1.4.1.(第13節)「思考機関の幽霊」
機械は嘘をつかない。だが、機械に嘘を記録させることはできる。
完璧な公式記録に潜む、たった一つの時間の矛盾。
死者の足跡だけが、偽りのアリバイを打ち砕く幽霊となる。
探偵は、沈黙した記録を再び語らせることで、反撃の第一手を打つ。
絡繰の竜の鉄壁に、最初の亀裂を入れるために。
夜の闇は、イゼルガルドの下層街では意味をなさない。分厚い階層構造に遮られたこの場所では、空の色が変わることはなく、ただ都市の最上層から漏れ落ちてくるエーテルランプの残光が、時刻によってその角度をわずかに変えるだけだ。ギデオンの店の外では、相変わらず錆色の雨が降り続いている。だが、店の内部で繰り広げられているのは、雨音のように単調なものではなく、嵐の中の船のように緊迫し、そして濃密な時間の流れだった。
「……いたぜ、野良犬」
モニターの青白い光を顔に浴びながら、ギデオンが嗄れた声で呟いた。彼のモニターの一つには、中層区の安宿の監視カメラが捉えた、不鮮明な男の映像が映し出されていた。男は、左手で器用にナイフを研いでいる。その手つき、その佇まいは、疑いようもなくプロのそれだった。
「男の名は『シャドウ』。本名も経歴も不明。ギルドや評議会の上層部が、表沙汰にできない『掃除』のために雇う、フリーの暗殺者だ。そして、記録にある限り、この都市で指折りの、左利きの使い手だ。奴が今夜、投宿しているのは第十五区画の『忘れられた歯車亭』。衛兵も寄り付かねえ、治外法権の安宿だ」
ロゴスは、モニターに映る男の姿を、鷹のような鋭い目で見据えていた。マキナ卿の『左手』。カレル・アンベルクを殺し、そして自分たちを襲撃した刺客を差し向けた、あるいはその一人である可能性が高い男。この男を捕らえ、その口を割らせれば、マキナ卿へと続く道が拓ける。だが、相手はプロ中のプロ。下手に動けば、返り討ちに遭うことは必至だった。
「奴の正確な部屋番号と、宿の見取り図は?」
「今、探らせてる。だが、あの辺りの裏ネットワークは、まるで古びた機械の配線みてえに複雑でな。正確な情報を掴むには、もうちっと時間がかかる」ギデオンはキセルに火をつけながら言った。「下手に動くんじゃねえぞ、ロゴス。そいつは、お前さんがこれまで相手にしてきたような、頭でっかちのインテリじゃねえ。殺しの専門家だ。お前さんの『論理』が通用する相手か、どうか」
「ああ、分かっている」
ロゴスは短く応じると、視線を作業台の中央、ギデオンが格闘を続けているメインモニターへと戻した。シャドウをどう追い詰めるか。その戦術を練る前に、やるべきことがまだ残っていた。カレル・アンベルクが、自らの命と引き換えに遺した、最後のメッセージ。その全容を、完全に理解する必要があった。
「アニマ。分析はどこまで進んだ」
「最終段階です、ロゴス様」
アニマは、ギデオンのモニターと自らの視覚センサーをリンクさせたまま、淀みなく報告を始めた。彼女のAIコアは、人間であれば数週間はかかるであろう膨大なデータ群を、この数時間でほぼ完全に分類し、相互参照を終えようとしていた。
「カレル研究員が遺したデータは、大別して三つ。一つは、彼自身の研究日誌。二つ目は、『時空間結晶』から抽出した、第四区画の思考機関の動作ログの断片的なコピー。そして三つ目は、審問庁が発表した、第四区画の事故に関する公式記録の全文です。彼は、この三つのデータを比較することで、マキナ卿の偽装工作の矛盾を暴こうとしていました」
「そして、その矛盾は、見つかったのか」
「はい。それも、極めて致命的な矛盾が、一つだけ」
アニマの声のトーンが、わずかに変わった。それは、一つの巨大な謎が完全に解き明かされようとする瞬間にだけ見せる、知的生命体特有の、静かな興奮の響きだった。
「審問庁の公式記録によれば、第四区画の思考機関が物理的な爆縮を起こした、いわゆる『事故発生時刻』は、昨夜の22時00分ちょうど、とされています。その時刻、ゼノン顧問は施設の内部におり、爆縮に巻き込まれて死亡した、と。これが、ヴェリタス審問官が構築した、完璧なはずの物語です」
アニマは、ギデオンのモニターの一つに、審問庁の公式記録の抜粋を表示させた。そこには、計測された衝撃波の発生時刻や、監視ログに残された最後の映像時刻などが整然と並び、22時00分という結論を補強していた。
「ですが」と、彼女は続けた。隣のモニターに、カレルが時空間結晶から抜き出した、思考機関の内部ログが表示される。それは、審問庁の記録とは比較にならないほど、詳細で、膨大な量のデータだった。「思考機関そのものが記録した、自己診断ログによれば、システムが回復不可能な致命的エラーを検知し、全ての論理演算を完全に停止した時刻は……21時57分13秒です」
沈黙が落ちた。ギデオンでさえ、コンソールを叩く手を止め、眉をひそめてモニターを見つめている。
「……約3分のズレか」ロゴスが、低い声で呟いた。「誤差、とは言えんな」
「はい。思考機関の内部時計は、都市の標準時刻とナノ秒単位で同期しています。これほどのズレは、通常ではありえません。公式記録が嘘をついているか、あるいは、このログデータが偽物であるかの、どちらかです」
「だが、カレルはこのログを、ギルドの誰もがその存在を隠したがる『時空間結晶』から直接抜き出した。偽物である可能性は低い」ロゴスは、思考を加速させる。「ならば、なぜ審問庁は、あるいはマキナ卿は、事故発生時刻を3分も偽る必要があった?その3分間に、一体何があった?」
彼の問いに、アニマはさらに別のデータを示した。それは、思考機関施設の周辺に設置された、公式の監視ログだった。
「これが、その『空白の3分間』の謎を解く鍵です」アニマは、ログの一点を指し示した。「公式記録では、21時50分にゼノン様が施設に入室した後、22時00分に爆発が起きるまで、誰も施設に出入りした者はいない、とされています。ですが、カレルが復元した思考機関の内部ログには、審問庁の記録からは意図的に削除されたと思われる、もう一つの記録が残っていました」
モニターに、新たなログデータが表示される。それは、施設のメインゲートの開閉記録だった。
「21時58分02秒。思考機関が完全に沈黙した、約50秒後。施設のメインゲートが、内側から一度だけ、開閉されています。そして、その30秒後。21時58分32秒。何者かが、通用口ではなく、施設の壁面に設置されている、緊急時用の小さなダストシュートを使って、外部へ脱出した痕跡があります」
「……幽霊の正体、というわけか」ロゴスは、口の端に獰猛な笑みを浮かべた。
「はい。犯人は、思考機関を内部から破壊し、ゼノン様を殺害した後、機関が完全に沈黙するのを待って、メインゲートから堂々と退出した。そして、その後、別の協力者が、外部から思考機関に物理的な衝撃を与え、大規模な『爆縮』を引き起こした。審問庁とマキナ卿は、この一連の殺人事件を、22時00分に起きた『単一の事故』として見せかけるために、全ての記録を改竄したのです」
アニマの分析は、完璧だった。それは、ヴェリタスが築き上げた完璧な論理の城壁を、その土台から崩壊させるほどの、破壊力を持っていた。
だが、ロゴスはまだ満足していなかった。彼の思考は、さらにその先、犯人の心の奥底へと迫ろうとしていた。
「……いや、まだだ。まだ、何かが足りん」彼は、まるで夢うつつにいるかのように呟き、再び床の羊皮紙へと向き直った。「なぜ、それほど手の込んだ偽装をする?なぜ、わざわざ3分も時間をずらす?犯人がメインゲートから退出した記録を消すだけなら、もっと簡単な方法があったはずだ。この3分のズレには、もっと別の、深い意味がある」
彼は、羊皮紙の上に、事件のタイムラインを秒単位で書き出していく。
21:50:00 ゼノン顧問、施設へ入室。
21:57:13 思考機関、機能停止。ゼノン顧問、この時点で殺害された可能性が高い。
21:58:02 メインゲート開閉。犯人、退出。
21:58:32 犯人、ダストシュートから脱出。
22:00:00 外部からの衝撃により、物理的な爆縮が発生。
「……おかしい」ロゴスは、チョークを持つ手を止めた。「なぜ、メインゲートから退出した犯人が、わざわざダストシュートからも脱出する必要がある?二つの脱出経路。まるで、犯人が二人いるかのようだ」
その瞬間、ロゴスの脳裏で、二つのイメージが、閃光のように結びついた。
マキナ卿の『右手』と『左手』。
ゼノンを殺した、知的な技術者。そして、カレルを殺した、暴力的な暗殺者。
「……そういうことか!」
ロゴスは、まるで天啓を得たかのように叫び、羊皮紙の上に、二人の犯人の動きを書きなぐった。
「犯人は、二人いたんだ!最初に施設に侵入し、思考機関を内部から破壊してゼノンを殺したのは、マキナ卿の『右手』……あの事件を『事故』に見せかけるための、知的な偽装工作を行える、右利きの技術者だ!そいつが、21時58分にメインゲートから退出した。だが、その男は、まだ施設の外で待機していた」
彼の声は、熱を帯びていく。
「そして、その直後だ。別の男……マキナ卿の『左手』である、左利きの暗殺者が、今度は外部から施設に侵入した。おそらく、メインゲートとは別の、秘密の経路を使って。奴の目的は、一つだけ。ゼノン顧問が、本当に死んだかを確認し、そして、彼が持っていたはずの『時空間結晶』に関するデータを回収することだ。奴が、カレルの部屋を荒らしたように、ゼノンの遺体周辺を物色した。だが、データは見つからなかった。なぜなら、ゼノンはそれを、アニマの魂の領域に隠していたからだ」
ロゴスは、立ち上がった。彼の瞳は、もはやこの薄汚い店の中ではなく、あの日の、血塗られた事件現場を、その神の視点から見下ろしていた。
「そして、21時58分32秒。暗殺者は、データが見つからないまま、ダストシュートから脱出した。その直後、外で待機していた最初の犯人……『右手』が、外部から思考機関に、おそらく指向性のエネルギー兵器か何かを撃ち込み、物理的な大爆発を引き起こした。それが、22時00分ちょうどだ。この爆発は、二人の犯人の痕跡を完全に消し去ると同時に、事件そのものを『事故』として歴史に記録させるための、壮大な舞台装置だったんだ!」
ロゴスの推理は、全ての矛盾を飲み込み、一つの完璧で、そして悪魔的なまでに美しい物語を紡ぎ出した。空白の3分間は、二人の犯人が役割を交代し、証拠を隠滅するための、完璧な幕間だったのだ。
「……野良犬。お前さん、本当に人間か?」
ギデオンが、呆れたように、しかしその声には明確な畏敬の念を込めて呟いた。
「アニマ」ロゴスは、ギデオンの言葉を無視し、静かに佇む自動人形へと向き直った。「思考機関が機能停止した、21時57分13秒。その直前、機関が記録した最後の外部環境データはあるか?例えば、施設の周囲の、ごく微細な音や振動の記録は」
「……お待ちください」アニマは、再び自らの内部記録の深淵へとダイブする。「……あります。極めて微弱ですが、機関の冷却システムが拾った、外部の音響データです。公式記録では、ただの環境ノイズとして処理されていますが……」
「そのノイズを、再生しろ」
アニマは、静かに頷いた。そして、彼女の胸元にあるスピーカーから、微かな、しかし明瞭な音が再生された。
それは、金属的な、規則正しい音だった。コツ、コツ、コツ……。誰かが、石畳の上を歩く、足音。そして、その足音に混じって、ごく微かに聞こえる、もう一つの音。
それは、まるで片方の足を引きずっているかのような、不規則なリズム。
その音を聞いた瞬間、ロゴスの記憶が、再び鮮烈に蘇った。
師、ソフィアが死んだ、あの爆発現場。彼が視た、誰にも証明できなかった『論理の亀裂』。それは、外部から安全装置が操作された痕跡だった。そして、その亀裂のすぐそばに、もう一つ、彼だけが視ていた、微細な痕跡があった。それは、犯人が残した、不鮮明な足跡。
その足跡は、片方だけが、異常に深く、地面にめり込んでいた。
「……同じだ」ロゴスは、喘ぐように呟いた。「あの時の犯人と、同じ……」
「ロゴス様?」
「……犯人の『右手』。そいつは、足が不自由なんだ。おそらく、片足が義足か、あるいはそれに近い何かだ。だから、歩く時に、独特のリズムを刻む。ソフィアを殺したのも、そして、ゼノンを殺すための偽装工作を行ったのも、同じ男だ!」
過去と現在が、完全に一つに繋がった。長年、彼を苛んできた亡霊の正体が、今、初めてその輪郭を現したのだ。
その時だった。
「野良犬!見つけたぜ!」
ギデオンが、コンソールを叩きながら叫んだ。彼のモニターには、先程の暗殺者『シャドウ』が宿泊している安宿の、詳細な内部見取り図と、彼の部屋番号が表示されていた。
「第十五区画、『忘れられた歯車亭』の最上階、404号室だ!今夜、奴は間違いなくそこにいる!」
ロゴスは、ゆっくりと顔を上げた。彼の瞳には、もはや過去を悔やむ影も、未来を恐れる色もなかった。そこにあったのは、全ての謎が解き明かされ、狩るべき獲物の姿が明確になった、ただ一人の探偵の、静かで、そして燃え盛るような光だけだった。
「アニマ。ギデオン」
彼は、二人の仲間へと向き直った。
「これから、反撃を開始する」
<あとがき>
新作『コギト・エルゴ・モルテム』の第十三話をお読みいただき、誠にありがとうございます。
過去と現在、二つの事件の真相が、ついに一本の線で繋がりました。空白の3分間に隠された、悪魔的な偽装工作。そして、師を殺した犯人の、意外な特徴。全てのピースが揃い、物語は次なるステージ、反撃の章へと突入します。
もし、この先の二人の戦いにご期待いただけましたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者の何よりの励みになります。皆様の一つ一つの声援が、この物語を突き動かす最大の力となります。
ついに、探偵は反撃の牙を剥く。どうぞ、お見逃しなく。




