表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
12/53

1.3.4.(第12節)「最初の問いへの答え」

全ての歯車は、一つの軸へと収斂する。

焦げ付いた砂糖の香り、古代の結晶、二つの死体、そして死者が遺した最後の声。

バラバラだった謎の欠片が、探偵の頭脳の中で、巨大な陰謀という名の絡繰機械を組み上げる。

最初の問い――なぜ、彼は殺されたのか。その答えが、今、明かされる。

それは、都市の魂を掌握しようとする、神をも恐れぬ計画の始まりだった。

反撃の狼煙が、今、上がる。

時間の感覚は、濃密なオイルの滴りとなって、ギデオンの店の淀んだ空気の中をゆっくりと落ちていく。店の奥、ガラクタの山に囲まれた作業台だけが、複数のモニターが放つ青白い光に照らされ、まるで嵐の中の灯台のように、この混沌とした空間の唯一の中心点となっていた。そこで繰り広げられているのは、静かで、しかし熾烈を極める戦争だった。ギデオンの節くれだった指が、老練な将軍のようにコンソールのキーボード上を舞い、難攻不落の要塞である『迷宮式連鎖暗号』の城壁に、絶え間なく砲火を浴びせ続けていた。

ロゴスは、壁に背を預けたまま、その光景を黙って見つめていた。彼の思考もまた、この数時間、出口のない迷宮を彷徨い続けていた。マキナ卿という名の、巨大で、輪郭のぼやけた敵。その男が張り巡らせた、過去と現在を繋ぐ蜘蛛の巣。その巣に絡め取られた、師ソフィアと、評議会顧問ゼノンの二つの死。そして、自らが振るう『論理的鋭敏性』という、呪いにも祝福にもなりうる、あまりにも不確かな武器。全てが、不確実性の霧の中に沈んでいた。

彼の隣では、アニマが微動だにせず佇んでいた。彼女のサファイアの瞳は、モニターに映し出される無機質な文字列の奔流を、人間には到底不可能な集中力で追い続けている。彼女のAIコアは、ロゴスとは全く違うやり方で、この迷宮の構造を、その法則性を、ただひたすらに、純粋な論理の力だけで解き明かそうとしていた。彼女が流した一粒の涙は、すでにその白い頬の上で乾いていた。だが、その残響は、彼女のAIコアの奥深くで、主の無念を晴らすという、決して消えることのない熱源となって燃え続けていた。

「……くそっ。あと一歩だ。あと一枚、壁をぶち破りゃ、中枢コアに届く」

ギデオンが、錆びついた歯車が軋むような声で唸った。彼の額には、脂汗が玉のように浮かんでいる。

「だが、最後の壁が、これまでとは桁違いに厚え。まるで、この迷宮の設計者自身が、自らの心臓を守るために作り上げた、最後の絶望そのものだ。パスフレーズか、あるいは生体認証キーか……何らかの物理的な『鍵』がなけりゃ、これ以上は……」

その言葉が、ロゴスの思考の霧を切り裂く、一筋の閃光となった。

『鍵』。

外部にある、合言葉のような情報。

彼は、おもむろに立ち上がると、作業台へと歩み寄った。そして、ポケットの中から、燃え盛る事務所から持ち出した、あの黒いデータチップを掴み出す。

「ギデオン。試してみたい言葉がある」

彼の声は、静かだったが、その奥には、確信にも似た奇妙な熱がこもっていた。

「このチップの表面に、製作者が遺した言葉が刻まれていた。『真実には、代償が伴う』。それを、最後のパスフレーズとして入力してみてくれ」

ギデオンは、訝しげな表情でロゴスを一瞥した。

「……野良犬。そいつは、詩か?それとも、ただの警句か?こんなもんで、ギルドの最高機密の扉が開くたあ、思えねえが」

「いいから、やれ。この暗号の設計思想には、二つの矛盾した意図が込められていると、あんたは言った。一つは、絶対に解読させないという鉄壁の意志。そしてもう一つは、特定の誰かにだけ情報を託すための、意図的な『裏口』。その裏口を開けるのは、複雑な数式じゃない。設計者が、信頼する誰かにだけ分かるように遺した、ごく個人的なメッセージ……彼の哲学そのものだと、俺は睨んでいる」

ロゴスの瞳には、もはや迷いはなかった。彼の論理的鋭敏性は、物理的な世界の矛盾だけでなく、人間の思考の奥底に潜む、論理の癖や矛盾をも見抜く。カレル・アンベルクという若き研究員。彼は、自らの命が危険に晒されていることを知りながら、なぜこのチップを遺したのか。それは、誰かに、この真実を託すためだ。そして、その『誰か』とは、同じように真実を追い求め、そのために全てを失う覚悟のある人間でなければならない。その覚悟を問う言葉こそが、この最後の扉を開く、唯一の鍵なのだ。

ギデオンは、大きく息を吐くと、キセルの煙を天井に燻らせた。

「……分かったよ。お前さんの、その証明不能な勘に乗ってやる。だが、もしこれでデータが自己崩壊を起こしても、俺を恨むんじゃねえぞ」

彼は、震える指で、コンソールにゆっくりと、一語一語、確かめるように言葉を打ち込んでいく。

『真実には、代償が伴う』

エンターキーが押された瞬間、モニターを滝のように流れ落ちていた青白い文字列が、ぴたりと、その動きを止めた。

張り詰めた静寂が、店の中を支配する。

数秒が、まるで数時間のように感じられた。

やがて、モニターの中央に、一つの幾何学模様がゆっくりと浮かび上がった。それは、複雑に絡み合った鎖が、音もなく解けていくような映像だった。そして、全ての鎖が解かれた後、画面は一度、暗転し、やがて、一つのファイルが開かれたことを示す、簡潔なメッセージだけが表示された。

『――ファイル、アクセス許可。記録者:カレル・アンベルク』

「……開いた」

ギデオンの嗄れた声が、震えていた。

ロゴスは、息を詰めてモニターを覗き込む。そこに表示されたのは、おびただしい量の、技術資料と、個人的な研究日誌、そして、断片的な通信ログの断片だった。

「アニマ。全データを記録、即時分析を開始しろ。特に、『時空間結晶』と『論理の錆』、そして『マキナ卿』の三つのキーワードに関連する情報を最優先で抽出だ」

「はい、ロゴス様!」

アニマは、自らの視覚センサーとギデオンのモニターを直接リンクさせ、人間には到底不可能な速度で、膨大な情報の海へとダイブしていく。ロゴスとギデオンは、彼女の分析が終わるのを、ただ固唾を飲んで見守るしかなかった。

数分後。

アニマは、ゆっくりと顔を上げた。そのサファイアの瞳には、これまでにないほどの、深い光が宿っていた。それは、驚愕と、恐怖と、そして、一つの巨大な謎が完全に解き明かされた瞬間にだけ訪れる、畏敬の念が混じり合った光だった。

「……ロゴス様。全て、繋がりました」

彼女の声は、静かだったが、その一言一言が、この店の澱んだ空気を切り裂く刃のように、鋭く響き渡った。

「カレル研究員は、ゼノン様の依頼を受け、『時空間結晶』の解析を行っていました。そして、彼はその結晶が、単なる情報記録媒体ではないことを突き止めました。それは、都市のあらゆる思考機関の動作ログを、リアルタイムで、強制的にミラーリングし、記録し続ける、一種のブラックボックスだったのです。そして、そのログの中から、彼は恐るべき事実を発見しました」

アニマは、一呼吸置いた。

「『論理の錆』が、初めて公式に確認される、さらに数ヶ月も前から。都市の複数の思考機関に、外部から、極めて微弱な、しかし意図的なエラー信号が、断続的に送り込まれていた記録です。カレル研究員は、これを『論理の錆を誘発させるための、種のようなもの』だと推測しています。そして、その信号の発信源は、ただ一つ。技術魔術師ギルドの、ギルドマスターの執務室……マキナ卿のプライベート回線からでした」

それは、ゼノンが遺した告発音声を、揺るぎない技術的証拠で裏付ける、決定的な一撃だった。

「だが、それだけじゃないはずだ」ロゴスは、低い声で促した。「奴の目的は、単に錆を発生させることじゃない。もっと大きな……」

「はい」アニマは肯定した。「カレル研究員の最後の日誌に、彼の最終的な結論が記されていました。彼は、時空間結晶の真の機能を発見してしまったのです。それは、思考機関のログを『記録』するだけではない。特定のコマンドを入力することで、記録した過去のログを、現在の思考機関に『上書き』し、その動作を強制的に乗っ取ることができる……つまり、『論理の錆』の発生そのものを、自在にコントロールできる、究極のバックドアだったのです」

その瞬間、ロゴスの頭の中で、全ての歯車が、一つの完璧な機構として、音を立てて噛み合った。

彼は、床に広げられた羊皮紙へと再び向き直ると、まるで何かに憑かれたかのように、チョークを走らせ始めた。

「……そういうことか。全て、最初から計算されていたんだ」

彼の声は、もはや誰に語りかけるでもない、純粋な論理の奔流そのものだった。

「最初の問い……なぜ、ゼノン顧問は殺されたのか。彼は、マキナ卿の計画に気づいた。マキナ卿は、自らが開発した『論理の錆』を使い、都市のインフラに意図的に混乱を引き起こす。そして、その混乱を収拾するという名目で、評議会に時空間結晶の『緊急時における限定的な使用許可』を認めさせる。だが、それは表向きの口実だ。一度、結晶が思考機関に接続されれば、奴はいつでも、都市の全ての機能を、その手中に収めることができる。思考機関は、この都市の心臓だ。それを掌握するということは、このイゼルガルドの、神になることに等しい」

ロゴスは、羊皮紙の上に、イゼルガルドの都市構造と、思考機関のネットワーク、そして、その頂点に君臨するマキナ卿の姿を描き出す。

「ゼノン顧問の殺害は、単なる口封じじゃない。あれは、計画の始まりを告げる、壮大な儀式だったんだ。第四区画の思考機関を暴走させ、大規模な『論理の錆』の被害を意図的に作り出す。これにより、評議会と市民に、錆の恐怖を植え付け、時空間結晶という『切り札』の必要性を、誰もが認めざるを得ない状況へと誘導する。完璧な脚本だ。そして、その計画の邪魔になる、唯一の協力者、カレルを、『左手』である暗殺者を使って消した。おそらく、カレルがチップを隠したことに気づいた奴は、今も血眼になってそれを探しているだろう」

ロゴスは、チョークを置くと、ゆっくりと立ち上がった。彼の目の前の羊皮紙には、巨大な陰謀の全体像が、まるで悪魔の設計図のように描き出されていた。

最初の問いへの答えは、出た。

それは、ロゴスが当初想像していたような、単なる殺人事件の謎などではなかった。それは、一人の人間の狂気的な野心が、この都市の全てを飲み込もうとする、壮大な支配計画の、ほんの序章に過ぎなかったのだ。

「……野良犬。どうするんだ」

ギデオンが、静かに問うた。

「お前さんが暴いたそいつは、もはや一介の探偵がどうこうできる代物じゃねえ。下手に動けば、今度こそ、灰にもなれんぞ」

「ああ、分かっている」

ロゴスは、獰猛な笑みを浮かべた。その瞳には、恐怖も、絶望もなかった。そこにあったのは、あまりにも巨大で、あまりにも美しい謎を前にした、ただ一人の探偵の、純粋な歓喜の光だけだった。

「だが、どんなに巨大な絡繰機械も、一つの歯車が狂えば、いずれは崩壊する。俺たちの仕事は、その最初の歯車を、叩き壊すことだ」

彼は、アニマの方へと向き直った。彼女は、静かに、しかし力強く頷き返す。そのサファイアの瞳には、ロゴスと同じ、揺るぎない決意の光が灯っていた。

「アニマ」

「はい、ロゴス様」

「これから、俺たちはマキナ卿の計画を阻止する。そのための、最初の行動を開始する。準備はいいか?」

「はい。いつでも」

その時、店の奥で、別のモニターが、静かにアラートを鳴らした。それは、ギデオンが仕掛けていた、都市の裏社会の監視網が、新たな情報を捉えたことを示す合図だった。

ギデオンはモニターを一瞥すると、にやりと汚れた歯を見せた。

「……どうやら、お前さんたちが叩き壊すべき『最初の歯車』の居場所が、分かりそうだぜ、野良犬」

モニターには、一人の男の、不鮮明な監視カメラの映像が映し出されていた。その男は、左手で、器用にナイフを研いでいた。

ロゴスとアニマは、無言で顔を見合わせた。

長かった夜が、明けようとしていた。

そして、それは、イゼルガルドの運命を賭けた、本当の戦いの始まりを告げる、錆色の夜明けだった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます。『コギト・エルゴ・モルテム』第十二話、そして第一章の最終話、いかがでしたでしょうか。

全ての謎が一本の線で繋がり、ついに巨悪の計画の全貌が明らかになりました。最初の問いへの答えは、さらなる巨大な戦いの序曲に過ぎませんでした。

物語の続きにご期待いただけるようでしたら、ぜひブックマーク(下の★)と、評価(下の☆☆☆☆☆)で応援していただけますと、作者の何よりの励みになります。皆様の応援が、この物語がランキングを駆け上がり、より多くの方に届くための直接的な力となります。

絡繰探偵と自動人形の少女の反撃を、どうか見届けてください。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ