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1.5.1.(第17節)「狂気の設計図」

狩りの前に、牙を研ぐ時間が必要だ。

獲物を追い詰めるのは、暴力ではなく、揺るぎない論理の罠。

死者の声が暴いた巨悪の計画。その物理的な証拠を求め、探偵は再び、情報の深淵へとダイブする。

絡繰の少女の瞳が、忘れられた都市の記録の中から、ただ一つの、狂気に満ちた設計図を掘り起こす。

全ての始まりとなった、錆の研究室。反撃の舞台は、そこに決まった。

夜の深淵は、もはやイゼルガルドの下層街を覆い隠すための帳ではなく、反撃の狼煙を上げる者たちにとって、身を潜めるための好都合な外套となっていた。ギデオンの店の奥、複数のモニターが放つ青白い光だけが、三人の共謀者の顔を冷たく、しかし鮮明に照らし出している。その光は、まるで外科手術の無影灯のように、これから行われる精密で、そして危険極まりない計画の始まりを告げていた。

「第十五区画、『忘れられた歯車亭』の最上階、404号室か」

ロゴスは、モニターに映し出された暗殺者『シャドウ』の不鮮明な映像を、まるで獲物の急所を探るかのように鋭い瞳で見据えながら呟いた。マキナ卿の『左手』。カレル・アンベルクの背中に躊躇いなく刃を突き立て、自分たちの事務所を炎に包んだ、血塗られた実行犯。その男が今、手の届く場所にいる。長年、彼を苛んできた過去の亡霊に、明確な肉体を与えた敵の一端が、そこにいた。

「ああ。今夜、奴は間違いなくそこにいる」ギデオンは、コンソールを叩きながら、嗄れた声で応じた。「宿の見取り図も、周辺の監視ログも、今、俺の網で掻き集めてる。だがな、野良犬。もう一度だけ言っておく。そいつは、お前さんがこれまで相手にしてきたような、頭でっかちのインテリじゃねえ。殺しの専門家だ。正面から行って、どうにかなる相手じゃねえぞ」

「分かっている」ロゴスは静かに頷いた。彼の瞳には、シャドウの姿はもう映っていなかった。その視線は、モニターの向こう側、この都市の頂点に座し、穏やかな笑みを浮かべているであろう、真の敵の姿を捉えている。「だからこそ、ただ奴を狩るだけでは意味がない。俺たちが欲しいのは、奴の命じゃない。奴とマキナ卿を繋ぐ、決して断ち切ることのできない、物理的な証拠だ」

彼は、壁に預けていた背中を起こし、ガラクタの山に囲まれた小さな円卓へと歩み寄った。その動きには、事務所が炎に飲まれる前の、無気力な探偵の面影は微塵もなかった。

「待て」

ギデオンがシャドウの逃走経路を予測するデータを表示させようとした、その手を、ロゴスは静かに制した。

「どうした、野良犬。怖気づいたか?」

「逆だ。牙を研いでいる」ロゴスは、円卓を囲むように、ギデオンとアニマに向き直った。「シャドウはプロだ。奴を生け捕りにできたとして、果たして素直に雇い主の名を吐くだろうか。ギルドの暗殺者が、拷問一つで口を割るとは思えん。奴の自白だけでは、ヴェリタスを動かすには弱すぎる。奴が信じるのは、物的証拠だけだ」

彼の言葉には、氷のような冷静さがあった。ヴェリタスとの対峙、そしてその背後にあるマキナ卿の巧妙な情報操作を見抜いた今、彼の思考は、単なる犯人逮捕という次元を遥かに超えていた。これは、戦争だ。そして、戦争に勝つために必要なのは、敵の兵士を一人捕らえることではなく、敵の司令官を裸にするための、絶対的な情報だった。

「シャドウを追い詰める、強力なカードがもう一枚必要だ。奴が捕らえられ、マキナ卿が即座に奴を切り捨てたとしても、決して覆すことのできない、動かぬ物証。俺たちが今、最優先で手に入れるべきは、それだ」

「物証、ねえ」ギデオンはキセルをふかし、紫の煙を天井に吐き出した。「そいつが、どこにあるってんだ?マキナの野郎が、ご丁寧に自分の執務室にでも保管してるとでも?」

「まさか」ロゴスは首を振った。「だが、奴も人間だ。自らの偉大な研究の成果を、どこかに保存しているはずだ。カレルが突き止めた『エーテル・ウイルス』。あんな危険な代物を、自分の執務室や、ギルドの公式な研究室で開発するはずがない。奴には、秘密の研究室がある。誰にも知られず、自らの狂気を育むための、特別な場所が」

ロゴスの視線が、静かに佇むアニマへと注がれる。

「アニマ。君にしかできない仕事だ。これから、マキナ卿という男の、過去数年間の全ての行動記録を洗い直してもらう。ギルドの公式な出退勤記録、都市交通機関の利用ログ、資材の購入・搬入記録、彼がアクセスした全ての公的データベースのタイムスタンプ……ギデオンの裏ネットワークも使え。都市の血管を流れる、ありとあらゆる情報を渉猟し、その中から、ほんの僅かな『矛盾』を探し出すんだ」

その指示は、あまりにも漠然としていた。だが、アニマは一瞬の逡巡も見せなかった。彼女のサファイアの瞳が、主人の意図を正確に理解し、静かな光を宿す。

「はい、ロゴス様。彼の行動パターンの中に潜む、統計的なノイズ、あるいは、記録されているはずの空白時間を探し出す、ということですね」

「そうだ。奴は完璧主義者だ。完璧なアリバイ工作を行っているだろう。だが、どんな完璧な嘘も、長期間にわたって続けば、必ずどこかに歪みが生じる。他の記録との、ほんの僅かなズレ。説明のつかない移動時間。存在しないはずのエネルギー消費。その歪みが集中する場所こそが、奴の秘密の研究室……俺たちが求める『狂気の設計図』が眠る場所だ」

その言葉を合図に、店の空気が変わった。物理的な戦闘を前にした緊迫感ではなく、巨大な情報の海の中から、たった一つの真実という名の真珠を釣り上げようとする、知的な狩りの時間が始まったのだ。

アニマは、その場にすっと膝を折って座った。まるで深い祈りに入るかのように、その美しい瞳を閉じる。彼女のAIコアが、ギデオンのシステムと直接リンクし、都市のネットワークという名の、広大無辺な宇宙へとダイブしていく。ロゴスとギデオンは、もはや彼女に声をかけることなく、ただ固唾を飲んで、その静かなる戦争の行方を見守っていた。

アニマの意識は、物理的な肉体を離れ、光速でデータの大河を遡上していく。彼女の精神の前には、イゼルガルドの数百万の市民と、数千万の自動人形が生み出す、おびただしい情報の奔流が、銀河のように渦を巻いていた。通常のAIであれば、この情報量に接触しただけで、その論理回路は焼き切れてしまうだろう。だが、彼女は違う。ゼノンが遺した『心』という名の羅針盤を持つ彼女は、この混沌の海の中から、目的の航路を正確に見つけ出すことができた。

彼女の意識は、まず、マキナ卿の公式なスケジュールデータを、巨大な網として情報の海に投げ入れた。評議会への出席、ギルドの定例会議、公開講座での講演。完璧に整然と並んだ、非の打ちどころのない公人の記録。だが、彼女はその記録の『行間』に潜む、僅かな時間の空白に狙いを定めた。

次に、彼女は都市の交通管制システムのログをスキャンする。マキナ卿が利用した、公式の乗用リフトの移動記録。出発時刻、到着時刻、移動ルート。全てが、彼のスケジュールと完璧に一致していた。矛盾はない。

――否。

アニマの論理回路が、一つの微細なノイズを検出した。特定の曜日、特定の時間帯。彼がギルド本部から自邸へ戻る際、乗用リフトが、ほんの数分だけ、予定ルートを外れ、ある区画の上空で『待機』している記録が、複数回存在する。その区画は、公式な目的地とは全く関係のない場所だった。

彼女は、その区画の座標をロックオンする。そこは、ギルドが所有する、第七区画。古い施設が集まる、半ば忘れ去られた工業地帯。ゼノンが、若き研究員カレルと密会していた場所と、同じ区画だった。

さらに、彼女は思考を加速させる。ギルドの資材管理データベースの、さらに深層へと潜っていく。ギデオンが裏口からこじ開けたルートを使い、正規のアクセスログを残さずに、膨大な購入リストをスキャンする。そして、見つけた。数年間にわたり、第七区画にある一つの施設へと、極めて特殊な、そして場違いな資材が、定期的に、しかし少量ずつ、別々の納入業者を偽装して運び込まれている記録を。高純度のエーテル触媒、軍用の演算装置に使われる希少金属、そして、生物の神経組織に作用する、非合法な化学薬品。それらは、公式記録上、その施設の目的である『廃棄物処理』とは、全く何の関係もないものばかりだった。

全ての情報が、一つの場所を指し示していた。

アニマは、ゆっくりと目を開けた。彼女が情報の海にダイブしてから、現実世界では、まだ三十分も経過していなかった。だが、そのサファイアの瞳には、まるで数世紀の旅を終えてきたかのような、深い叡智の光が宿っていた。

「……見つけました、ロゴス様」

彼女の声は、静かだったが、その一言が持つ重みは、この店の全てのガラクタを合わせたよりも、遥かに重かった。

「マキナ卿の秘密の研究室。それは、第七区画にある、現在は閉鎖されているはずの、ギルドの第7廃棄研究所です」

彼女は、モニターの一つに、その施設の古い設計図と、関連する全ての矛盾したデータを表示させた。

「公式記録では、この施設は五年前に老朽化のため完全に閉鎖され、全ての電源も落とされていることになっています。ですが、都市のエネルギー供給網の深層ログを解析した結果、この施設にだけ、台帳には存在しない、極秘の動力ラインが、今もなお接続されていることが判明しました。そして、マキナ卿の乗用リフトが上空で待機していた時間と、この施設で断続的に高いエネルギー消費が記録された時間は、完全に一致します。彼は、アリバイを確保した上で、遠隔操作か、あるいは秘密の通路を使って、この場所で研究を続けていたのです」

そこまで言い終えると、アニマは、最後に、一つの古いニュース映像をモニターに映し出した。それは、五年前に、この第7廃棄研究所が閉鎖される際の記事だった。施設の閉鎖を宣言する、若き日のマキナ卿。彼は、カメラの前で、穏やかな笑みを浮かべて、こう語っていた。

『古い時代は、終わりを告げました。我々は、過去の遺物を適切に処理し、よりクリーンで、より論理的な未来へと進まなければなりません』

その言葉は、今となっては、悪魔的なまでの皮肉に満ちていた。彼は、最も安全な場所に、自らの狂気を隠したのだ。誰もが『終わった場所』だと信じ込んでいる、忘れられた過去の遺物の、さらにその奥深くに。

「……狂気の設計図は、見つかった、というわけか」

ギデオンが、キセルを咥えたまま、唸るように言った。その声には、呆れと、そして隠しきれないほどの畏怖の色が混じっていた。

ロゴスは、モニターに映し出された、古びた研究所の写真を、ただ黙って見つめていた。彼の頭の中では、最後の戦術が組み上がろうとしていた。シャドウという『左手』。そして、この研究所に眠るであろう、マキナ卿の罪の物証。二つのターゲットが、今、明確な輪郭を持って、彼の前に姿を現した。

「よし」

やがて、彼は、短く、しかし力強く言った。彼の瞳には、もはや迷いはなかった。

「作戦の第二段階は、この『第7廃棄研究所』への潜入だ。そこに眠る、マキナ卿の罪……エーテル・ウイルスの研究記録と、そのプロトタイプを確保する。それが、ヴェリタスの歪んだ天秤を砕き、マキナ卿の論理の鎧を貫く、我々の最強の弾丸となる」

彼は、ギデオンの方へと向き直った。

「ギデオン。あんたには、シャドウの監視を続けてもらう。奴が動いた場合は、即座に知らせろ。俺たちが、奴を狩るための準備を整えるまでの、時間稼ぎだ」

そして、彼は、静かに彼の帰りを待っていた、唯一無二の相棒へと視線を移した。

「アニマ。俺と二人で、竜の巣の、さらに奥深くにある、本当の心臓部へと乗り込む。準備はいいか?」

その問いに、アニマは、これまでで最も人間らしい、穏やかな、しかし鋼のように強い意志を込めた微笑みを浮かべて、静かに頷いた。

「はい、ロゴス様。いつでも」

反撃の準備は、整った。舞台は、忘れられた歯車の墓場。探偵は、自らが信じる論理と、心を託すと決めた自動人形だけを連れて、都市の最も深い闇へと、その身を投じようとしていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十七話、いかがでしたでしょうか。

アニマの驚異的な能力によって、ついに敵の秘密研究所が特定されました。物理的な証拠を求め、二人はさらに危険な場所へと足を踏み入れます。

忘れられた廃棄研究所には、一体何が眠っているのか。そして、暗殺者シャドウの影が、彼らの背後に迫ります。

もし、この先の二人の潜入作戦に胸が躍りましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと幸いです。皆様の応援が、探偵の次の一手を導きます。

ついに、探偵は反撃の牙を剥く。どうぞ、お見逃しなく。

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