2.1.2.(第22節)「老技術者の告白」
巨悪の根は、敵の砦にのみあらず。信じるべき組織の心臓にまで巣食う。
絶望の淵で、探偵が求めるは、敵の砦に眠る、最後の良心。
腐敗した機構の中で、ただ一つ、正しく時を刻み続けた古き歯車。
その軋む音が、反撃の新たな旋律を奏で始める。
墓石のように重い沈黙が、ギデオンの店の澱んだ空気を支配していた。複数のモニターが放つ青白い光だけが、壁一面のガラクタの山に不気味な陰影を落とし、まるで巨大な機械の肋骨の内側にいるかのような錯覚を覚えさせる。その光の中心で、一つの名前が、断罪の烙印のように、あるいは死刑宣告のように、静かに明滅していた。
『異端審問庁、最高情報管理官』
その電子署名が、マキナ卿の狂気の計画を支える部品調達リストの最終承認印として、揺るぎない事実を突きつけていた。ロゴスは、痛む身体を硬い寝台に預けたまま、その光を、燃え尽きた炭のような虚ろな瞳で見つめていた。第7廃棄研究所の爆炎を潜り抜け、地獄の底から持ち帰ったはずの勝利の証は、今や、さらに巨大で、底なしの絶望へと続く扉の鍵に成り果てていた。
技術魔術師ギルドだけではない。都市の秩序を守る最後の砦、自らがかつて所属し、そして追われた場所、異端審問庁そのものが、内側から腐り落ちていた。ヴェリタス。あの男の、潔癖なまでの正義と、硬直した規則への信仰。それら全てが、彼の気づかぬうちに、巨大な嘘の舞台装置の一部として機能していたのだ。彼が信じる組織そのものが、マキナ卿の毒に蝕まれていた。だからこそ、彼は「証拠がない」と断じ続けた。彼の元には、都合の悪い証拠など、最初から届きすらしなかったのだ。
「……ケッ。笑えねえ冗談だ」
最初に沈黙を破ったのは、作業台の椅子に深く腰掛け、分析結果を睨んでいたギデオンだった。彼はキセルの灰を床に叩きつけると、錆びついた歯車が軋むような声で言った。
「審問庁のトップまでグルだった、とくりゃあ、もうおしまいだぜ、野良犬。てめえがどれだけ決定的な証拠を掴もうが、奴らはそれを『捏造されたデータ』として握り潰す。てめえらは、もはや都市への反逆者じゃねえ。存在しねえ亡霊として扱われる。誰にも知られず、誰にも覚えられず、闇から闇へと消されるだけだ」
その言葉は、冷徹な事実だった。マキナ卿は、物理的な証拠だけでなく、その証拠を裁くべき司法の天秤そのものを、既に手中に収めていた。完璧な論理で構築された、出口のない絶望の迷宮。
ロゴスは、ゆっくりと身体を起こした。全身の打撲と、まだ癒えぬ肺の痛みが、鈍い悲鳴を上げる。だが、彼の瞳に、もはや虚無の色はなかった。そこにあったのは、全ての退路を断たれ、あまりにも巨大で、あまりにも美しい謎だけを前にした、ただ一人の探偵の、氷のように冷たく、そして獰猛な光だった。
「ああ、そうだな」彼は、掠れた声で応じた。「公式な手段は、これで完全に、跡形もなく消え失せた。俺たちがこれからやることは、法を逸脱した、ただの不法調査ですらなくなる。これは、テロだ。たった数人での、この都市の支配構造そのものに対する、絶望的な反逆行為だ」
「ロゴス様……」
彼の傍らで、アニマが心配そうにその顔を覗き込む。彼女のサファイアの瞳には、主人の身を案じる色と共に、彼が紡ぎ出す言葉の奥にある、決して折れることのない鋼の意志を正確に読み取った、絶対的な信頼の光が宿っていた。
「だがな、ギデオン」ロゴスは続けた。彼の口の端に、いつもの不遜な、しかし今はどこか楽しげですらある笑みが浮かぶ。「どんなに巨大で、どんなに完璧な絡繰機械も、必ず設計思想の異なる歯車が、いくつか混じっているものだ。特に、代替わりの時期にはな。古い歯車は、新しい歯車のやり方を、苦々しい思いで見ている」
彼は寝台から降りると、痛む身体を引きずりながら、ガラクタの山をかき分け、ギデオンの作業台へと歩み寄った。
「マキナ卿のやり方は、急進的すぎる。ギルドの古い連中の中には、奴のその傲慢さと、都市のバランスを崩しかねない危険な研究を、快く思っていない者たちが必ずいるはずだ。奴らは、マキナ卿の権勢を恐れて表立っては動けない。だが、水面下では、奴の失脚を願っている。敵の敵は、味方とは限らん。だが、利用できる駒にはなる」
「……ギルドの、穏健派を叩き起こす、ってのか」ギデオンは、ゴーグルの奥の目を細めた。「そいつらは、下層街のゴロツキとは訳が違う。用心深く、決して尻尾を掴ませねえ、老獪な古狸ばかりだぜ。お前さんみてえな、審問庁に追われる半端者が、どうやって接触する?」
「だからこそ、あんたの出番だろう、情報屋」ロゴスは、ギデオンの肩を叩いた。「あんたの、そのネズミのように嗅ぎ回る情報網で、その古狸の巣穴の場所を、探し出してもらう。俺が求めるのは、ただの穏健派じゃない。マキナ卿の師の世代に属し、奴の才能を認めながらも、その危険性を見抜き、今のギルドのやり方に絶望しているような、筋金入りの理想主義者だ。そして、願わくば、権力の中枢からは一歩引いた、元老院あたりの名誉職にでも就いて、悠々自適の隠居暮らしを送っているような男がいい。そういう男は、失うものが少ない分、最後の最後に、自らの信じる『正義』のために、命を懸けられる」
その無茶な要求に、ギデオンは大きくため息をついた。だが、彼の目には、面倒ごとを押し付けられたというよりも、解きごたえのあるパズルを与えられた職人のような、好奇の光が灯っていた。
「……お前さんは、昔からそうだ。この世で一番、人使いの荒れえ探偵だよ」
彼はそう吐き捨てると、おもむろにコンソールのキーボードを叩き始めた。常人には解読不可能な速度で、いくつものウィンドウが開き、閉じられていく。それは、都市の裏側を流れる情報の奔流を、老練な漁師が網ですくい上げるような、見事な手際だった。ギルドの内部人事記録、過去の派閥抗争の通信ログ、元老院議員たちのプライベートな資産情報。あらゆるデータが、彼のモニターの上で交差し、選別されていく。
アニマは、その横で、ギデオンとは違うアプローチで調査を開始していた。彼女は、ギルドの公式なデジタルアーカイブに潜り込み、過去数十年分の技術論文や、公開討論会の映像記録をスキャンしていく。彼女が探しているのは、特定の人物ではない。マキナ卿が提唱する「効率至上主義」や「技術による人間の再定義」といった思想に対し、異を唱えた、あるいは警鐘を鳴らした「声」そのものだった。
静かで、しかし濃密な時間が流れる。響くのは、二人のタイピング音と、解析装置の冷却ファンが唸る音だけ。ロゴスは、その光景を、壁に背を預けながら黙って見守っていた。彼は、二人の仲間が、この絶望的な状況下で、自らが示した僅かな可能性という光に向かって、それぞれの最強の武器を振るっていることを、ただ静かに信じていた。
どれくらいの時間が経っただろうか。最初に、アニマが顔を上げた。
「ロゴス様。候補者が、一名」
彼女は、モニターに一つの古い討論会の映像を映し出した。二十年以上前の、まだマキナ卿が若手のホープとして頭角を現し始めた頃の記録だ。壇上で、若きマキナが、思考機関による都市管理の完全自動化という、急進的な未来図を、淀みなく語っている。聴衆のほとんどがそのビジョンに魅了される中、一人だけ、壇下の最前列で、腕を組んだまま、厳しい表情で彼を見つめる老人がいた。
「この人物は、ヴァレリウス。当時のギルド元老院の重鎮です」アニマは、データベースから引き出した情報を表示させる。「彼は、マキナ卿の発表の後、ただ一つだけ質問をしています。『君の完璧な世界では、機械は過ちを犯さないのかね?』と。マキナ卿は『私の設計に、過ちなどという非論理的な概念は存在しません』と答えます。それに対し、ヴァレリウスは『ならば、君の世界は、あまりにも脆く、そして美しくない』とだけ言い残し、席を立った、と記録されています」
「……その後、そのヴァレリウスはどうなった?」
「彼は、その数年後、全ての公職を辞し、表舞台から完全に姿を消しました。公式な記録では、下層街に近い旧市街の工房で、古い絡繰時計の修復などをしながら、静かに余生を送っている、と」
その時だった。
「……見つけたぜ、野良犬」
ギデオンが、唸るように言った。彼のモニターには、ヴァレリウスの工房周辺の、裏社会の監視ログが表示されていた。
「この爺さん、ただの隠居じゃねえ。奴の工房には、今でも、マキナのやり方に不満を持つ、ギルドの古参連中が、夜な夜な『時計の修理』と称して集まってやがる。奴は、反マキナ派の、精神的な支柱……いわば、水面下のサロンの主だ」
全ての情報が、一点に収束した。ヴァレリウス。彼こそが、ロゴスが求めていた、最後の希望となりうる、古き歯車だった。
「だが、どうやって接触する?」ギデオンは、汚れた歯を見せて笑った。「奴の工房は、表向きはただの時計屋だが、裏じゃあ、俺の店の何倍もたちの悪い連中が出入りしてる。下手に近づけば、あんたが審問庁の回し者だと勘繰られて、バラバラにされて、時計の部品にされちまうのがオチだぜ」
「だから、正面からは行かん」ロゴスは、アニマが映し出したヴァレリウスの古い映像を、食い入るように見つめていた。その厳しい表情の奥に、彼は、師であったソフィアと同じ、技術への深い愛情と、それが誤って使われることへの強い憂いを、確かに感じ取っていた。「彼が信頼できる方法で、彼にしか解けないメッセージを送る」
彼は、アニマへと向き直った。
「アニマ。君の主、ゼノン顧問は、生前、ヴァレリウスと面識はあったか?」
「はい。私の記録によれば、数年前に一度だけ、非公式に。古い技術の保存に関する意見交換を、と」
「その時、二人はどんな会話を?」
アニマは、目を閉じて、自らの記憶の深層へとアクセスする。
「……ゼノン様が、ヴァレリウス様に、ある古い論理パズルを提示していました。『壊れた時計だけが、一日に二度、正しい時刻を示す。では、完全に正確な時計と、日に一分遅れる時計、どちらがより『正しい』と言えるかね?』と」
「ヴァレリウスの答えは?」
「彼は、こう答えました。『それは、何を『正しい』と定義するかによる。だが、私なら、日に一分遅れる時計を選ぶ。なぜなら、その時計は、自らが不完全であることを、常に教えてくれるからだ』と」
その言葉を聞いた瞬間、ロゴスの口の端に、確信に満ちた笑みが浮かんだ。
「……決まりだ。ギデオン、あんたの店の部品で、一番精度の悪い、ガラクタの歯車を一つ貸せ。そして、小さな箱を用意しろ」
彼は、ギデオンから受け取った錆びついた歯車を箱に収めると、一枚の羊皮紙に、ただ一言、こう書き記した。
『日に一分遅れる時計の修理を、お願いしたい』
「これを、あんたの所の運び屋に届けさせろ。名前は名乗るな。ただ、箱を置いてこさせるだけでいい」
ギデオンは、その奇妙なメッセージを一瞥し、そして、全てを理解したように、にやりと笑った。
「……なるほどな。古狸同士にしか通じねえ、挨拶、というわけか。面白え。やってやるよ」
反撃の、新たな一手は打たれた。それは、武力でも、脅迫でもない。ただ、一つの古い問答に込められた、互いの哲学と思想を問う、極めて静かで、知的な挑戦状だった。
この錆びついた歯車が、巨大な陰謀という名の絡繰機械を、内側から食い破る、最初の亀裂となるのか。ロゴスは、闇に消えていく運び屋の背中を見送りながら、これから始まる、新たな頭脳戦の、静かな幕開けを感じていた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十二話、いかがでしたでしょうか。
絶望的な状況の中、ロゴスは新たな活路を、敵の内部にいるはずの「声なき良心」に求めました。老技術者ヴァレリウス。彼が、この物語の新たな鍵を握る人物となります。
ロゴスが送った謎のメッセージは、果たして彼の心に届くのか。そして、二人の邂逅は、この膠着した状況をどう変えていくのか。
もし、この先の展開にご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




