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1.4.2.(第14節)「電子の毒」

物理的な刃は、一つの命しか奪えない。

だが、見えざる電子の毒は、都市の魂そのものを蝕む。

記録の改竄、遠隔操作による殺人、そして思考の汚染。

探偵が暴き出したのは、血の匂いすらしない、あまりにも静かで、あまりにも完璧な、新しい時代の戦争の始まりだった。

絡繰の竜は、その牙をネットワークの深淵に隠している。

夜の深淵が、イゼルガルドの下層街を支配していた。だが、ギデオンの店の中では、複数のモニターが放つ青白い光が闇を追い払い、まるで外科手術の執刀室のような、冷たく、張り詰めた空気を生み出していた。壁に掛けられた古時計の針は、とうの昔にその動きを止めている。ここでは、時間の流れは規則的な秒針の音ではなく、解析装置の冷却ファンが発する単調な唸りと、コンソールを叩く乾いたタイプ音、そして、三人の男女が発する濃密な沈黙によって刻まれていた。

「……第十五区画、『忘れられた歯車亭』の最上階、404号室だ!今夜、奴は間違いなくそこにいる!」

ギデオンの嗄れた声が、最後のピースを嵌めるように静寂を破った。モニターの一つに映し出された、不鮮明な監視カメラの映像。左手で器用にナイフを研ぐ男、『シャドウ』。その姿は、ロゴスが論理の骨格から紡ぎ出した、マキナ卿の『左手』という名の亡霊に、確かな肉体を与えるものだった。カレル・アンベルクを殺し、事務所を襲撃させた、血塗られた実行犯。

反撃の狼煙は上がった。狩るべき獲物の姿は、明確になった。あとは、この巣穴に潜む毒蜘蛛を、どう狩るか。

「よし」ロゴスは、壁に預けていた背中を起こした。その動きには、事務所が炎に飲まれる前の、無気力な探偵の面影は微塵もなかった。瞳には、極上の謎を前にした狩人だけが宿す、冷徹な光が燃えている。「ギデオン、その宿の周辺の監視ログを全て確保しろ。奴の行動パターン、見張りの有無、そして最も重要な、逃走経路を割り出す。アニマ、君は都市の交通機関の運行記録と、第十五区画周辺のエーテル流動パターンを解析。奴が動いた場合、その痕跡をリアルタイムで追跡できるモデルを構築するんだ」

彼の指示は、かつて星付きの異端審問官として現場を指揮していた頃のように、淀みなく、的確だった。だが、彼の言葉を聞いていたギデオンは、キセルを咥えたまま、訝しげに眉をひそめた。

「……おいおい、野良犬。威勢がいいのは結構だが、まさか今から殴り込みをかけるってんじゃねえだろうな。相手は、お前さんがこれまで相手にしてきたインテリの犯罪者とは訳が違う。殺しのプロだ。お前さんのそのご自慢の『論理』とやらが、ナイフより速えとでも言うのか?」

「無論、言わん」ロゴスは即答した。彼の視線は、シャドウの映像から、ギデオンが今まさに最後の城壁をこじ開けた、カレルのデータチップの解析結果が表示されているメインモニターへと移っていた。「物理的な戦いは、情報戦で九割が決まる。そして、俺たちの手にはまだ、完全に解析しきれていない、最大の武器が残っている。奴の喉笛を掻き切る前に、まずはこの『死者の声』を、最後まで聞き届けるのが道理だろう」

彼の冷静な判断に、ギデオンは小さく鼻を鳴らした。だが、その目には、目の前の元審問官に対する、確かな信頼の色が浮かんでいた。アニマは、ロゴスの言葉に静かに頷くと、再び自らの演算能力の全てを、モニターに映し出される膨大な情報の海へと注ぎ込み始めた。彼女のサファイアの瞳が、人間には到底不可能な速度で、データの奥深くへと潜っていく。

主が遺した告発の音声。マキナ卿の恐るべき計画の輪郭。それらは、あまりにも巨大で、衝撃的だった。だが、ロゴスは知っていた。どんな壮大な設計図も、その細部にこそ、設計者の最も深い意図と、そして、最も致命的な欠陥が隠されているものだということを。

張り詰めた静寂が、再び店を支配する。数分が、まるで数時間のように感じられた。やがて、それまで微動だにしなかったアニマが、ゆっくりと顔を上げた。その瞳には、畏敬の念と、そして、新たな謎の発見者だけが見せる、静かな興奮の光が同居していた。

「……ロゴス様。見つけました。カレル研究員が、彼が殺される直前に、最後に解析していたデータです。彼は、これを『悪魔の囁き』とファイルに名付けていました」

彼女の声は、この店の澱んだ空気を切り裂く刃のように、鋭く響いた。ギデオンでさえ、コンソールを叩く手を止め、モニターを食い入るように見つめている。アニマは、モニターの一つに、新たなデータ群を表示させた。それは、審問庁が発表した公式記録や、思考機関の内部ログとは、全く異質なものだった。無数の細かい波形データと、それを制御するためと思しき、極めて複雑なプログラムコードの羅列。

「これは……」ギデオンが、唸るように言った。「通信ログか?いや、違うな。信号の指向性が強すぎる。それに、この圧縮率と暗号化レベル……軍用か、あるいはそれ以上だ。一体、どこからどこへ送られた信号なんだ?」

「発信源は、不明です。あまりに高度な偽装が施されており、カレル研究員の技術力をもってしても、特定には至っていません」アニマは、淡々と、しかしその声に確かな重みを込めて続けた。「ですが、受信先は、ただ一つ。第四区画の思考機関。そして、その信号が受信された時刻は……」

彼女は、タイムスタンプを指し示した。その数字が持つ意味を、ロゴスは瞬時に理解した。

「……21時57分12秒」彼が低い声で呟いた。「思考機関が、完全に機能を停止する、ちょうど1秒前」

「はい」アニマは肯定した。「そして、この信号を受信した直後、思考機関の自己診断ログには、通常ではありえない、大規模な論理演算エラーが記録されています。それは、経年劣化や物理的な破壊では決して生じることのない、極めて特殊なエラーです。まるで、システムの脳にあたる中央演算部に、外部から強力な『毒』を直接注入されたかのような……」

「……電子の毒」ロゴスは、アニマの言葉を引き取った。彼の脳内で、最後の、そして最も重要なピースが、音を立てて嵌った。「そうか。そういうことだったのか、マキナ卿。あんたのやり方は、俺が考えていたよりも、さらに狡猾で、そして悪趣味だったとはな」

彼は、まるで目の前に好敵手を見るかのように、虚空に向かって獰猛な笑みを浮かべた。

「ロゴス様?」

「ギデオン。あんたは、この信号が何だか分かるか?」ロゴスは、情報屋の老人に問いかけた。

ギデオンは、キセルの煙をゆっくりと吐き出しながら、モニターに映るコードを、まるで難解な古代碑文でも解読するかのように、熟視していた。

「……あくまで推測だ、野良犬。だが、もし俺の見立てが正しけりゃ、そいつは『エーテル・ウイルス』と呼ばれる代物の、極めて初期の、そして凶悪なプロトタイプだ」

「エーテル・ウイルス……」アニマが、その単語を反芻した。彼女のデータベースには、その用語は存在しなかった。

「無理もねえ。そいつは、ギルドの中でも、ごく一部の狂った連中が研究していると噂されていただけの、都市伝説みてえなもんだからな」ギデオンは続けた。「通常のデータ通信網ではなく、都市の動力源であるエーテルの流れそのものに乗って感染を広げる、指向性の情報兵器だ。物理的な回線を使わねえから、通常の防壁ファイアウォールは意味をなさねえ。そして、ひとたび思考機関みてえな精密機械に感染すりゃ、内部の論理回路を、設計思想そのものから書き換えて、自己崩壊へと導く。……血も、硝煙の匂いも残らねえ、完璧な暗殺兵器だ」

その言葉は、この事件の様相を、根底から覆すものだった。

ロゴスは、ゆっくりと歩き出し、床に広げた羊皮紙の上に、新たな情報を書き加えていく。

「……そうか。だから、あの現場には、不自然なほど物理的な介入の痕跡が少なかったんだ。俺が視た『論理の亀裂』……第二安全弁への外部からの破壊工作は、本命じゃなかった。あれは、このウイルスの存在から目を逸らさせるための、巧妙な陽動フェイントだったんだ」

彼のチョークが、事件の構造図を、より正確な、そしてより恐ろしい形へと描き変えていく。

「マキナ卿は、まず、このエーテル・ウイルスを思考機関に撃ち込み、内部からシステムを完全に破壊した。ゼノン顧問は、物理的な爆発が起きるより前に、この電子の毒によって、自らが管理する機械の反乱によって殺されたんだ。そして、機関が完全に沈黙した後、例の『右手』と『左手』が、後処理と証拠隠滅を行った。最後の、22時00分ちょうどに起きた物理的な爆縮は、この静かなる電子の暗殺を、派手な『事故』という名の舞台装置の中に、完全に葬り去るための、最後の仕上げだった……」

ロゴスの推理は、全ての謎を解き明かしていた。焦げ付いた砂糖の香り。空白の3分間。そして、この正体不明の信号。バラバラだった全ての歯車が、エーテル・ウイルスという、血も涙もない、あまりにも冷徹な軸を中心に、一つの巨大な陰謀という名の絡繰機械として、完全に噛み合ったのだ。

マキナ卿の計画は、単に政敵を排除し、自らの権力を強固にするというレベルのものではなかった。彼は、この都市の神経網そのものであるネットワークを通じて、誰にも気づかれずに、望むがままに『論理の錆』を発生させ、そしてそれを『事故』として処理できる、神にも等しい力を手にしようとしていたのだ。ゼノン顧問の死は、その力の、最初の実験台に過ぎなかった。

「……とんでもねえ話だ」ギデオンが、呆れたように、しかしその声には明確な興奮を込めて呟いた。「もはや、殺人事件なんてもんじゃねえ。これは、新しい戦争の始まりだ。銃弾の代わりに、コードが飛び交う、な」

「ああ、そうだ」ロゴスは、チョークを置くと、静かに立ち上がった。彼の瞳は、もはや過去の亡霊にも、目の前の難解な謎にも囚われてはいなかった。その視線は、この都市の頂点に座し、穏やかな笑みを浮かべているであろう、一人の男の姿を、明確に捉えていた。「そして、どんな戦争にも、始まりがあれば、終わりがある。俺たちが、それを終わらせるんだ」

彼は、アニマとギデオンに、いや、自らに言い聞かせるように、静かに、しかし、揺るぎない決意を込めて言った。

「作戦は、二段階でいく。第一段階は、物理的な反撃だ。暗殺者シャドウを、確実に狩る。奴を生け捕りにし、マキナ卿の『左手』を、白日の下に引きずり出す。奴が使った凶器、奴が受け取った報酬、何でもいい。物的な証拠を掴み、ヴェリタスの、あの石頭をこじ開ける」

彼は、一呼吸置いた。

「そして、第二段階。情報戦だ。この『エーテル・ウイルス』の存在を、証明する。カレルが遺したこのデータは、そのための、唯一にして最大の武器だ。ギデオン、このウイルスの構造を、さらに詳細に解析できるか。マキナ卿が作ったものであるという、動かぬ証拠……いわば、電子的な『指紋』のようなものは見つけられんか」

「……やってみるさ」ギデオンは、不敵な笑みを浮かべた。「俺のプライドにかけてな」

「よし」

ロゴスは、力強く頷いた。事務所が燃え、全てを失ったはずの彼の周りには、今、かつてないほど頼もしい仲間たちがいた。心を託すと決めた、気高き自動人形。都市の裏を知り尽くした、老練な情報屋。そして、自らの内にある、決して錆びることのない探偵の魂。

彼は、壁に掛けていた年季の入った外套を掴むと、力強く羽織った。その背中は、もはや追われる者のそれではなかった。反撃の狼煙を上げる、一人の指揮官の背中だった。

「行くぞ、アニマ。まずは、夜狩りの準備だ」

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十四話、いかがでしたでしょうか。

ついに、マキナ卿の計画の技術的な核心、『エーテル・ウイルス』の存在が明らかになりました。事件は、物理的な殺人から、都市の魂そのものを狙う情報戦へと、その様相を大きく変えていきます。

ロゴスは、暗殺者との物理的な対決と、見えざる電子の毒との二正面作戦に挑みます。果たして、彼はこの絶望的な戦いに、いかなる一手で臨むのか。

もし、この先の展開にご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の一つ一つの声援が、探偵の思考をより鋭く、深くします。

反撃の準備を進める彼らの元に現れる、新たな影。どうぞ、お見逃しなく。

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