1.5.4.(第20節)「崩壊の序曲」
神の設計図は、手にした瞬間に牙を剥く。
忘れられた神殿は、侵入者を証拠ごと葬るための、壮麗な墓標と化す。
完璧な論理が仕掛けた、完璧な死の罠。
探偵に残された武器は、ただ一つ。敵の思考を読み解き、その狂気の裏に潜む、僅かな人間的矛盾を突くことだけ。
崩壊の序曲が鳴り響く中、孤独な脱出劇の幕が上がる。
静寂は、死の前の、ほんの僅かな溜息に過ぎなかった。
ロゴスが、マキナ卿の狂気の結晶体――『エーテル・ウイルス』のプロトタイプが封入されたクリスタルの小瓶――を、祭壇の下に隠された聖遺物のように安置された場所から手に取った、その瞬間。それまで彼の歩みに合わせて床の上で明滅していた青白い光の回路が、一斉にその輝きを失った。代わりに、ドーム全体が、血のように禍々しい赤色の非常灯に染め上げられる。
神殿が、その本性を現したのだ。ここは研究室などではない。侵入者を、その手に取った証拠ごと、この世のあらゆる記録から抹消するために設計された、壮麗で、そして完璧な墓標だった。
『――我が探求の記録を、観る資格はあったようだね、探偵君』
声は、どこからともなく、しかしドームの音響効果によって神のそれのように、空間全体から響き渡った。それは、この神殿の主、マキナ卿の声だった。生身の彼がここにいるのではない。あらかじめ録音された、絶対的な勝利を確信した男の、悪趣味な凱旋の演説だった。
祭壇の中央、脈動していた装置の上に、彼のホログラムが青白く浮かび上がる。穏やかな笑みを浮かべ、まるで旧知の友人に語りかけるかのような、慇-な態度。ロゴスがギルド本部で対峙した時と、何一つ変わらない。
「ご苦労だった。君がここまでたどり着き、そして私の『芸術品』を手にするであろうことは、私の計算の中でも、最も確度の高い未来の一つだったよ。君のその呪われた才能、『論理的鋭敏性』は、実に興味深い。だが、それ故に、君は常に私の掌の上で踊るしかなかった」
マキナ卿のホログラムは、ゆっくりと両手を広げた。
「君が今、手にしているもの。それは、このイゼルガルドを、非効率で矛盾に満ちた人間の支配から解放し、純粋な論理の下に再定義するための、聖なる鍵だ。君には到底理解できんだろうな。君は、世界のバグを愛し、その矛盾の中に真実を見出そうとする、旧時代の遺物だ。だが、安心してくれたまえ。君のその旧い価値観も、君の存在そのものも、あと十分もすれば、この研究所と共に、原子レベルで浄化されることになる」
ゴウッ、という地響きのような低い駆動音が、ドーム全体を揺るがした。ロゴスが侵入してきた、巨大な円形の隔壁が、絶対的な質量をもって、ゆっくりと、しかし確実に閉じていく。もはや、退路はない。
『ロゴス様!施設の自爆シークエンスが起動しました!炉心部のエーテル反応炉が、臨界点に向かって暴走を始めています!爆発まで、残り十分ありません!』
耳元の通信機から、アニマの悲鳴に近い警告が届く。だが、その声も、マキナ卿が起動させた強力なジャミング電波によって、すぐにノイズの奔流に掻き消されていった。
「さらばだ、探偵君。君のその稀有な才能が、私の新しい世界で活かせなかったことだけが、唯一の心残りだよ」
その言葉を最後に、マキナ卿のホログラムは、満足げな笑みを浮かべたまま、静かに掻き消えた。残されたのは、血のような非常灯の光と、破滅へのカウントダウンを告げる無機質なアラーム音、そして、絶対的な孤独だけだった。
「……クソが」
ロゴスは、吐き捨てるように呟いた。だが、彼の瞳には、絶望の色はなかった。そこにあったのは、あまりにも巨大で、あまりにも悪趣味な謎を前にした、ただ一人の探偵の、獰猛なまでの闘志の光だった。彼は、手にしたプロトタイプの小瓶を、衝撃から守るように慎重に外套の内ポケットに仕舞うと、祭壇のコンソールへと向き直った。
マキナ卿の思考ログ。そこには、この施設の詳細な情報も含まれているはずだ。彼は、残された数分間で、この神殿の設計思想そのものをハッキングし、その矛盾を突くことを決意した。
だが、コンソールは、もはや彼の操作を受け付けなかった。スクリーンには、ただ一つ、巨大なカウントダウンの数字が表示されているだけ。あと、九分。
同時に、ドームの壁に設置されていた無数のノズルから、高圧の気体が噴出を始めた。無色無臭。だが、吸い込んだ瞬間、肺が焼けるような感覚に襲われる。神経ガスか、あるいは、あらゆる有機物を分解するための、強力な酸性ガスか。
「……上等だ」
ロゴスは外套の襟で口元を覆い、思考を加速させる。マキナ卿は、完璧主義者だ。彼は、この施設を完璧な墓標として設計した。だが、どんな完璧な設計にも、必ず『例外』は存在する。彼自身の脱出経路。あるいは、万が一、計画に変更が生じた際に、外部からこのシークエンスを停止させるための、緊急用の裏口。それは、必ず存在するはずだ。
彼は、祭壇の周りを走り、床に描かれた光の回路を再び観察した。ほとんどのラインは、今は死のカウントダウンを示す赤色に変わっている。だが、その中で、一本だけ。祭壇の下、彼がプロトタイプを発見したハッチへと続く、極めて微細なラインだけが、まだ青白い光を保っていた。
それは、動力ラインだ。この施設の全ての機能が停止しても、聖遺物を保管する場所だけは、最後の瞬間までその機能を維持するように設計されている。なぜだ?自爆するなら、全てを破壊すればいい。なぜ、そこだけエネルギーを残す?
その非合理な設計に、ロゴスはマキナ卿の、人間的な矛盾を見た。彼は、自らの最高傑作であるプロトタイプを、心のどこかで、破壊したくなかったのだ。万が一、自爆が失敗した場合でも、プロトタイプだけは回収できるように。あるいは、自らの狂気の記念碑として、永遠に残しておきたかったのか。
どちらにせよ、その矛盾が、今、ロゴスにとって唯一の命綱となっていた。彼は、再びハッチを開け、その内部を覗き込む。そこには、プロトタイプが安置されていた台座と、その動力を供給するための、小さなメンテナンス用の通路が、闇の奥へと続いていた。
『……ロゴ……様……!聞こえ……すか!ギデオンが……設計図の……廃棄物……シュート……!』
途切れ途切れに、アニマの声が届く。廃棄物シュート。ギデオンが持っていた古い設計図にだけ記されていた、今はもう使われていないはずの、古い時代の遺物。
ロゴスは、迷わずメンテナンス通路の闇の中へと身を滑り込ませた。通路は狭く、身を屈めなければ進めないほどだった。背後では、ドーム内のガス濃度が臨界に達し、金属が軋みながら溶解していく音が響き始める。
通路は、施設の最下層、巨大なエーテル反応炉のすぐ脇へと続いていた。灼熱の空気が、肌を焼く。炉心部から漏れ出す、致死量の放射線が、空間そのものを青白く発光させていた。あと、五分。
彼は、アニマが指し示した廃棄物シュートを探す。それは、反応炉の冷却システムに隣接する壁の、最も目立たない場所にあった。だが、その投入口は、分厚い合金のハッチで固く閉ざされている。電子ロックだ。そして、そのロックを解除するためのコンソールは、すでに自爆シークエンスによって、その機能を完全に破壊されていた。
万事休すか。
その時、彼の呪われた瞳が、再び、常人には見えないはずの、論理の亀裂を捉えた。それは、ハッチのロック機構そのものではない。そのロックを制御している、壁の内部の、さらに奥深くにある、旧式の論理回路に走る、微細な亀裂だった。
それは、欠陥ではない。意図的に残された、設計上の『抜け道』。ケルベロス・プロトコルを破った時と同じ、旧式のAIが抱える、典型的な脆弱性パターン。この研究所は、最新の技術で作られているようでいて、その基幹部分の一部は、古い施設のものを流用して作られている。マキナ卿の完璧主義が生んだ、僅かな、しかし致命的な油断。
ロゴスは、壁の一部を破壊し、内部の配線を露出させると、自らの知識と経験だけを頼りに、特定のケーブルを引きちぎり、別の端子に直接接続した。それは、あまりにも乱暴で、非論理的な行為だった。だが、旧式のAIに対しては、時にこうした物理的な強制介入が、どんな高度なハッキングよりも有効であることを、彼は知っていた。
数秒の沈黙。そして、彼の目の前で、重厚な電子ロックが、カシュン、という軽い音を立てて、その拘束を解いた。
彼は、最後の力を振り絞ってハッチをこじ開け、その先の暗く、狭い滑り台のようなシュートへと身を投じた。その直後、彼の背後で、イゼルガルドの第七区画全体を揺るがす、巨大な閃光と衝撃波が発生した。
マキナ卿の神殿は、自らが内包する狂気のエネルギーに耐えきれず、巨大な火球となって、全ての証拠と共に、夜の闇の中へと消滅した。
どれくらいの時間、闇の中を滑り落ちただろうか。やがて、ロゴスの身体は、硬い衝撃と共に、何か柔らかいものの山の上に叩きつけられた。鼻をつく、腐臭。廃棄物の山だ。シュートの出口は、下層街の、さらに奥深くにある、巨大なゴミ処理場へと繋がっていた。
彼は、全身の痛みと、ガスによって焼かれた喉の激痛に耐えながら、ゆっくりと身を起こした。錆色の雨が、彼の煤と埃にまみれた顔を、静かに洗い流していく。
彼は、震える手で、外套の内ポケットに触れた。そこには、確かな硬さと、ひんやりとした感触があった。クリスタルの小瓶。マキナ卿の狂気の設計図。
彼は、それを強く握りしめた。
夜空を見上げると、火球が上がった第七区画の方角が、不気味に赤く染まっている。
戦いは、まだ終わっていない。むしろ、今、始まったばかりなのだ。
彼は、よろめきながら立ち上がると、一つの確かな目的地に向かって、足を引きずるように、しかし、決して止まることなく、歩き始めた。
帰るべき場所へ。彼の帰りを待つ、仲間たちの元へ。
崩壊の序曲は終わった。そして、これから始まるのは、探偵による、反撃のフーガだった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第二十話、いかがでしたでしょうか。
マキナ卿の仕掛けた完璧な罠を、彼の思考の矛盾を突くことで切り抜けたロゴス。彼は、この都市の運命を左右する、あまりにも危険な『真実』を手にしてしまいました。
物語は、ここから第二章へと突入します。手に入れた証拠を武器に、ロゴスたちの本格的な反撃が始まります。
もし、この先の二人の戦いを見届けたいと感じていただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




