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2.1.4.(第24節)「時空間結晶の在処」

古き歯車は、自らの信じた正義の過ちを認め、最後の抵抗を決意する。

探偵に託されるは、狂気の計画の核心に至る、ただ一本の細き蜘蛛の糸。

ギルドの心臓部に眠る、都市の魂を掌握するための禁断のアーティファクト。

その在処が、今、明かされる。

絶望的な潜入作戦の幕開けは、一つの古びた鍵に託された。

静寂が、まるで分厚い鉛の壁のように、第九区画の蒸気管理塔の内部を支配していた。壁に掛けられた無数の絡繰時計が、それぞれのリズムで時を刻む微かな音だけが、時間の流れが完全に止まったわけではないことを、かろうじて証明している。だが、この部屋にいる三人の男女にとって、その秒針の音は、もはや意味をなさなかった。彼らは、歴史という名の巨大な時計の、その歯車が大きく、そして決定的に噛み合おうとする、その瞬間に立ち会っていたのだから。

「……若いの。君の名は、ロゴス、と言ったな」

技術魔術師ギルド元老院、元重鎮、ヴァレリウス。その老人の、仮面のように硬質だった表情は完全に砕け散り、そこには、自らが育てた弟子の暴走を止められなかったことへの、深い悔恨と、そして、全てを失ってでも最後の抵抗を試みようとする、鋼のような決意だけが刻まれていた。彼の震える手の中には、ロゴスが地獄の底から持ち帰った、エーテル・ウイルスのプロトタイプが封入されたクリスタルの小瓶が、まるで汚れきった聖杯のように、妖しい光を放っている。

「すまなかった。私は、見るべきものから、目を逸らしていた。……君の言う通りだ。あいつは、もはや私の知るマキナではない。止めなければならん。たとえ、この老いぼれた身が、奴の築いた狂気の歯車に噛み砕かれることになったとしても」

古き歯車は、再び、その役割を思い出した。それは、ただ静かに時を刻むことではない。狂った機械を、内側から、自らの身を犠牲にしてでも、止めること。

「……礼を言います、ヴァレリウス殿」ロゴスは、静かに頭を下げた。それは、儀礼的なものではない。この絶望的な戦場で、初めて見出した、同じ理想を共有できるかもしれない、ただ一人の仲間に対する、偽りのない敬意の表れだった。「ですが、あなた様お一人の力では、もはやマキナ卿は止められない。奴の毒は、ギルドの、そして審問庁の深層にまで回り切っている。奴を断罪するには、あの男……ヴェリタスのような、規則の番人ですら決して目を逸らすことのできない、絶対的な物証が必要です」

「分かっておる」ヴァレリウスは、ロゴスの手から受け取ったプロトタイプの小瓶を、作業台のライトにかざした。琥珀色の液体の中で明滅する無数の光の粒子が、彼の老いた瞳に、不気味な光の点を映し出す。「この『電子の毒』が、その一つであろう。私の知識と設備をもってすれば、この液体に含まれるエーテル同位体の組成を分析し、マキナの研究室でしか生成し得ないものであるという、物理的な証明書を作成することは可能だ。だが……」

彼は、ゆっくりと首を振った。

「それだけでは、足りん。奴は、こう言うだろう。『これは、私が研究していたものではない。ロゴスという名のテロリストが、私を陥れるために捏造したものだ』と。審問庁の共犯者が、その嘘を裏付けるための、完璧な偽の証拠を、いくらでも用意する。我々には、奴がこのウイルスを『使おうとしていた』という、動かしようのない状況証拠が、もう一つ必要なのだ」

「その通りです」ロゴスは頷いた。「だからこそ、私はあなた様に伺いたい。マキナ卿が、このウイルスを使い、思考機関を掌握するための、最後の鍵。彼が、ゼノン顧問を殺してまで手に入れようとした、禁断のアーティファクト。『時空間結晶』。……その在処を、ご存知のはずだ」

その単語が口にされた瞬間、部屋の空気が、さらに一段、張り詰めた。ヴァレリウスは、ゆっくりと小瓶を作業台に置くと、深く、そして重いため息をついた。それは、長年、ギルドの最も深い場所に秘匿されてきた、最後の禁忌に触れることへの、覚悟のため息だった。

「……やはり、君はそこまでたどり着いていたか」彼は、まるで遠い過去を懐かしむかのように、目を細めた。「クロノ・クリスタル。ギルドの創設者たちが、神の領域に手を伸ばそうとして創り出し、そして、そのあまりの危険性に、自ら封印した、呪われた遺産。記録を『観る』だけではない。記録を『書き換える』ことで、過去さえも改竄し、未来を意のままに操りかねない、究極の論理兵器。……マキナが、それを狙っていたとはな」

「彼は、その兵器を手に入れることで、このイゼルガルドの、新しい神になろうとしています」

「ああ、そうであろうな」ヴァレリウスは、静かに肯定した。「あいつは、昔からそうだった。完璧な論理を愛し、人間の不完全さを、心の底から憎んでいた。彼にとって、歴史とは、修正すべきエラーの積み重ねに過ぎんのだろう。……よかろう。全てを話そう。この老いぼれの、最後の告白として」

彼は、ロッキングチェアに再び深く腰かけると、ギシ、という軋み音と共に、ゆっくりと記憶の扉を開き始めた。

「時空間結晶は、一つではない。都市の創設期に、三つが創られた。一つは、実験中の事故で暴走し、大解体以前に失われた。もう一つは、評議会が厳重に管理し、その在処は、議長ですら知らされぬという。そして、最後の、三つ目。それだけが、ギルドの管理下に遺された。だが、それは、ギルドの誰もが自由に触れられるものではない。創設者たちは、その悪用を恐れ、ギルド本部の、最も安全で、そして最も深い場所に、それを封印したのだ」

「ギルド中央支部……」ロゴスは、息を詰めてその言葉を待った。

「そうだ。上層区画にそびえる、我らがギルドの心臓部。その、最深層にある『始原の聖域サンクタム・プライマス』と呼ばれる区画だ。そこは、物理的な力では決して到達できぬ場所。幾重にも張り巡らされた生体認証、思考パターン認証、そして、創設者たちが仕掛けた、解読不能の論理パズルによって、完璧に守られている。ギルドマスターであるマキナですら、元老院の、それも三人以上の承認がなければ、その扉に近づくことすら許されん」

それは、絶望的なまでに難攻不落の要塞だった。ロゴスたちの手元には、その扉を開けるための、いかなる権限も、手段も存在しない。

「……だが」

ヴァレリウスは、続けた。その瞳に、悪戯っ子のような、しかしどこか悲しげな光が宿る。

「どんな完璧な絡繰にも、設計者の意図せぬ『遊び』や、万が一のための『裏口』は存在する。創設者たちも、神ではなかった。彼らは、自らが創り出したこの封印が、いつか、ギルドそのものを内部から蝕むような、絶対的な悪意の手に落ちる可能性を、危惧していたのだ。だから、彼らは遺した。たった一つの、全ての論理と権限を飛び越えて、聖域へと至るための、最後の鍵を」

彼は、ゆっくりと立ち上がると、書斎の壁に掛けられた、一つの巨大な絡繰時計の前へと歩み寄った。それは、この部屋にあるどの時計よりも古く、そして複雑な機構を持っていた。文字盤には数字ではなく、古代の錬金術記号が刻まれ、長針と短針は、まるで生き物のように、不規則なリズムで時を刻んでいる。

ヴァレリウスは、時計の特定の場所を、指先で、まるで愛しい我が子を撫でるかのように、そっと触れた。すると、カチリ、という小さな音と共に、時計の文字盤の一部がスライドし、その下から、小さな鍵穴が現れた。彼は、懐から、年季の入った真鍮の鍵を取り出すと、その鍵穴に差し込み、ゆっくりと回した。

ゴウ、という低い駆動音が、部屋の床下から響き渡る。壁際の本棚の一つが、音もなく横へとスライドし、その背後に、人が一人、やっと通れるほどの、暗い通路が姿を現した。

「この工房は、私が若い頃、まだギルドの権力闘争に嫌気が差す前に、来るべき日のために、密かに用意しておいた、私の最後の砦だ。そして、この通路は、ギルド中央支部の、最も古い、今はもう使われていないはずの、メンテナンス用の地下道へと繋がっている」

彼は、通路の入り口の壁に手を伸ばし、一つの緩んだレンガを引き抜いた。その奥には、革のポーチに収められた、一枚の古びたカードが、静かに眠っていた。カードは、象牙のような、未知の素材でできており、その表面には、複雑な金属の回路が埋め込まれている。

「そして、これが、その裏口を開けるための、唯一無二の鍵だ」

ヴァレリウスは、そのカードを、まるで自らの魂の一部を切り離すかのように、ゆっくりと、そして慎重に、ロゴスへと手渡した。

「『調律師のチューナーズ・キー』。創設者たちが、ギルドのシステムが致命的な矛盾に陥った際に、全てをリセットするために用意した、マスターキーだ。これを使えば、一度だけ、三分間だけ、始原の聖域へと続く、全てのセキュリティを、完全に沈黙させることができる。だが、使えば、即座にギルド全域に最高レベルの警報が鳴り響き、君は、都市で最も危険な侵入者として、ギルドの全戦力から追われることになるだろう。……それでも、行くかね?」

その問いは、もはや問いではなかった。それは、この老人が、目の前の若き探偵に、自らの、そしてギルドの、いや、この都市の未来そのものを託すための、最後の儀式だった。

ロゴスは、その古びたカードキーを、確かな重みをもって受け取った。ひんやりとした、象牙のような感触。そこに刻まれた金属回路は、まるでまだ見ぬ戦場の地図のように、彼の指先に、その複雑なパターンを伝えていた。

「……感謝します、ヴァレリウス殿」

彼の声には、もはや激情も、焦燥もなかった。ただ、これから為すべきことの、そのあまりの巨大さと、そして、それを託されたことへの、静かな覚悟だけが宿っていた。

「あなた様の、そして、ゼノン顧問の、そして、私の師であったソフィアの、その無念。私が、必ず晴らしてみせます」

「……頼んだぞ、若いの」

ヴァレリウスは、それだけ言うと、深く、深く、頭を下げた。それは、元老院の重鎮が、追われる身の元・審問官に示す敬意ではなかった。それは、一つの時代を終えようとする者が、次代を担う者に、自らの魂の全てを託す、静かで、そして何よりも重い、誓いの儀式だった。

蒸気管の轟音が、遠くで、まるで新しい時代の産声のように、低く、長く、響き渡っていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギ-ト・エルゴ・モルテム』第二十四話、いかがでしたでしょうか。

ついに、巨悪の計画の核心である『時空間結晶』の在処と、そこへ至るための最後の鍵が、ロゴスの手に託されました。老技術者ヴァレリウスの決意が、絶望的な状況に、一条の光を差し込みます。

しかし、その先で待つのは、ギルドの全戦力を敵に回す、あまりにも危険な潜入作戦です。

もし、この先の二人の決死の戦いを見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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