものだった。
「……とんでもねえ代物を持ち帰ってきやがったな、野良犬」
ギデオンは、ゴーグルの奥の目を細め、『調律師の鍵』を、まるで神話の遺物でも見るかのように眺めながら言った。「創設者たちの裏口の鍵、か。こんなモンが、まだこの世に実在したとはな。で、どうするんだ?こいつを懐に、マキナの城に殴り込みでもかけるってのか?」
「殴り込み、か。それも悪くない」ロゴスは、まだ痛む身体を椅子に預けながら、不遜な笑みを浮かべた。「だが、相手は竜だ。正面から行って、この身一つでどうにかなる相手じゃない。狩りには、緻密な準備と、獲物を追い詰めるための罠が必要だ」
彼は、ガラクタの山から一枚の大きな羊皮紙を引きずり出すと、テーブルの上に広げた。それは、ギデオンが闇市場から手に入れた、ギルド中央支部の、古いが最も詳細な設計図だった。
「目的は二つ。一つは、この設計図の最深部、『始原の聖域』に保管されている『時空間結晶』の確保。これが、マキナ卿の計画の心臓部を止めるための、絶対的な物証となる」
彼の指が、設計図の中心、幾重もの隔壁とセキュリティ区画に守られた一点を、強く叩いた。
「そして、もう一つ。マキナ卿の『左手』、暗殺者シャドウの無力化だ。奴は、俺たちが時空間結晶を手に入れ、ヴェリタスを動かすための、物理的な証人となる」
彼は、傍らでモニターを監視していたアニマに視線を送った。
「アニマ、シャドウの現在の状況は?」
「はい、ロゴス様」アニマは、そのサファイアの瞳をモニターに向けたまま、淀みなく報告する。「対象は、依然として第十五区画『忘れられた歯車亭』の404号室に留まっています。ギデオン様の監視網によれば、この十二時間、一切の外出は確認されていません。食料の補給も、外部の協力者が行っている模様。まるで、何かの命令を待つ、巣穴の中の毒蜘蛛です」
「命令、か」ロゴスは呟いた。「おそらく、俺たちがヴァレリウスと接触したことは、マキナ卿の耳にも入っているだろう。奴は、俺たちが次の一手を打つのを、慎重に待っている。そして、シャドウは、俺たちが動いた瞬間に、俺の息の根を止めに来る。あるいは、ヴァレリウスを」
「つまり、我々は二つの戦線を、同時に戦わなければならない、ということですね」アニマが、静かに分析結果を告げた。
「その通りだ」ロゴスは頷いた。「だからこそ、計画が必要だ。アニマの電子戦能力と、俺の機転、そして、ヴァレリウス殿とギデオン、あなた方が持つ、この都市の光と闇の知識。その全てを組み合わせた、大胆な計画が」
作戦会議は、そこから始まった。それは、四人の、それぞれの専門分野と思惑が交錯する、濃密な知恵の応酬だった。
「最大の問題は、ヴェリタスだ」ロゴスは、設計図の上に、異端審問庁の紋章を描き加えた。「ギルド中央支部は、奴の管轄区画のど真ん中にある。俺たちが潜入すれば、どれだけ巧妙にやったとしても、いずれは奴の知るところとなる。鉢合わせすれば、即座に戦闘、そして拘束。全てが終わる」
「奴を、別の場所に釘付けにすることはできんのかね?」ヴァレリウスが、深い皺の刻まれた顔で、静かに問うた。「例えば、審問庁が無視できぬほどの、大規模な『事件』を、どこか別の場所で起こすとか」
「陽動、か」ギデオンが、キセルの煙を燻らせながら応じた。「下層街のゴロツキを焚きつけて、一つ二つ、デカい暴動でも起こさせてやることはできる。だが、星付きのヴェリタスが、自ら動くほどの事件となると……」
「いえ、その必要はありません」
それまで黙って膨大なデータを解析していたアニマが、静かに、しかし絶対的な自信を込めて言った。彼女はモニターの一つに、イゼルガルドの複雑な交通管制システムのネットワーク図を映し出す。
「物理的な陽動は、痕跡を残し、ヴェリタス審問官に、我々の意図を勘繰られる危険性があります。ですが、電子的な陽動ならば、より静かに、そしてより確実に、彼の注意を逸らすことが可能です」
彼女の指先が、コンソールの上を滑るように動き、ネットワーク図の一点を拡大した。
「第十二区画と第十三区画を繋ぐ、中央大環状線の動力制御システム。ここの旧式の制御AIには、既知の脆弱性が存在します。私が、外部から極めて微弱な、しかし『論理の錆』の初期パターンに酷似したエラー信号を断続的に送り込めば、システムはそれを重大なインフラ汚染の兆候と誤認し、最高レベルの警報を発令します。管轄区の異端審問官は、この警報を無視することは、規則上、絶対に不可能です」
「……なるほど」ヴァレリウスが、感心したように唸った。「存在しない幽霊を追いかけさせる、というわけか。しかも、相手が最も神経質になっている『論理の錆』で、か。悪趣味だが、効果的だ」
「だが、ヴェリタスは馬鹿じゃない」ロゴスが、慎重に問いを重ねた。「奴は、現場に到着し、それが偽の警報であることにいずれ気づく。俺たちに残された時間は、どれくらいだ?」
「彼が現場に到着し、初期調査を終え、偽装であると断定するまで、およそ三十分。そして、それが陽動であり、真の目的が別にあると気づき、中央支部へと転進するまで、さらに十五分。合計で、四十五分。それが、我々が自由に動ける、最大限の時間です」アニマは、即座に弾き出した。
「四十五分か……」ロゴスは、設計図を睨んだ。「長すぎる。そして、短すぎる。だが、やるしかない。潜入ルートは、ヴァレリウス殿から教わった、旧時代のメンテナンス用地下道を使う。アニマ、君は、俺が地下道に入るのと同時に、陽動を開始。そして、俺が中央支部の深層に到達するまでの間、ギルドの内部監視システムにループ映像を流し続け、俺という名のノイズを、完全に消し去ってくれ」
「はい、ロゴス様。お任せください」
「そして、最大の問題は、この『調律師の鍵』だ」ロゴスは、古びたカードキーを指先で弾いた。「ヴァレリウス殿の話では、効果時間は、わずか三分。この三分間で、聖域の全てのセキュリティを突破し、時空間結晶を確保し、そして脱出しなければならない」
「無茶だ」ギデオンが、吐き捨てた。「聖域の内部構造は、この古い設計図にすら載ってねえ。どんな罠が待ってるかも分からん。三分なんざ、あっという間だ」
「だからこそ、これは賭けなんだ」ロゴスは、獰猛な笑みを浮かべた。「俺は、賭けには強い。聖域の扉の前までは、俺たちの知恵と技術で、確実に行ける。だが、最後の扉を開けた先は、俺の『論理的鋭敏性』という、証明不能な勘だけが頼りだ。俺は、マキナ卿の思考の癖を読む。奴が、どんな場所に、どんな形で、最も大切な宝物を隠すのか。その論理の矛盾を、必ず見つけ出す」
彼の瞳には、狂気と紙一重の、純粋な探求者の光が宿っていた。それは、この絶望的な作戦を成功させるかもしれない、唯一の可能性の光だった。
「……決まりだな」
ロゴスは立ち上がり、外套を力強く羽織った。彼の身体はまだ万全ではない。だが、その背中は、もはや追われる者のそれではなかった。反撃の狼poisonを上げる、一人の指揮官の背中だった。
「作戦開始は、今夜。都市の鐘が、真夜中を告げるのと同時だ。それまで、各自、準備を。アニマは、陽動とハッキングの最終シミュレーションを。ギデオンは、俺が戻るまでの、シャドウの監視と、万が一のための、俺たちの逃走経路の確保を。ヴァレリウス殿には、聖域内部に仕掛けられている可能性のある、古い論理パズルのパターンについて、ご教授願いたい」
四人の視線が、交錯する。そこには、恐怖も、絶望もなかった。ただ、自らが信じるもののために、巨大な悪へと挑む、共犯者たちの、静かで、そして熱い決意だけがあった。
鋼鉄の聖域を穿つ、あまりにも無謀で、しかし、あまりにも美しい計画。その全ての歯車が、今、確かな音を立てて、噛み合った。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十五話、いかがでしたでしょうか。
ついに、巨悪の計画の核心である『時空間結晶』を奪取するための、具体的な作戦が練り上げられました。それぞれの仲間たちの能力と知識を結集した、緻密で、そして大胆な潜入計画。しかし、その成否は、ロゴスの最後の賭けに委ねられています。
もし、この先の決死の潜入作戦に、胸が躍りましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、探偵の思考をより鋭く、深くします。
ついに始まる反撃の夜。どうぞ、お見逃しなく。




