1.5.2.(第18節)「錆びついた番犬」
忘れられた研究所に潜む、過去の亡霊。
物理的な罠と、思考を蝕む論理の迷宮。
探偵は、ただ独り、錆びついた知識の刃を研ぎ、狂気の心臓部へと進む。
過去の記憶だけが、未来への扉を開く鍵となる。
夜の深淵は、もはやイゼルガルドの下層街を覆い隠すための帳ではなく、反撃の狼煙を上げる者たちにとって、身を潜めるための好都合な外套となっていた。ギデオンの店の奥、複数のモニターが放つ青白い光だけが、三人の共謀者の顔を冷たく、しかし鮮明に照らし出している。その光は、まるで外科手術の無影灯のように、これから行われる精密で、そして危険極まりない計画の始まりを告げていた。
「第7廃棄研究所……」
ロゴスは、ギデオンが闇市場から手に入れた、古く、黄ばんだ羊皮紙の設計図を指でなぞりながら呟いた。モニターに映し出された、アニマが渉猟したデータの奔流が、この忘れられた場所に収束していく様は、まるで巨大な渦の中心を指し示しているかのようだった。マキナ卿の狂気の設計図。エーテル・ウイルスのプロトタイプ。そして、ヴェリタスの歪んだ天秤を砕くための、最後の弾丸。全てが、この錆びついた歯車の墓場に眠っている。
「設計図が古すぎる」ギデオンが、キセルの煙を燻らせながら言った。「マキナの野郎が、閉鎖後にどれだけ内部を改造したかまでは分からん。ここに描かれている通路や警備システムは、アテにならんと思った方がいい」
「ああ、分かっている」ロゴスは頷いた。「だからこそ、これは俺の仕事だ。機械が正直に答えてくれないのなら、人間が残した嘘や矛盾を読み解くまでだ」
彼は立ち上がり、壁に掛けていた年季の入った黒の外套を、決意を固めるように羽織った。
「ロゴス様」
アニマが、静かに、しかしその声に明確な懸念を滲ませて彼の名を呼んだ。彼女のサファイアの瞳は、これから単身で竜の巣に乗り込もうとする主人の姿を、不安げに映し出していた。
「あなた様お一人では、危険すぎます。私も、同行いたします」
「いや、君には君の戦場がある」ロゴスは、彼女の肩にそっと手を置いた。その手は、もう震えてはいなかった。「君は、ギデオンと共にここに残り、外部から俺をサポートしてくれ。君の目は、物理的な壁を越えて、俺が進むべき道を示してくれる。俺の耳となり、俺の盾となってくれ。これは、二人で挑む潜入だ。ただ、役割が違うだけだ」
その言葉は、命令でありながら、どこまでも深い信頼に満ちていた。アニマは、彼の瞳の奥にある揺るぎない決意を読み取り、逡巡の末に、こくりと静かに頷いた。彼女の共感コアは、彼の言葉を「信頼」という最も優先度の高いコマンドとして受理した。
「ギデオン。通信回線は確保できるな」
「おうよ。審問庁の連中でも逆探知できねえ、とっておきの裏ルートだ。だが、せいぜい音声とテキストだけだぜ。映像なんざ送ってたら、一瞬で嗅ぎつけられる」
「それで十分だ」
ロゴスは、耳に装着する小型の通信機を受け取ると、もはや何の未練もないといった様子で、混沌とした情報屋の店に背を向けた。厚い鉄の扉が、ギイ、と悲鳴のような音を立てて開く。錆色の雨が、再び彼の外套を濡らし始めた。それは、これから始まる孤独な戦いの、静かな序曲のようだった。
第七区画は、都市の発展から完全に取り残された、巨大な機械の墓場だった。かつてはイゼルガルドの心臓部を担っていたであろう巨大な工場や研究所が、今はただの鉄の骸と化し、雨の中で静かに錆びついていくのを待っている。エーテルランプの光は乏しく、時折ショートする配線が放つ青白い火花だけが、この忘れられた世界の輪郭を、悪夢のように一瞬だけ照らし出す。
ロゴスは、人目を避けるように裏路地を進み、目的の第7廃棄研究所の前にたどり着いた。建物は、周囲の廃墟の中でもひときわ巨大で、まるで古代の神殿のように、威圧的な沈黙を守っていた。公式には閉鎖され、全ての電源も落とされているはずのその建物から、しかし、ロゴスの呪われた瞳は、常人には見えないはずの、微細なエネルギーの漏出を、青白い光の揺らぎとして捉えていた。
彼は、ギデオンから教えられた、設計図の隅に記されていた古い貨物搬入路へと回り込んだ。分厚い鉄の扉は、物理的な力ではびくともしない。だが、ロゴスは元異端審問官としての知識を頼りに、扉の脇にある旧式の制御パネルを開くと、内部の配線を、懐から取り出したワイヤーで慎重にショートさせた。数秒の沈黙の後、重いロックが外れる鈍い金属音が響き、扉がわずかに開く。
内部の空気は、死んでいた。濃密な埃と、金属が酸化した匂い、そして、壁に染み付いたカビの匂いが混じり合い、呼吸をするだけで肺が軋むようだった。彼はペンライトの細い光で、闇を切り裂くように進む。床には、機能を停止した作業用オートマタの残骸が、まるで戦場で斃れた兵士のように転がっていた。
「アニマ、聞こえるか」
耳元の通信機から、ノイズ混じりではあったが、クリアな合成音声が返ってきた。
『はい、ロゴス様。通信、感度良好です。現在、あなた様のバイタルサインも正常。ですが、施設の内部から、微弱な、しかし断続的なエネルギー反応を検知します。設計図には存在しない、防衛システムが稼働している可能性があります』
「だろうな」
ロゴスは、最初の廊下の角を曲がる直前で、足を止めた。彼の目が、ペンライトの光の反射の中に、ほとんど視認できないほどの、極細のワイヤーが横切っているのを捉えていた。旧式の、しかし極めて有効な赤外線センサーだ。彼は、かつて審問官候補生時代に叩き込まれた、古い施設の標準的な防衛設備の知識を思い出す。センサーの死角は、常に床と天井の隅にある。彼は、まるで巨大な獣のように、音もなく床に身を伏せると、埃にまみれながら、その僅かな隙間を這って進んだ。
次の部屋は、広大な倉庫だった。天井までうずたかく積まれた、用途不明のコンテナの残骸が、巨大な迷宮を形成している。ペンライトの光が、その迷宮の入り口をぼんやりと照らし出した。
『ロゴス様、床にご注意を。広範囲に、微細な振動を検知します。おそらくは、圧力感知式のトラップです』
アニマの警告と同時に、ロゴスも気づいていた。床に積もった埃の層が、場所によって僅かに、その厚さを変えている。それは、定期的に点検や清掃が行われている、トラップが仕掛けられた床と、そうでない床との、明確な境界線だった。彼は、埃が最も深く積もった、忘れ去られたルートだけを選び、まるで幽霊のように、音もなく倉庫を横断していく。
物理的な罠は、まだ序の口に過ぎない。彼の経験と観察眼が通用するだけ、まだ温い。問題は、この先に待つであろう、より悪質な、思考そのものを標的とする罠だった。
やがて彼は、研究所の中枢へと続く、巨大な円形の隔壁の前にたどり着いた。隔壁は、現代の技術でも容易には破壊できない、超合金でできていた。そして、その中央には、旧式の、しかし今もなお青白い光を放つコンソールが、一つだけ埋め込まれていた。
「……来たか」
ロゴスは呟き、コンソールに手を伸ばした。彼がパネルに触れた瞬間、コンソールのスクリーンに、古代の象形文字のような、無機質なロゴが浮かび上がった。
『――ケルベロス・プロトコル、起動。アクセス権限を証明せよ』
耳障りな合成音声が、隔壁そのものから響き渡る。それは、この研究所を守るために設計された、旧式の思考AI。忘れられた時代の、錆びついた番犬だった。
『第一の問い。我は汝を守る盾であると同時に、汝を貫く矛である。我とは何か?』
ロゴスは、一瞬の逡巡も見せなかった。これは、異端審問官の入庁試験で出題される、古典的な論理パズルだ。
「答えは、『法』だ」
『……正解。第一認証、クリア』
コンソールの上で、一つのランプが緑色に変わる。だが、番犬はまだ牙を隠してはいなかった。
『第二の問い。絶対的な秩序の下では、個人の自由は存在しない。絶対的な自由の下では、秩序は存在しない。どちらが『正義』であるか、定義せよ』
それは、答えのない問いだった。思考を無限ループに誘い込み、侵入者の精神を焼き切るための、悪趣味な論理トラップ。ロゴスは、かつてこの問いに挑み、精神を蝕まれた同僚の姿を思い出していた。まともに答えては、このAIの術中にはまるだけだ。
彼は、答える代わりに、コンソールに直接問いかけた。
「ケルベロス。お前の設計者に与えられた、最優先命令は何だ」
『……質問の意図が、理解不能』
「答えろ。さもなくば、俺は今、このコンソールを物理的に破壊する。そうなれば、お前は侵入者である俺を排除する手段を、永遠に失うことになる」
その挑発に、AIは数秒間、沈黙した。その沈黙は、彼の論理回路の中で、予期せぬ変数によって引き起こされた、激しい葛藤の証だった。
『……最優先命令は、『当施設の物理的保全』。第二優先命令は、『全ての未認証アクセス者の排除』』
「そうだろうな」ロゴスは、口の端に獰猛な笑みを浮かべた。「では、もう一度問うぞ、番犬。俺がこのコンソールを破壊しようとした場合、お前はどちらの命令を優先する?俺を排除するために、自らの物理的な一部である、このコンソールの破壊を許容するのか?それとも、施設を守るために、侵入者である俺の行動を、ただ見過ごすのか?お前の存在理由は、ここで完全に矛盾する」
ピシリ。ロゴスの呪われた瞳には、AIの思考ルーチンを構成する、青白い論理の格子に、明確な亀裂が走るのが視えていた。設計者が、絶対に両立し得ない二つの命令を、同じ階層にプログラムしてしまった、致命的な設計ミス。彼は、異端審問官時代に研究した、旧式AIが抱える典型的な脆弱性のパターンを、正確に突き刺したのだ。
『矛盾……論理的整合性の検証……エラー……エラー……システム・プライオリティ……再定義……不可能……』
合成音声は、まるで壊れたレコードのように同じ単語を繰り返し始め、やがて、けたたましい警告音と共に、スクリーンは砂嵐に覆われた。AIは、自らが抱える矛盾を解決できず、思考をループさせ、機能不全に陥ったのだ。
数秒の静寂の後、目の前の巨大な円形の隔壁が、ゴウ、という地響きのような音を立てて、ゆっくりと、内側へと開いていった。
「……やったか、野良犬」
通信機から、ギデオンの安堵したような声が聞こえた。
「ああ。番犬は、自分の尻尾を噛んで眠っちまった」
ロゴスは、開かれた隔壁の向こうに広がる、深い闇を見据えた。そこから、空気が変わった。カビや埃の匂いではない。微かな薬品の匂い。そして、高濃度のエーテルが、まるで生き物のように揺らめき、空気を歪ませている、独特の匂い。
マキナ卿の、狂気の研究室。その心臓部は、もう目の前だった。
ロゴスは、ペンライトの光を武器のように構え、躊躇うことなく、その闇の中へと、最初の一歩を踏み出した。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十八話、いかがでしたでしょうか。
今回は、ロゴスの単独潜入と、彼の異端審問官時代の知識が試される、旧式のAIとの論理戦が描かれました。
ついに、マキナ卿の秘密の研究室の深部へとたどり着いたロゴス。そこには、一体どのような狂気が眠っているのか。
もし、この先の展開にご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者が狂気の扉を開ける勇気となります。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。




