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1.4.4.(第16節)「歪んだ天秤」

旧き友が突きつけたのは、法という名の冷たい刃。

だが、完璧なはずの正義の言葉に、絡繰の少女は微細な矛盾を聴き取る。

それは、真実を求める者さえも欺く、巧妙に仕組まれた過去の残響。

歪んだ天秤の上で、探偵は気づく。友もまた、巨大な嘘に囚われた、もう一人の被害者である可能性に。

敵の本当の恐ろしさは、その暴力ではなく、人の心を操る狡猾さにある。

分厚い鉄の扉が、ゴウン、という重い音を立てて閉まる。その音は、まるで巨大な墓石が据えられたかのように、ギデオンの店の澱んだ空気の中に、決定的な断絶の響きを遺した。錆色の雨が降りしきる下層街の闇の中へと消えていった、純白の制服。ヴェリタスという男が体現する、揺るぎない、そして非情なまでの『秩序』の残像が、まだ網膜に焼き付いているかのようだった。

「……ケッ。気に食わねえ野郎だ。頭の先から爪先まで、消毒液の匂いがしやがる」

最初に沈黙を破ったのは、長いため息と共に、再びキセルに火をつけたギデオンだった。彼の嗄れた声が、凍り付いていた店の空気をわずかに震わせる。

「だがな、野郎の言うことにも一理ある。お前さん、完全に審問庁を敵に回しちまった。奴らが本気になれば、このガラクタ屋敷ごと、明日には地図から消されてもおかしくねえ。どうするんだ、野良犬?それでも、竜の喉笛を掻き切りにいくのか?」

ロゴスは答えなかった。彼は、ヴェリタスが去っていった扉を、まるで燃え尽きた炭のように虚ろな瞳で、ただじっと睨みつけていた。旧き友が突きつけてきたのは、単なる警告や脅しではない。それは、彼が信じる法と正義に基づいた、死刑宣告にも等しい最後通牒だった。公式な権力が、その全ての機能をもって自分たちを排除しにくる。残された時間は、絶望的なまでに少ない。

激情は、すでに冷たい決意の氷点下へと沈み込んでいた。ソフィア師の名を叫んだ時の、胸を抉るような痛み。ヴェリタスの、レンズの奥で確かに揺らいだ瞳。かつて同じ理想を語り合ったはずの男との間に横たわる、修復不可能な断絶。それら全てが、彼の思考という名の歯車に、重く、鈍い負荷をかけていた。

マキナ卿という巨悪を討つ。その目的は揺るがない。だが、その過程で、かつての友と殺し合わなければならないのか。その問いが、鉛のように彼の魂を苛んでいた。ヴェリタスは間違っている。彼の正義は、硬直した規則の奴隷だ。だが、彼の瞳にあったのは、嘘つきのそれではない。狂信的ともいえるほどの、純粋な確信の光だった。あの男は、心の底から自らが正しいと信じている。そして、自分が師を死に追いやったと、本気で信じている。

「ロゴス様」

静かな声が、彼の思考の迷宮に一条の光を差し込んだ。アニマが、彼の傍らに音もなく立っていた。彼女のサファイアの瞳は、燃え盛る事務所から脱出して以来、ずっと彼を苛んできた激情や焦燥ではなく、ただ、目の前で思考の淵に沈む主人の、その精神の状態だけを、静かに、そして正確にスキャンしていた。

「どうかされましたか。あなた様の心拍数と脳波のパターンに、先程のヴェリタス審問官との対話の後から、深刻なノイズが観測されます。論理的な思考を阻害する、危険なレベルです」

「……余計な世話だ」ロゴスは、吐き捨てるように言った。「少し、昔のことを思い出していただけだ。忘れろ」

「忘れることはできません」アニマは、静かに、しかしきっぱりと否定した。「なぜなら、そのノイズの原因であるヴェリタス審問官の言葉、そのものの中に、私にはどうしても看過できない、重大な矛盾点が存在するからです」

その言葉に、ロゴスは初めて虚空から視線を動かし、彼女の顔を訝しげに見つめた。ギデオンも、コンソールを叩く手を止め、興味深そうに耳をそばだてている。

「矛盾だと?」ロゴスは眉をひそめた。「あの男の言葉は、完璧なまでに理路整然としていた。規則という名の、非の打ちどころのない鎧でな。お前の論理回路が、何かエラーでも起こしたんじゃないのか」

「いいえ」アニマは静かに首を振った。「私のAIは正常です。そして、エラーを起こしているのは、私ではなく、ヴェリタス審問官の論理の方です。彼は、こう断言しました。『師を死に追いやったのは、君のその呪われた才能そのものだ、ロゴス!君は、その証明不能な『観測』を過信し、師を焚きつけ、無謀な単独調査へと向かわせた!』と」

それは、ロゴスの心の傷に、再び塩を塗り込むような言葉だった。彼は苦々しい表情で黙り込む。

アニマは、淡々と続けた。

「彼のこの断定には、二つの重大な論理的欠陥が含まれています。第一に、彼は『あなた様がソフィア審問官を焚きつけた』という、極めて重要な前提を、一切の証拠を提示することなく事実として語っています。物的証拠を絶対視する彼の信条とは、明確に矛盾します」

「……それは、奴の推測だろう。俺の才能が師を追い詰めたという、奴なりの」

「では、第二の欠陥です」アニマは、ロゴスの反論を待っていたかのように、即座に続けた。「そして、こちらの方がより決定的です。ソフィア審問官が殉職された当日。審問庁の公式な行動記録によれば、あなた様は、評議会の特別命令により、第九区画で発生した大規模な『論理の錆』汚染の調査に、朝から終日あたっておられました。ソフィア審問官がいた第三区画の廃棄施設とは、都市の正反対に位置します。そして、あなた様と彼女との間に、その日、公式な通信記録は一切存在しません。物理的に接触することも、通信で『焚きつける』ことも、不可能だったはずです」

店の空気が、シン、と静まり返った。ギデオンのキセルから立ち上る紫の煙だけが、まるで時間の流れが止まったかのように、ゆっくりと宙を漂っている。

ロゴスは、目を見開いていた。彼の頭脳が、アニマが提示した単純な、しかし絶対的な事実に、激しく揺さぶられていた。そうだ。あの日、自分はソフィア師とは別の場所にいた。彼女が一人で廃棄施設へ向かったことは、後から報告で知ったのだ。あまりの衝撃と、その後のヴェリタスからの執拗な弾劾、そして自らの罪悪感によって、その最も重要な事実を、思考の奥底に封じ込めていた。

「……だが、だとしたら」ロゴスは、喘ぐように言った。「なぜ、ヴェリタスは、あんなにも確信を持って俺を断罪した?証拠がないどころか、アリバイがあった俺を。奴は、審問庁の記録を全て閲覧できる星付きだ。俺の当日の行動を知らないはずがない。奴は、嘘をついているのか?俺を陥れるために、意図的に」

その可能性が、彼の脳裏をよぎる。ヴェリタスが、師の死の混乱に乗じて、ライバルである自分を蹴落とすために、巨大な嘘を仕立て上げた……。だが、彼の『論理的鋭敏性』が、その結論を即座に否定した。

彼は目を閉じ、先程のヴェリタスとの対峙を、脳内で再構成する。あの時のヴェリタスの瞳。彼の言葉。その全てを構成する、青白い論理の格子。そこには、微塵の、本当に髪の毛一本ほどの『嘘の亀裂』も存在しなかった。そこにあったのは、揺るぎない、純粋な『確信』の光だけだった。彼は、嘘などついていない。心の底から、ロゴスが師を焚きつけたと、信じ込んでいるのだ。

「……違う」

ロゴスは、ゆっくりと目を開けた。彼の瞳には、もはや友への怒りや疑念の色はなかった。そこにあったのは、一つの巨大な謎が解き明かされ、その背後にある、さらに巨大で、冷徹な悪意の存在に気づいた、探偵の光だった。

「奴は、嘘をついているんじゃない。奴自身が、騙されているんだ」

その結論は、あまりにも静かに、しかし、絶対的な確信をもって彼の口から紡ぎ出された。

「どういうことだ、野良犬?」ギデオンが、低い声で問う。

「考えてみろ」ロゴスは、まるで目の前にいる誰かに語りかけるように、思考を紡ぎ始めた。「ソフィア師が死んだ直後、審問庁は混乱の極みにあった。俺も、そしてヴェリタスも、師を失った衝撃で、正常な判断能力を失っていたはずだ。特に、規則と秩序を自らの存在理由とするヴェリタスにとって、師という絶対的な支柱を失った混乱は、俺の比ではなかっただろう」

彼は、店の床に落ちていたチョークの欠片を拾うと、床に、事件の構図を描き始めた。

「そんな、精神的に最も無防備な状態のヴェリタスの元に、ある男が近づく。友人として、彼の悲しみに寄り添うふりをしながら。そして、彼にこう囁くんだ。『君の悲しみは、よく分かる。ソフィア殿は、ロゴス君の行き過ぎた才能を、ずっと危惧しておられた。彼女の最後の通信記録には、公式には残っていないが、ノイズに混じって、彼を止めなければ、という悲痛な声が記録されていた、と私の部下が分析している。彼女は、暴走する友を止めるため、たった一人で、あの危険な場所へ向かったのだ』と」

ロゴスが描いたのは、ヴェリタスと、その隣に立つ、穏やかな笑みを浮かべた男の姿だった。

「そんなもの、証拠にはならん。だが、悲しみと混乱で論理的な思考を失い、そして、心のどこかで俺の才能に嫉妬していたヴェリタスにとって、その言葉は、全ての責任を俺に押し付け、自らが信じる『秩序』を回復させるための、完璧な物語シナリオに聞こえたはずだ。彼は、その証拠のない囁きを、信じた。いや、信じたがったんだ。そして、一度信じてしまえば、彼の硬直した正義は、その物語を補強する情報だけを集め、矛盾する事実は全て『エラー』として切り捨てる。俺の完璧なアリバイさえも、彼の中では『お前が裏で手を引いていた証拠』にすり替えられてしまった。俺を断罪することが、師の名誉を守り、乱れた秩序を正すための、唯一の正義だと、彼は今も信じ込んでいる」

その男の名を、もはや口にする必要はなかった。技術魔術師ギルドの頂点に立ち、穏やかな物腰の裏で、人の心の最も弱い部分を的確に突く、悪魔的なまでの狡猾さを持つ男。

マキナ卿。

「……とんでもねえ野郎だ」ギデオンは、キセルを強く握りしめていた。「人の心そのものを、自分の駒として動かす、ってのか」

「ああ。奴の本当の恐ろしさは、暴力や権力じゃない。人の信じる心、悲しむ心、そして正義を求める心さえも、自らの目的のために汚染し、利用する、その『電子の毒』にも似たやり方だ」

ロゴスは、床に描いた絵を、ブーツの踵で静かに消した。ヴェリタスは、敵ではなかった。彼は、この巨大な陰謀における、最初の、そして最大の被害者だったのだ。師を殺され、友を憎むよう仕向けられ、そして、自らが信じる正義の天秤を、その根元から歪められてしまった、哀れな道化。

その事実は、ロゴスを苛んでいた最後の枷を、完全に解き放った。もはや、迷いはない。ヴェリタスを救う道は、一つしかない。彼を縛り付ける、マキナ卿という名の巨大な呪縛を、その根源から断ち切ること。そのためには、あの男が信じる『物的証拠』を、彼の目の前に突きつけるしかない。

「アニマ」ロゴスは、静かに佇む自動人形へと向き直った。「ギデオン。計画を再開する。狩りの時間だ」

彼の声には、もう迷いの響きはなかった。そこにあったのは、全ての謎が解け、全ての障害が取り払われ、ただ、為すべきことだけを見据える、鋼のような決意だけだった。

「マキナ卿の『左手』、暗殺者シャドウを、必ず捕らえる。そして、奴から、ヴェリタスの歪んだ天秤を、元に戻すための『重り』を、引きずり出してやる」

彼の瞳の奥で、錆びついていたはずの探求の光が、復讐の炎とは違う、静かで、そして何よりも熱い、救済の光となって燃え上がっていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十六話、いかがでしたでしょうか。

かつての友、ヴェリタスが抱える心の闇と、その背後にあるマキナ卿の巧妙な罠が明らかになりました。敵は、ロゴスの前に立ちはだかるだけでなく、彼の過去、そして仲間との絆さえも利用する、恐るべき存在です。

全ての謎を解き明かし、友を救うため、ついに探偵は反撃の牙を剥きます。次なる舞台は、暗殺者の巣窟。どうぞ、ご期待ください。

孤独な探偵の、孤独ではない戦いを、どうか見届けてください。

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