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1.4.3.(第15節)「招かれざる来訪者」

法は、秩序を守るための盾。

だが、時にその盾は、真実から目を逸らすための壁となる。

かつて同じ道を歩んだ男たちが、異なる正義を掲げて対峙する時。

友情の残滓は、錆びついた論理の火花となって、闇の中に散る。

旧き友は、最も容赦のない敵となる。

夜の深淵が、イゼルガルドの下層街を支配していた。だが、ギデオンの店の中では、複数のモニターが放つ青白い光が闇を追い払い、まるで外科手術の執刀室のような、冷たく、張り詰めた空気を生み出していた。壁に掛けられた古時計の針は、とうの昔にその動きを止めている。ここでは、時間の流れは規則的な秒針の音ではなく、解析装置の冷却ファンが発する単調な唸りと、コンソールを叩く乾いたタイプ音、そして、三人の男女が発する濃密な沈黙によって刻まれていた。

「……第十五区画、『忘れられた歯車亭』の最上階、404号室だ!今夜、奴は間違いなくそこにいる!」

ギデオンの嗄れた声が、最後のピースを嵌めるように静寂を破った。モニターの一つに映し出された、不鮮明な監視カメラの映像。左手で器用にナイフを研ぐ男、『シャドウ』。その姿は、ロゴスが論理の骨格から紡ぎ出した、マキナ卿の『左手』という名の亡霊に、確かな肉体を与えるものだった。カレル・アンベルクを殺し、事務所を襲撃させた、血塗られた実行犯。反撃の狼煙は上がった。狩るべき獲物の姿は、明確になった。

「ギデオン、その宿の周辺の監視ログを全て確保しろ。奴の行動パターン、見張りの有無、そして最も重要な、逃走経路を割り出す。アニマ、君は都市の交通機関の運行記録と、第十五区画周辺のエーテル流動パターンを解析。奴が動いた場合、その痕跡をリアルタイムで追跡できるモデルを構築するんだ」

ロゴスの指示は、かつて星付きの異端審問官として現場を指揮していた頃のように、淀みなく、的確だった。瞳には、極上の謎を前にした狩人だけが宿す、冷徹な光が燃えている。アニマは静かに頷き、そのサファイアの瞳を閉じて、自らの演算能力を都市のネットワークへと接続させた。ギデオンは大きく舌打ちしながらも、その節くれだった指を、獲物を求める老練な猟犬のようにコンソールの上で踊らせ始めた。

その瞬間だった。

ゴン、ゴン、ゴン。

店の分厚い鉄の扉が、外から強く叩かれた。それは、助けを求めるような不規則なノックではない。権威と、揺るぎない自信に満ちた、三度の、規則正しいノックだった。店の空気が、一瞬で凍り付く。ギデオンはコンソールを叩く手を止め、ゴーグルの奥の目を鋭く細めた。下層街の、それも彼の店を、こんな時間に、こんな作法で訪れる客など、一人しか考えられなかった。

「……野良犬。とんでもねえ客を呼び込みやがったな」

ギデオンが吐き捨てるように言う。ロゴスは、壁に立てかけてあった古いリボルバーを、音もなく手に取っていた。彼の表情は変わらない。だが、その瞳の奥で、錆びついていたはずの歯車が、軋みを上げて回転を始めていた。彼は、この来訪者を、とうの昔から予期していた。

重い金属の閂をギデオンが引き抜くと、扉は悲鳴のような軋みを上げて、わずかに開いた。隙間から、錆色の雨と、上層の濾過された空気とは似ても似つかない、湿った鉄の匂いが流れ込んでくる。そして、その向こうに、一人の男が立っていた。

一分の隙もなく着こなした純白の制服は、この下層街の汚濁の中では、あまりにも場違いなほどに潔癖な光を放っていた。銀縁の眼鏡の奥の瞳は、まるで磨き上げられたレンズのように、あらゆる感情を排して、ただ対象を分析するためだけに光を宿している。雨に濡れることも厭わず、彼はそこに、まるで一本の剣のように、揺るぎなく立っていた。

現役の星付き異端審問官、ヴェリタス。ロゴスのかつての同僚であり、そして最大のライバル。彼は、部下を一人も伴わず、単身でこの無法地帯に足を踏み入れていた。

「……何の用だ、ヴェリタス。ここは、お前のような清廉潔白な法の番人が、物見遊山で訪れる場所ではないはずだが」

ロゴスは、闇の中から、皮肉を込めて声をかけた。

「感傷に浸りに来たわけではない。それは、お前のような失職者の特権だろうからな」ヴェリタスの声は、彼の佇まいと同じく、冷たく、正確無比だった。「単刀直入に言おう、ロゴス。お前の事務所の火災は、確認した。お前が非合法な手段でギルドの内情を探り、事を構えていることも、把握している。その探偵ごっこは、そこまでにしろ」

「探偵ごっこ、だと?」

「そうだ。これ以上、都市の秩序を乱すというのなら、私はお前を、公務執行妨害及び司法への反逆罪で、この場で拘束する。これは、最後の警告だ」

ヴェリタスは、一歩、店の中へと足を踏み入れた。彼の視線が、ロゴス、アニマ、そしてギデオンを順番に射抜き、最後に、モニターに映し出されたシャドウの不鮮明な映像の上で、ぴたりと止まった。

「……裏社会の暗殺者まで調べ上げているとはな。随分と深く潜ったものだ。だが、それも全て無意味だ。マキナ卿に関する一件は、既に審問庁の管轄下にある。お前が、これ以上首を突っ込む余地はない」

「お前たちの管轄下で、一体何が明らかになった?『完璧な事故報告書』の行間を、飽きもせず眺めているだけだろう」ロゴスは、リボルバーをテーブルに置き、ヴェリタスの前に歩み出た。「お前は、マキナ卿が黒だと、心のどこかで分かっているはずだ。それでも動かないのはなぜだ?お前の言う『秩序』とは、真実から目を背けるための、ただの言い訳か?」

「証拠がないからだ」ヴェリタスは即答した。その声に、揺らぎは一切なかった。「物的証拠、論理的に検証可能な証拠が、何一つない。あるのは、君のその、証明不可能な『観測』と、一体のオートマタの非論理的な『証言』だけだ。そんなもので、ギルドマスターを告発できるとでも?それは正義の執行ではない。都市を根底から揺るがす、狂気の沙汰だ」

「そのお前が信じる『証拠』とやらが、全てマキナ卿によって巧妙に仕組まれた偽りだとしたら、どうする?お前の正義は、巨大な嘘の片棒を担ぐことになる。それでも、お前は規則の条文を諳んじることしかできんのか?」

「そうだ」ヴェリタスは、きっぱりと言い切った。「なぜなら、我々異端審問官が守るべきは、個別の事件の『真実』ではない。都市全体の『秩序』そのものだからだ。たとえ、一つの真実が見過ごされることになったとしても、秩序の天秤が大きく傾くことに比べれば、それは許容されるべき誤差だ。それが、私の信じる法であり、私の正義だ」

その言葉は、ロゴスの心の最も深い場所にある、決して癒えることのない傷口に、冷たい鉄の杭を打ち込むようなものだった。

「……その正義が」ロゴスは、声を絞り出した。「その、クソッタレな正義が、ソフィア師を二度殺すことになるんだぞ、ヴェリタス!」

ソフィア。その名が出た瞬間、ヴェリタスのレンズの奥の瞳が、初めて僅かに、しかし確かに揺らいだのを、ロゴスは見逃さなかった。

「……師の件を、持ち出すな」

「なぜ持ち出さない!あの時も、全く同じだったじゃないか!」ロゴスの声に、押し殺していたはずの激情が迸る。「俺は視たんだ!焼け落ちた研究施設に残された、人為的な介入の痕跡を!マキナ卿に繋がる、微細な論理の亀裂を!だが、お前は、審問庁は、それを『師を失った衝撃による、俺の妄想だ』と断じた!物的証拠がない、と!その結果、ソフィア師は『事故死』として処理され、真犯人は今ものうのうと、ギルドの玉座に座っている!お前のその硬直した正義が、彼女の無念を踏み躙ったんだ!」

「違う!」ヴェリタスの声が、初めて鋭さを増した。「師を死に追いやったのは、君のその呪われた才能そのものだ、ロゴス!君は、その証明不能な『観測』を過信し、師を焚きつけ、無謀な単独調査へと向かわせた!師は、君のその行き過ぎた探究心によって死んだんだ!君は、その拭い去れない罪悪感から逃れるために、ギルドの陰謀という名の、壮大な幻想を創り出し、そこに師の死の意味を見出そうとしているに過ぎん!己の弱さと向き合えず、世界のせいにするのは、もうやめろ!」

二人の視線が、火花を散らして交錯する。かつて同じ師を仰ぎ、同じ理想を語り合ったはずの二人の間には、もはや修復不可能なほどに、深く、暗い亀裂が走っていた。彼らが見ているのは、同じ事件ではない。同じ過去ではない。それぞれの正義という名の歪んだレンズを通して屈折した、全く別の世界だった。

「……ヴェリタス審問官」

静寂を破ったのは、それまで黙って佇んでいたアニマだった。

「あなた様の現在の発言には、心拍数の上昇と共に、0.12秒の深刻な論理的遅延ディレイが検知されます。それは、絶対的な確信に基づいた発言ではなく、自らが信じる論理を、過去の記憶によって必死に補強しようとする際の、典型的な精神的負荷の兆候です」

「黙れ、機械人形が」ヴェリタスは、アニマに視線を移すことなく、冷たく言い放った。「お前のような、0と1でしか世界を理解できぬ存在に、人間の心の機微が分かってたまるか。お前は、ロゴスの歪んだ観測を肯定するためだけの、壊れたエコー装置だ」

その侮蔑に満ちた言葉に、しかしアニマは動じなかった。彼女はただ、静かに佇み、そのサファイアの瞳で、目の前の男の中に渦巻く、論理と感情の矛盾を、静かに観測し続けていた。

ヴェリタスは、深く、息を吸い込んだ。そして、その息を吐き出すと共に、彼の瞳から、先程までの僅かな揺らぎは完全に消え去っていた。再び、彼は法の番人という名の、冷徹な機械へと戻っていた。

「……警告は、した」

彼は、ロゴスに背を向け、店の出口へと向かった。

「次に会う時は、元・同僚としてではない。法を執行する者と、法を犯した犯罪者としてだ。その時は、私が、この手でお前を拘束する。覚えておけ」

彼は、店の隅で成り行きを見守っていたギデオンを一瞥した。

「あんたもだ、情報屋。犯罪者を匿う罪は重い。命が惜しければ、早々に手を引くことだな」

その言葉を最後に、ヴェリタスは錆色の雨が降りしきる、下層街の闇の中へと姿を消した。分厚い鉄の扉が、ゴウン、という重い音を立てて閉まる。まるで、一つの時代の終わりを告げる、鐘の音のように。

店の外の雨音が、再び静寂を支配する。ギデオンは、長いため息と共に、再びキセルに火をつけた。

ロゴスは、ヴェリタスが去っていった扉を、燃え尽きた炭のような瞳で、ただじっと睨みつけていた。公式なルートからの圧力。それは、もはや単なる妨害ではない。かつての友が、その正義という名の刃を、明確に自分たちの首筋に突きつけてきたのだ。残された時間は、少ない。

「……行くぞ」

やがて、彼は、誰に言うでもなく呟いた。

「奴が法の鎖で俺たちを縛りに来る前に、俺たちは真実という名の刃で、竜の喉笛を掻き切る」

その言葉には、もはや激情の熱はなく、ただ、全ての退路を断たれた者だけが持つ、氷のように冷たい決意だけが宿っていた。

「ロゴス様」

アニマが、静かに彼に歩み寄る。

「今のヴェリタス審問官の言葉ですが、一つ、どうしても看過できない矛盾点が……」

彼女の言葉が、次なる謎への扉を、静かに開けようとしていた。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十五話、いかがでしたでしょうか。

今回は、主人公ロゴスとかつてのライバル、ヴェリタスとの対立を軸に、物語の根幹に関わる師ソフィアの死の謎が、再び深く掘り下げられました。二人の正義は、どこですれ違い、どこへ向かうのか。

もし、この先の展開に少しでもご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者の何よりの励みになります。皆様の声援が、探偵の思考をより鋭くします。

ヴェリタスが遺した言葉の矛盾とは何か。どうぞ、お見逃しなく。

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