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2.1.1.(第21節)「共犯者の署名」

狂気の神殿は崩れ落ち、探偵は地獄の底から生還した。

その手に握りしめるは、都市の運命を左右する、あまりにも危険な真実の欠片。

だが、巨大な悪意は、決して独りでは成立しない。

舞台裏で糸を引く、見えざる共犯者の影。反撃の狼煙は、まず、その影の輪郭を暴き出すことから始まる。

一つの取引記録が、次なる狩りの標的を、闇の中から照らし出す。

錆色の雨は、下層街では浄化ではなく、ただ世界の傷口に染み込む泥水に過ぎなかった。巨大なゴミ処理場の腐臭と、雨に濡れた金属の匂いが混じり合い、まるで都市そのものがゆっくりと腐敗していくかのような、終末的な空気を醸し出している。その只中を、一つの影が、亡霊のように足を引きずりながら進んでいた。

ロゴスの身体は、悲鳴を上げていた。第7廃棄研究所の爆発で浴びた熱波が皮膚を灼き、吸い込んだ有毒ガスが喉の奥にガラスの破片のように突き刺さる。全身を打つ鈍い痛みは、彼が生還したことが奇跡であることを、一歩進むごとに嫌でも思い出させた。だが、彼の精神は、肉体の悲鳴とは裏腹に、剃刀のように研ぎ澄まされていた。外套の内ポケットで確かな重みを持つ、クリスタルの小瓶。マキナ卿の狂気の結晶体。その冷たい感触だけが、この悪夢のような現実における、唯一確かな道標だった。

どれほどの時間が経っただろうか。見慣れた、しかし今は何よりも恋しい、混沌としたガラクタの店の、厚い鉄の扉が、闇の中にぼんやりと浮かび上がった。彼は、最後の力を振り絞って扉を叩く。一度、二度。その音は、自分でも驚くほど弱々しかった。

数秒の沈黙の後、重い閂が引き抜かれる、耳慣れた音がした。扉が軋みながら開き、中から漏れる青白い光が、彼の煤と泥に汚れた姿を照らし出す。

「……ロゴス様!」

最初に聞こえたのは、アニマの、安堵と驚愕が入り混じった声だった。彼女のサファイアの瞳が、これまでにないほど大きく見開かれている。その隣で、ゴーグルを額に押し上げたギデオンが、キセルを咥えたまま、呆れたように、しかしその目の奥には隠しきれない安堵の色を浮かべて、大きく息を吐いた。

「……野良犬。本当に、地獄の釜の底からでも這いずり上がってきやがる。お前さんの生命力は、ゴキブリ並みだな」

「生憎、まだ……やるべきことが、残っているんでな」

ロゴスは、途切れ途切れの声でそれだけ言うと、まるで糸が切れた絡繰人形のように、店の床へと崩れ落ちた。意識が遠のく中、彼を支えようと駆け寄るアニマの、ひんやりとした、しかしどこか温かい手の感触だけが、やけに鮮明だった。

次にロゴスが意識を取り戻した時、鼻をついたのは腐臭ではなく、消毒薬と、ギデオンが常飲している安物の蒸留酒の匂いだった。店の奥、ネズミが出ると言っていた物置部屋の、硬い寝台の上に寝かされている。身体のあちこちに包帯が巻かれ、喉の痛みは幾分か和らいでいた。傍らの椅子では、アニマが、彼のバイタルサインを表示する手製のモニターを、瞬きもせずに見つめている。

「……ここは、天国か?」

ロゴスが掠れた声で言うと、アニマの身体がびくりと震えた。彼女はゆっくりと顔を上げ、そのサファイアの瞳に、安堵の光を浮かべた。

「いいえ、ロゴス様。ギデオン様の店です。あなた様が意識を失ってから、八時間が経過しました」

「そうか。思ったより、長く眠っちまったな」

彼は、ゆっくりと身体を起こそうとしたが、全身を走る激痛に顔を顰めた。

「無茶はするな、野良犬。てめえの肺は、マキナの野郎が調合した特製のカクテルで、ズタボロだ。こいつを飲んで、もうちいと寝てな」

店の入り口から顔を覗かせたギデオンが、怪しげな色の液体が入ったグラスを差し出す。その顔には、いつもの皮肉屋の仮面が戻っていた。

「第七区画の爆発は、評議会の発表じゃ『旧施設の老朽化したエーテル反応炉が、原因不明の暴走を起こした事故』だそうだ。死傷者はなし。だが、審問庁の連中が、やけに躍起になって現場を封鎖してるらしい。何かを隠してやがるな」

「だろうな」ロゴスは、ギデオンの薬を躊躇なく呷った。喉を焼くような強烈な味が、逆に意識を覚醒させる。「マキナ卿は、俺という侵入者の痕跡ごと、自らの狂気の神殿を消し去った。完璧な証拠隠滅だ。だが、奴にも一つだけ、計算違いがあった」

彼は、枕元に置かれていた自分の外套を探り、二つのものを取り出した。

一つは、あのクリスタルの小瓶。内部で琥珀色の液体が妖しい光を放っている、エーテル・ウイルスのプロトタイプ。

そしてもう一つは、親指の先ほどの大きさの、黒いデータチップだった。

「……なんだ、そいつは」ギデオンが眉をひそめる。

「忘れ形見だ」ロゴスは、にやりと口の端を吊り上げた。「あの神殿のコンソールから、奴の思考ログを拝借してきた。自爆シークエンスが起動する、ほんの僅かな時間でな。もちろん、全てをコピーする時間はなかった。だが、一番美味いところは、頂いてきたつもりだ」

それは、絶体絶命の状況下で彼が打った、もう一つの賭けだった。マキナ卿の傲慢さ――自らの偉業を記録として残さずにはいられない、その歪んだ芸術家気質――を逆手に取った、起死回生の一手。

アニマは、その二つの証拠品を、まるで聖遺物でも見るかのように、静かに見つめていた。彼女の論理回路が、この小さな物体が持つ、都市の運命を左右するほどの情報量を計算し、畏敬の念に似た反応を示していた。

「……すぐに、分析を」

「待て」ロゴスは、立ち上がろうとするアニマを制した。「まずは、小瓶の方だ。ギデオン、こいつの成分を分析できるか。物理的な組成、エーテル溶液の特性。何でもいい。これが、マキナ卿の手によって作られたものであるという、物理的な『署名』が欲しい」

「おうよ。時間はかかるが、お安い御用だ」

ギデオンは小瓶を慎重に受け取ると、自らの作業台へと戻っていった。

「そして、アニマ」ロゴスは、データチップを彼女に手渡した。「こいつが、本命だ。マキナ卿自身の研究記録。おそらく、奴の性格からして、極めて高度な、しかし美的な暗号化が施されているはずだ。カレルの遺した『迷宮式』とは違う。これは、解かれることを拒絶するのではなく、解くに値する知性を持つ者だけを招き入れるための、知的なパズルだろう。解けるか?」

「はい、ロゴス様。必ず」

アニマは、力強く頷いた。彼女はチップを受け取ると、ギデオンの作業台の隣にある、予備のコンソールへと向かう。二人の天才――都市の裏を知り尽くした老練な情報屋と、神の領域に触れた最新鋭のAI――による、狂気の設計図の解剖が始まった。

時間の感覚が、再びオイルのように粘性を帯びて引き伸ばされていく。店の外では、相変わらず雨が降り続いている。ロゴスは、寝台の上で身体を休めながらも、思考を止めることはなかった。二人の分析の進捗を示す、モニターの明滅だけが、彼の唯一の時計だった。

数時間が経過した頃、最初に声を上げたのはギデオンだった。

「……ビンゴだ、野良犬。この溶液に使われてるエーテル同位体、極めて特殊な代物だ。都市の公式な記録じゃ、存在しないことになってやがる。だがな、俺の古い記録によれば、十年以上前、ギルドの資材管理部が、極秘裏に評議会の承認なしで輸入しようとして、問題になったことがある。当時、その計画を主導していたのが、若き日の……マキナ、その人だ」

それは、状況証拠としては弱いが、マキナ卿とこのウイルスを結びつける、最初の物理的な糸だった。

「……こちらにも、進展がありました」

続いて、アニマが静かに告げた。彼女は、暗号の第一階層を突破したらしい。モニターに、一つの文書ファイルが表示される。

「これは……」アニマの声が、わずかに震えた。「エーテル・ウイルスの開発に必要な、希少部品の、詳細な調達リストです」

ロゴスは、痛む身体を引きずるようにして、コンソールの前に立った。リストには、常人には意味不明な部品名と型番が、びっしりと並んでいた。軍用の演算チップ、高純度のエーテル触媒、そして、非合法な化学薬品。アニマが、かつてマキナ卿の秘密の研究室を特定した時に見つけたものと、完全に一致していた。

「金の流れを追え、アニマ」ロゴスは、低い声で命じた。「奴は、これらの部品をどうやって手に入れた?完璧主義者の奴のことだ。必ず、何重にも偽装された、完璧な取引記録を残しているはずだ」

「はい。直ちに、ギデオン様の裏ネットワークと、私の解析能力をリンクさせ、金の流れを逆探知します」

アニマの指が、人間には到底不可能な速度でキーボード上を舞い始める。モニターに、イゼルガルドの経済を動かす、無数の金の流れが、光の河となって表示される。その中から、アニマは目的の取引記録だけを、まるで磁石が砂鉄を引き寄せるかのように、次々と釣り上げていく。取引は、何十ものダミー会社を経由し、複数の国の通貨をまたぎ、金の出所を巧妙にロンダリングしていた。常人であれば、追跡は不可能だ。

だが、アニマのAIと、ギデオンが長年かけて築き上げた裏社会のデータベースの前では、どんな完璧な偽装も、いずれはその化けの皮を剥がされる。

「……見えてきたぞ」ギデオンが、唸るように言った。「金の最終的な行き着く先。それは、ギルドの会計システムに偽装された、裏アカウントだ。そして、そのアカウントへのアクセス権限を持っているのは……複数、いや、一つの部署に集中している」

アニマが、最後の追跡を完了する。彼女は、一つの部署名を、モニターに大きく表示させた。

「技術魔術師ギルド、特殊プロジェクト査定局……」

ロゴスは、その部署名を、反芻するように呟いた。それは、表向きは、ギルドが投資する新しい技術の価値を査定し、予算を配分するための、ごく普通の事務部門だった。だが、その実態は、マキナ卿が自らの息のかかった人間を配置し、裏金を作り、非公式なプロジェクトを動かすための、彼の私的な財布であり、秘密警察のような役割を担う部署だという噂が、まことしやかに囁かれていた。

「この部署の人間が、マキナ卿の共犯者……」

「いや、待て」アニマが、ロゴスの言葉を遮った。「さらに、深いレベルでの癒着が見られます。この取引記録の最終承認の電子署名。その暗号キーは、査定局の局長のものではありません。これは……」

彼女は、一つの名前を、震える声で告げた。その名前は、ロゴスにとって、あまりにも聞き覚えのある、そして、この事件の中で、決して交わることがないと思っていた名前だった。

「……これは、異端審問庁の、最高情報管理官の署名キーと、完全に一致します」

沈黙が、墓石のように重く、店の中に落ちた。

技術魔術師ギルドだけではない。都市の秩序を守る最後の砦であるはずの、異端審問庁の内部にまで、マキナ卿の毒は回り切っていた。ヴェリタスが、なぜあれほどまでに、頑なに、証拠がないと断じ続けたのか。その理由の一端が、今、おぞましい形で明らかになろうとしていた。彼自身が気づかぬうちに、彼の信じる組織そのものが、内側から腐り落ちていたのだ。

ロゴスは、ゆっくりと顔を上げた。彼の瞳には、疲労の色はもはやなかった。そこにあったのは、自らが対峙している敵の、その想像を絶する巨大さと、底知れない狡猾さを前にした、探偵としての、静かで、そして何よりも危険な光だった。

「……ああ、そうか」彼は、まるで目の前にいる好敵手に語りかけるように、静かに、しかし、心の底からの決意を込めて呟いた。「あんたのやり方は、いつだってそうだ、マキナ卿。あんたは、正面からは戦わない。いつだって、敵の心臓の、すぐ隣に潜り込むんだ」

反撃の狼煙は、上がった。だが、その先に待っていたのは、予想だにしなかった、あまりにも根深く、あまりにも巨大な、腐敗の構造だった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十一話、そして第二章の幕開け、いかがでしたでしょうか。

地獄から生還した探偵が手にした証拠は、敵の狂気を暴くと同時に、その毒が、予想以上に深く、そして広範囲に広がっていることを示してしまいました。信じるべき組織の内部にまで巣食う、見えざる共犯者の影。物語は、ここからさらに危険な領域へと踏み込んでいきます。

もし、この先の二人の戦いを見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。

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