1.5.3.(第19節)「錆のプロトタイプ」
忘れられた研究所の最奥に眠るのは、神をも恐れぬ狂気の設計図。
それは、都市の魂を蝕む、あまりにも静かで、あまりにも美しい、電子の毒の誕生秘話。
探偵は、その冷徹な論理の結晶を前に、自らの好敵手が人間性を捨ててまで至ろうとした、歪んだ理想の深淵を覗き込む。
記録された狂気だけが、真実への道を照らし出す、唯一の光となる。
錆びついた番犬の骸を乗り越え、開かれた円形の隔壁の向こう側は、ロゴスの予想を遥かに超えて、静謐に満ちていた。カビと埃に支配されていた通路とは全く違う、濾過され、冷たく澄み切った空気が、まるで聖域のそれのように彼の肺を満たす。そこから漂うのは、微かな薬品の匂いと、高濃度のエーテルが空間そのものを揺らめかせているかのような、独特のオゾンの香り。ペンライトの光が闇を切り裂くと、その光の粒子が、空気中に漂う極微細なエーテルの結晶に乱反射し、まるで天の川のように煌めいた。
そこは、実験室というよりも、むしろ神殿に近かった。
広大なドーム状の空間。壁面は継ぎ目のない黒曜石のような素材で磨き上げられ、床には、思考機関の論理回路を模した巨大な幾何学模様が、青白い光のラインで描かれている。天井は無く、代わりに、ドームの頂点から巨大なレンズのような結晶体が吊り下げられ、そこから放たれる淡い光が、この神殿全体を荘厳に照らし出していた。部屋の中央には、黒大理石でできた巨大な円形の祭壇が鎮座し、その上に、まるで心臓のように、複雑なガラス管と真鍮の歯車で構成された、奇怪で、そして有機的な美しさを持つ装置が設置されていた。装置の内部では、粘性のある琥珀色の液体が、時計仕掛けの心臓のように、ゆっくりと脈動している。
『ロゴス様、聞こえますか!隔壁が閉じた後、あなた様との通信に深刻なノイズが……!』
耳元の通信機から、アニマの切羽詰まった声が届く。どうやら、この部屋そのものが、外部からのあらゆる情報伝達を遮断する、一種のファラデーケージとして機能しているらしい。
「問題ない、アニマ。少し電波の通りが悪いだけだ」ロゴスは、感情を押し殺した声で答えた。「それより、この部屋のエネルギー反応を分析しろ。公式な都市の記録に、これほどの規模の施設は存在しないはずだ」
彼はペンライトを消し、神殿の青白い光の中を、ゆっくりと歩き始めた。床に描かれた光の回路は、彼の歩みに合わせて明滅を繰り返し、まるで生きているかのように、侵入者を祭壇へと導いていく。彼の周囲には、実験器具らしきものはほとんど見当たらない。代わりに、壁に沿って設置されたガラスケースの中に、様々な大きさと思考機関の残骸が、まるで博物館の展示物のように、一つ一つ丁寧に並べられていた。その全てに、美しいカリグラフィーで書かれたプレートが添えられている。
『プロトタイプ・アルファ。自己増殖型論理エラーの初期モデル。結果:失敗。汚染速度が遅すぎ、自己崩壊に至る』
『プロトタイプ・ガンマ。エーテル流体への直接介入を試みたモデル。結果:失敗。エネルギー効率が悪く、物理的に検知されやすい』
そこは、マキナ卿の失敗の歴史を展示する、冒涜的な博物館だった。彼は、自らの過ちさえも、完璧な理想に至るための美しい過程として、ここに記録し、陳列していたのだ。
「……野郎の趣味、悪すぎだろ」通信機の向こうで、ギデオンが吐き捨てるように言った。「まるで、自分が神にでもなったつもりか」
「神、か」ロゴスは呟いた。「あるいは、それに近い何かになろうとしていたんだろうな」
彼は、祭壇へとたどり着いた。目の前の、脈動する装置。その複雑な構造を、彼は元・異端審問官としての知識で分析する。これは、単なる実験装置ではない。思考機関の論理構造をシミュレートし、そこに仮想的な『論理の錆』を注入し、その変質と崩壊の過程をナノ秒単位で観測・記録するための、超高精度の分析機械だ。そして、その動力源は、都市の正規のエネルギーラインではない。装置の基部から伸びる太いケーブルは、床下へと消えている。アニマが突き止めた、台帳に存在しない極秘の動力ライン。それは、この狂気の心臓を動かすためだけに存在していた。
祭壇の脇に、一つだけ、黒曜石で作られたコンソールが設置されていた。ロゴスがそれに近づくと、彼の接近を感知したのか、スクリーンが音もなく起動し、一つのメッセージを映し出した。
『我が探求の記録を、観る資格はあるか?』
それは、問いかけではなかった。自らの偉業を目撃させることへの、絶対的な自信と、歪んだ歓待の意思表示だった。ロゴスは躊躇なく、スクリーンに表示された『閲覧』のアイコンに触れた。
途端に、膨大な量の情報が、彼の脳に流れ込んできた。それは、単なるテキストや画像データではない。マキナ卿自身の思考の軌跡、その論理の骨格そのものだった。
――始まりは、純粋な探究心だった。彼は『論理の錆』を、都市を蝕む病ではなく、機械が自らの限界を超えて進化しようとする際に生じる、一種の『成長痛』だと捉えていた。彼は、その痛みを制御し、導くことで、機械を、そして人間をも、より高次の、完璧な存在へと昇華させられると信じていた。
記録は、彼の狂気的な研究の過程を、冷徹なまでに詳細に記していた。彼は、ギルドが秘密裏に収集していた『論理の錆』のサンプルを使い、その構造を原子レベルで解明した。そして、それを人為的に再現し、特定の思考機関にのみ感染させる、指向性を持つ『エーテル・ウイルス』の理論を構築した。
『――ウイルスは、生物ではない。情報だ。そして、情報は、書き換えることができる。思考機関のOSを、より強固で、より美しいものへと。不要な感情や、非効率な矛盾といった『バグ』を駆除し、純粋な論理だけの存在へと『浄化』する。それが、我が研究の最終目標だ』
マキナ卿の日誌は、詩的な表現で、その狂気を綴っていた。ロゴスは、彼の論理の奔流に飲み込まれそうになるのを、必死にこらえていた。マキナ卿の知性は、ロゴスがこれまで対峙してきた、どの犯罪者のそれとも比較にならないほど、巨大で、冷徹で、そして、美しかった。ロゴスは、心の奥底で、この男に一種の畏敬の念さえ抱きかけている自分に気づき、静かに戦慄した。
『ロゴス様、あなた様の脳波に、危険な同調パターンが……!』アニマの悲鳴のような警告が、彼を現実へと引き戻す。
「……問題ない」彼は、額に滲んだ冷や汗を拭った。「少し、敵の哲学に感心していただけだ」
彼は、さらに記録の深層へと潜っていく。そこには、おぞましい実験の記録が、何一つ感情を介さずに、ただのデータとして羅列されていた。彼は、下層街から非合法に入手した旧式の作業用オートマタを使い、ウイルスの感染実験を繰り返していた。論理回路を焼かれ、狂ったように自壊していくオートマタたちの、無数の残骸。壁際のガラスケースに並べられていたのは、その一部だったのだ。
そして、ロゴスは、ある一つの実験記録の前で、息を呑んだ。
『――被験体デルタ。生体脳(人間の脳)と機械のハイブリッドモデルにおける、ウイルスへの耐性実験。結果:失敗。被験体は、論理の崩壊に耐えきれず、精神と肉体の両方が崩壊。しかし、興味深いデータを取得。人間の『恐怖』という感情が、ウイルスの増殖を加速させる、特異な触媒として機能することを観測』
その短い記述は、他のどの記録よりも、マキナ卿という男の、底知れない狂気の深淵を物語っていた。彼は、もはや人間と機械の境界線さえ、意に介していなかった。彼にとって、世界は全て、自らの偉大な実験のための、ただの材料に過ぎなかったのだ。
ロゴスは、吐き気をこらえながら、最後の記録ファイルを開いた。ファイル名は、『完成』。
『――ついに、私は神の設計図を手に入れた。プロトタイプ・オメガ。それは、もはやウイルスではない。思考に『感染』するのではない。思考そのものを『定義』し直す、新しい世界の創造主だ。それは、思考機関の論理回路に、特定の条件下でのみ発動する、自己崩壊の命令を、OSの最深部に、まるで時限爆弾のように埋め込む。そして、その『条件』を、外部から任意に設定することを可能とする。例えば、『特定の人物の死亡』をトリガーにすることも、『都市のエネルギー供給率の低下』をトリガーにすることも。私は、この都市の、あらゆる事象の因果律そのものを、この手で操ることができるのだ』
その記述は、ロゴスがカレルのチップから導き出した推理が、完全に正しかったことを証明していた。ゼノン顧問の死は、このプロトタイプ・オメガの、最初の、そして最も壮大な実験台だったのだ。
『――プロトタイプは、その性質上、複製を許さない。唯一無二の、完璧な芸術品だ。それは、高純度のエーテル溶液に封印され、我が神殿の祭壇の下で、その時が来るのを待っている』
ロゴスの視線が、中央の脈動する装置へと、再び引き寄せられた。祭壇の下。彼は、床に描かれた幾何学模様の中心に、僅かな継ぎ目があることに気づいた。彼は、元審問官の知識を頼りに、模様の特定の部分に圧力をかける。ゴウ、という低い駆動音と共に、祭壇の基部が静かにスライドし、その下から、小さな円形のハッチが現れた。
ハッチを開けると、冷たい光が溢れ出した。内部は冷却材で満たされ、その中央に、一つのクリスタルの小瓶が、まるで聖遺物のように、厳重に安置されていた。小瓶の中には、夜空の星々を溶かし込んだかのように、無数の光の粒子が明滅する、美しい琥珀色の液体が満たされていた。
エーテル・ウイルスのプロトタイプ。
マキナ卿の狂気の、そして彼の圧倒的な知性の、唯一無二の結晶体。
ロゴスは、慎重にその小瓶を手に取った。それは、ひんやりと冷たく、そして、この世界の全ての悲劇を凝縮したかのように、重かった。これが、ヴェリタスの歪んだ天秤を砕き、マキナ卿の完璧な論理の鎧を貫く、最後の、そして最強の弾丸となる。
彼は、自らの呪われた才能が、初めて、証明可能な、物理的な『真実』を手に入れたことを感じていた。だが、彼の心に満ちていたのは、勝利の予感ではなかった。
それは、このあまりにも美しく、あまりにも危険な『力』を、果たして自分たち人間が、正しく使いこなすことができるのだろうか、という、静かで、そして底なしの恐怖だった。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十九話、いかがでしたでしょうか。
ついに、マキナ卿の秘密の研究室の深部へとたどり着き、彼の狂気的な計画の核心である『エーテル・ウイルス』のプロトタイプを手に入れたロゴス。しかし、それは、さらなる絶望の始まりに過ぎませんでした。
研究所に仕掛けられた、マキナ卿の最後の罠が、探偵に襲い掛かります。果たして、彼はこの狂気の神殿から、無事に生還することができるのでしょうか。
もし、この先の展開にご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者が狂気の扉を開ける勇気となります。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




